くらい、そら
『どうして、お前が!?』
裡なる穢見ルの叫びに、外套の少年はくつくつと笑った。どうして。彼女の言葉はわたしにしか聴こえていないはずなのに。
ローブを上げると、「ひッ」という声がわたしの喉から自然に発せられた。のっぺらぼう、とでもいえばいいのだろうか、人間の顔としてあるべきパーツがなく、ベタで塗られたように真っ黒だった。そこに底なしの空乏のような白い眼が2つ、こちらを見つめている。
『そんな姿になってまで』
「どんな姿になったとしても――」
表情は伺えなかったが、そのとき、そいつは笑ったんだと思う。嗤ったのではなく、微笑んだのだ。この異様な殺意とは裏腹の、柔らかい笑みを浮かべたのだ。
「迎えに行くと、誓った」
『そんな……』
「だけど、なんだこの有様は。せっかく永久の秩序を築いたのに、それを崩そうとしているやつがいるらしいじゃないか」
築いたのに?
この世界のことには詳しくはないけれど、出雲中央政府がほんの十数年で出来たわけではないだろう。『信仰』と『恵み』のシステム。その一元化。
「この『箱庭』に『物語』はいらない。そんなことをしているほど人類には余裕がないのさ。歓びも哀しみも、何もいらない。『秩序』だけがあればいい」
この少年はいったい――。
彼を指差す。
「わたしはお前を『観測』した!」
「勝手に詮索をしてくれるな、外の『観測の魔女』。ボクは彼女に用があるのであって、お前には用はないんだよ」
「……なにこれ」
対稲荷いののときより、対神憑のときより、わたしの『観測』の力は精度を増しているはずだった。が、それでも頭が割れるような痛みに襲われる。なんだこれは。
この、膨大な量の情報は――。
「『そらなき』?」
「不躾なやつだな、君は」
※
それは遊園地に向かうバスの中だった。
「それじゃあ、しゅっぱつしんこーですよー!」
そう、六脚式巨大移動都市の操縦者、『箱庭の魔女』が言う。彼女は基幹システムに語りかけ、猫の目のような瞳孔で、魔法を使って、都市を動かしていた。
「もし悪いことをしたら、お仕置きですよー!」
そう、六脚式巨大移動都市の調停者、『観測の魔女』が言う。彼女は基幹システムに記録されたデータの閲覧権限があり、猫の目のような瞳孔で、内部秩序の管理を行っていた。
ガルガンチュア。
それがボクたちの楽園だった――。
『世界の滅び。目的地を喪った、都市バス。多くの混乱の末に、2人の魔女は失われてしまったけれど、あるひとりの少年が、この『信仰』と『恵み』のサイクルにより維持される社会を実現した』
穢見ルの声だった。
「そうさ。しかし、長引く社会の混乱のせいでガルガンチュアは機能不全に陥っていた。人々の『意志』によって、この『箱庭』は駆動しているから」
『だから、基幹システムに人柱を立てる必要があった。社会が安定するまで、一心不乱に生き延びることを祈念し続けるための巫女』
ガルガンチュアの基幹システムと一体化し、すり潰されるほどの長い時間の中で、ただただ友人やその子孫たちの死を見つめ続ける存在。
そして、残された少年は少女のために、『社会』をより強固なものとした。世界が滅びるまでこの社会を見つめ続ける、彼女に笑われないように。
そして。
「ばいばい、そらくん」
「どんな姿になったとしても、君を迎えに行く」
「……うん。そうだね」
優しい嘘と彼女は想い、頷いてしまった。
『観測』したのは、紛れもない『箱庭』の物語。
※
『九十九、避けて!』
穢見ルの咄嗟の一言で、わたしは『観測』の力から脱することができた。わたしの予想を遥かに超えた情報量の多さにフリーズしてしまっていた。さっきまでわたしがいた空間を、少年の漆黒の腕が貫く。
「ボクを『観測』したな?」
「あなたは――」
「赦さないよ」
