黄泉比良坂は遠く
主よ、わたしは罪を犯しました。
主よ、わたしは罪を犯していると知りつつ、その甘さに溺れ、自らを省みることをしませんでした。
ああ、ヒトに等しく恵みを与える八百万の神でありながら、わたしはなんて罪深いのでしょうか。
「でも、」
愛しい者から放たれた神殺しの神器『神尽き』が胸を貫くその一瞬、無限に引き伸ばされたその一瞬に、榎夏姫は追憶する。
「何も赦しが欲しくて告白しているわけではないのです。主よ。ああ、主よ。この罪こそがわたしとあの人をつなぐ絆なのですから。この罪だけは、たとえあなたにさえ赦させはしない」
だから、わたしは裁かれなければいけない。この甘い日々に溺れながらも、いつか誰かに裁かれる日を待っていた。そしてそれこそが、尾裂に迷惑をかけない唯一の手段であるのだから。
――お先に待ってるよ。
一度は、四季社で裁かれようとした。が、それは迫り来る大鎌を前に、尾裂に助けられた。そして一匹の管狐を護衛に付けられて、四季社裏の森の奥へと逃げていった。
「何年付き合ってると思っているのよ」
彼の考えていることは、予測がついていた。世界が『冬』に包まれたとき、それは確信に変わった。事情はわからないけれど、わたしが四季社を出ただけではこれほどの寒冷化は起きない。『なんでもない季節』が訪れるだけだ。
柊憂姫。そして彼女と彼を結ぶ線は、復讐だった。
護衛についていたはずの狐がふよふよと四季社に戻ろうとするのを、わたしは尾けていて、やがて決定的な場面に出逢うことになった。
「『天網恢恢』、尾裂課長、参る」
「奇想天街が冬の四季神、柊憂姫。あの大鎌もなく、丸腰の人間風情が神に逆らおうなんて千年早いわ」
「それが傲慢だと言うのだ」
「それ生意気って言うのよ」
2人の殺意をわたしは『観測』し、そして『選択』をした。憂姫に大切なヒトを殺させるわけにはいかなかったし、尾裂に大切な友神を殺させるわけにはいかなかった。つまるところ選択肢はひとつしかなかった。導かれるように、わたしはその裁きに身を委ねた。
信仰で形造られた、いわばその全身が魔法(法則改変)でできているわたしの身体に、尾裂の管狐が咥えた『神尽き』が触れる。あらゆる法則改変のキャンセルアウトという絶対特性を持つそれは、わたしの魂を問答無用で砕くものだ。
――いま、わたしはどこにいるのだろうか。
「ここは……」
わたしは歩いていた。暑くもなく寒くもなく、ただただ殺風景な坂を歩いていた。ああ、これは境目だ。こちらとあちらを隔てるための境目。
無限とも思える階段に、数え切れないほどの朱の鳥居。
こんな罪深い神にも死後の世界を与えてくれるなんて、主はなんてサービス精神旺盛なのだろう。あるいは、これは地獄へと至る道すがらなのだろうか。
「……誰?」
「あら、珍しいお客さん」
鳥居の上に腰掛けている和装の少女は、手に持っている黒い表紙の古書をパタリと閉じた。表紙には『件』の白文字。悪い未来を予言して死んでいく、人頭牛体の妖怪の名。
脚をぶらぶらとさせながら、こちらを見下ろしている。りん、と袖につけられている大きな鈴が鳴った。
「わたしは山田 穢見ル。山田の姓を刻まれた、穢れを見る者。ここは舞台袖よ、夏姫さん」
「どうしてわたしのことを……」
「すべてこの本に書いてあるの。それでも揺らぎは存在するけれど。『観測』し、『選択』をした結果、あなたはここに来た。なら、『結果』は収束しているわ」
よくわからない。
あの魑魅魍寮の『ひょん』に似ているような気がした。思わせぶりな座敷童。戸惑うわたしに、少女は悪戯げに微笑んでいる。
「あなたはまだこっちへ来てはいけないわ。やり残したことがきっとあるはず」
「……ううん。そんなことはないわ。もう十分いい思いはさせてもらった。わたしはひまわりになりたかったんだ。どんな悲惨な目に遭っても立ち上がろうとする、太陽のようなあの人をずっと見つめていたかったけど」
「あなたはひとつ忘れているのよ」
そうして山田穢見ルはぱらぱらと黒い表紙の古書を遡り始めた。内容にしておよそ14話ほどだろうか。少女は瞳を輝かせながら、わたしを指差した。
「『観測』し、『選択』をした。それは素晴らしいこと。でも、あなたの『観測』は間違っていたの。だからその『結果』は収束しない」
彼女はわたしを――、いや、わたしの下腹部を指差していることがわかった。どく、どく、と小さな鼓動を感じる。暖かさを感じる。生命の強さを感じる。
「『忌み子』?」
「そう」
ヒトと交わった八百万の神が産み落とす半人半神。柊憂姫がそうだが、『忌み子』は規格外の力を有すると言われている。信仰を糧に形造られる八百万と、八百万の恵みによって信仰をするヒトの、その両方の要素を持ち合わせているから。さながら尾を食べる蛇のように、無限にその力は加速していく――。
「この子がわたしを信じている?」
「そう!」
穢見ルは身を乗り出して頷いた。
「だからこの先へは行かせない。あなたには逝く権利がない。ヒトと交わった夏神さん、願ったことすべてが叶う世界じゃなくても、罪と罰の輪舞曲を踊りなさいな」
わたしは恐る恐る、その坂の階段を一歩降りてみる。頂上は遥か霞んで見ることはできない。そこにわたしは、幼いころに逢ったきりの憂姫の母親を見たような気がした。いま、憂姫が着ているような白い着物を身にまとって、静かにこちらを見つめている。瞬きをしたら、そこにはもう誰もいなかった。
鳥居の上で、山田穢見ルが微笑んでいる。
「……戻ってもいいの?」
「もちろん。あなたの大切なヒトと、大切な友人が呼んでいるわ。あ、それから、眼を醒ましたらこう言ってやりなさいな」
ああ、裁かれるべきわたしはこうしてまた赦されてしまう。でも、あなたと一緒にならどんな辛い運命でも乗り越えていけそうな気がしていた。
――いいえ、この子と三人で。
「生きていこう」
黄泉比良坂は遠く、光の溢れる中へとわたしは駆け下りていく。
※
「あ……」
暖かな世界がわたしを迎えてくれた。
後頭部に感じる柔らかなそれは憂姫の膝枕だろうか。尾裂がいままでに聞いたこともないような情けない声でわたしを呼んでいることがわかった。せっかくだからもう少しだけ聞いていたいけれど、あんまりにも可哀想だから、わたしは目を開いて彼を見た。
「この子が守ってくれたの、パパ」
また見たこともないような顔をする尾裂を見て、わたしは吹き出してしまった。ああ、これからこういう思い出をたくさん作れるのだと思うと、胸が締め付けられるようだった。この子が信じてくれたからこそ、わたしはまだこのかたちを保っていられる。
そんな尾裂を絶対零度を下回る瞳で睨みつける憂姫に気づいて、また吹き出す。
「憂姫」
「ん」
「いまならあなたのお母さんの気持ちがわかるよ」
――きっと。
※
山田穢見ルはページを捲る。
黒い表紙の古書『件』、彼女の指はそのおよそ75%のところに挟まれている。終りが近い。あと少しの片付けを経て、あの魑魅魍寮の夏が終わる。
「そうしたら、秋だ」
神の無い月に向けて、物語は疾り出す。
「ひょん、九十九を魑魅魍寮に運んでおいて」
「ねえ、この四季神の事件さ、山田九十九に何の関係があったの。たしかにこの奇想天街にとっては重要な事件だったけど、九十九には直接関係ないじゃないか。中ボス感で倒されてそのまま、この『宮』に匿われて」
「話すと長いわ、あと二十話くらい掛かりそう」
「……じゃあ、いいよ」
次回:ヒトーと楸