外套からだらりとたらされた腕も漆黒に染まっている。触れてはならない。わたしの中の何かがそう告げている。神性存在である稲荷いのも、出雲中央政府の神具である神憑の力も、忌み子と呼ばれた柊憂姫でさえも、彼には敵わないのだと、わたしは『観測』してしまった。
が。
『九十九!』
彼の猛攻(彼にとっては児戯に過ぎないのかもしれないけれど)に対して、わたしが取れる対処はほとんどがなかった。ましてやお腹に数キロの重りがあり、サンダル履きで、運動不足である。『観測』の力で先読みをしたとしても、身体がどうやっても付いて来ない。
「せっかくこの世界から2人の魔女を排除したんだ。お前はここにいちゃダメなんだよ」
バランスを崩し、玄関で尻もちをついてしまう。わたしを覗き込むように、漆黒に白い点だけの顔が笑い、右腕を掲げる。
わたしの猫の眼は法則の改変を観測する。無数の円環が爆ぜて、緑青色の輝きが狭い玄関で生まれては消える。法則を説き伏せるのに用いられるのは光子。その中でもほぼ最上級に純粋なエネルギーがこの色だった。置物であったり、床、天井が、アイスクリームディッシャーで抉られたように『消滅』する。
箱庭を支配する法則に、『忘れられる』。
「消えろよ!」
迫り来る『消滅』そのものを見つめて、無限に引き伸ばされた時間の中で、わたしはあの黄泉比良坂の『宮』と呼ばれた空間の、穢見ルを見つめていた。黒い表紙の古書を取り落とし、彼女は何か言わなければと口をぱくぱくさせているが、やがてそれを諦め、どこか愛おしそうな表情で、どこか寂しそうな表情で、じっとそらを見つめていた。
『ごめんなさい』
小さな唇がそう動き、引き伸ばされた時間が収縮する。わたしはとっさにお腹をかばって丸くなった。ごめんなさい。まもなく消えてしまうわたしは、それを誰に言えばいいのだろう。
「皇流結界術『八咫の鏡』!」
「なんだと」
見れば、おうま君がわたしの前に立ちふさがっていた。少しだけ大きくなった、けれど、まだ小さな少年が、問答無用の消滅の力の前に、立ちふさがってくれていた。
「まだ生きていたか、『失敗作』」
「九十九はぼくが守るよ」
※
「そらなき」
山田 四三――、山田教授は、数多くのディスプレイが立ち並ぶその部屋で、そう呟いた。
紫煙を吐く。画面にはいま交接している、あるいはかつて交接した無数の『箱庭』の情報が羅列されている。『Rock’n’Roll』『Platenes』『Silent Witch』『ΛLICE』。
手元には、古びた巻物がある。
わたしの祖先が生まれた、かつて東方にあったという小さな島国。独自の文化を育んだその国は、多くの文化を生み出し、それをベースとしてこの『箱庭』は造られた。
「百鬼夜行」
百の魑魅魍魎と夜を行く世界。その巻物には終りがある。それはそうだ。この時代のヒトは、紙に遺すことしか後世に伝える術がなかったのだから。
その物語絵巻のエンドマークのように描かれている、『常闇の太陽』。すべての魑魅魍魎の力の及ばない、『物語を終わらせるモノ』。
「空亡」
それは後世に後付された伝承だったのかもしれない。が、わたしたちの数える西暦からすれば、誤差の範囲でしかない。それにここは、『箱庭』。法則を説き伏せることのできる、魔法の世界――。
初期スタッフのいたずら心だったのかもしれない。本来は表に出ることのないデータ。それをSF世界からやってきたわたしは見つけてしまった。
そして、あらゆる呪術を使って生きながらえていた少年の魂の器としてしまった。それが誤ちだったとは思わない。わたしにはそれを判断する能力がない。
興味があるだけだ。
『物語を終わらせるモノ』が紡ぐ、『物語』に――。
「すめらぎ、そら」
千年前に残されたボロボロの名札には、そう書かれていた。
「君はまだ泣いているのかい」




