第18話:音無き暗殺者と、不可侵の城塞(前編)
死の荒野『灰のヴェール・ガルド』。
生命を拒絶するその絶望の地の中心に、突如として出現した黄金と白銀のドーム。王国の上層部は、それを「看過できない極大の異端汚染」と認定した。
その不可侵の結界の『内側』――影の隙間を縫うようにして、一切の音も魔力も発することなく滑る一つの影があった。
王国の暗部、特務暗殺部隊『影刃』の筆頭。
名前すら持たず、ただ『シオン』という暗号名のみを与えられたその少女は、王国の国宝級アーティファクトである『影縫いの外套』を深く被り、城塞の内部へと侵入を果たしていた。
(――潜入成功。対象の防壁は物理と魔術の双方を完全に遮断する神聖結界であったが、『影という概念そのもの』を転移経路とする外套の恩恵により、検知を回避。これより、目標である『異端の農業魔術師』の排除行動に移行する)
シオンの紫色の瞳には、一切の感情が宿っていない。
彼女の脳の最深部には、王国最高の呪術師によって『絶対服従の呪印』が刻み込まれている。恐怖も、迷いも、そして生への執着すらも削ぎ落とされた、ただ任務を遂行するためだけの精巧な生きた人形。それがシオンという存在だった。
城塞の広大な大広間。
天井で淡く輝く星の果実のシャンデリアから伸びる影に潜みながら、シオンは眼下の光景を冷静に分析した。
(目標、セト・ローウェルを確認。……周囲には四名の生体反応。それぞれが、規格外の魔力波長を放っている)
大広間の中央、豪奢なソファに深々と腰掛ける黒髪の男。
そしてその足元や傍らには、信じられない顔ぶれが揃っていた。
「セト様、アーンして。今日採れたばかりの星の果実、すっごく甘いんだよ!」
「ミリア、抜け駆けはずるいですわよ。セト様、わたくしの胸元で絞った果汁の方も、ぜひ……」
銀狼の獣人と、かつて王国の筆頭研究員であったフィアナが、男の両脇にすり寄りながら、まるで発情した雌犬のように甘い声を上げている。
「セト様、北側の魔石プラントの出力、今日も百二十パーセントで安定していますわ。私の魔力、全部あなた様のために……っ」
「ええ、クロエのエネルギー供給のおかげで、私の防壁もかつてない強度を誇っています。……あぁ、セト様の結界と繋がっているだけで、今日も胸の奥が熱くて……っ」
さらに、深淵の鉱山に幽閉されていたはずの闇精霊クロエと、あろうことか王国最強の白銀の聖騎士であったエレナまでもが、男の足元にひれ伏し、蕩けきった熱い視線を送っているではないか。
(思考エラー。対象の魔力波長、および精神状態が、王国のデータと完全に矛盾。……高潔であったはずのエレナ・オルトリンデが、なぜあのような卑猥な表情で男に傅いているのか)
シオンの論理回路が微かな軋みを上げる。
しかし、彼女の脳に刻まれた呪印が、即座にその疑問を強制終了させた。
(疑問の破棄。私の任務は、目標の心臓を停止させることのみ)
シオンは一切の殺気を消し去った。
手にした刃は、触れた者の魔力回路を瞬時に凍結・破壊する猛毒『絶対零度の呪毒』が塗布された短剣。
男は四人の女たちに囲まれ、完全に無防備な状態。
距離、二十メートル。影を伝えば、瞬きの一回よりも速く到達できる。
(――任務遂行)
音もなく、風すらも生み出さず、シオンの身体が天井の影から男の背後の影へと跳躍した。
完全なる奇襲。どのような達人であろうと、この『概念からの死角』を突かれた一撃を躱すことは不可能。
猛毒の刃が、セトの無防備な首筋へと吸い込まれるように突き立てられる――はずだった。
「……殺気がなさすぎるのも、考えものだな。ただの冷たい石ころが飛んできたようにしか感じん」
ガキンッ!!
鈍い金属音が、大広間に響き渡った。
「な……っ!?」
感情を封じられているはずのシオンの瞳が見開かれる。
彼女の放った絶対必殺の刃は、セトの首筋に触れる数ミリ手前で、彼が振り返りもせずに背後へ伸ばした『二本の指』によって、完全に挟み止められていた。
「侵入者!? いつの間に結界を……っ!」
「セト様から離れなさい、この塵芥がっ!」
エレナとフィアナが即座に反応し、圧倒的なマナの威圧感を放って立ち上がる。
しかし、セトは二本指で刃を挟んだまま、ゆっくりと首を巡らせて背後の暗殺者を見据えた。
その傲慢で絶対的な瞳と視線が交差した瞬間、シオンは己の全身の血液が沸騰するような、かつて経験したことのない『熱の圧』を感じて戦慄した。
「慌てるな、お前たち。影の概念そのものを渡るアーティファクトか。エレナの物理・魔術防壁をすり抜けたのは褒めてやるが……俺の『聖地創生』の内部では、空間の主導権はすべて俺にある」
セトが指先に少しだけ力を込める。
ただそれだけで、国宝級の強度を誇るはずの呪毒の短剣が、まるで飴細工のようにメキメキと音を立てて亀裂を走らせた。
(対象の筋力、および魔力密度、計測不能。極めて危険。……第一任務失敗。規定プロトコルに則り、自律崩壊(自爆)モードへ移行――)
シオンは即座に刃を手放し、後方へ跳躍しようとした。
王国の暗部は、捕虜になることを絶対に許されない。任務に失敗した場合、脳内に刻まれた呪印が強制的に発動し、体内の魔力回路を暴走させて自らの肉体を跡形もなく吹き飛ばすよう設定されている。
彼女の胸の奥で、ドクン、と黒い呪印が脈打ち、致死量の魔力が膨張を始めた。
「――ほう。失敗したら自死するように、脳を弄られているのか」
だが、セトの動きは、自爆のプロセスすらも凌駕していた。
彼の手が伸び、後方へ跳ぼうとしたシオンの細い首をガッチリと掴み上げる。
「が、はっ……!」
「王国の連中は、相変わらず無能の極みだな。これほど美しい極上の器を、ただの使い捨ての爆弾としてしか運用できんとは。……俺の領地で、俺の許可なく命を散らすことなど、天地がひっくり返ろうと許さんぞ」
セトはシオンの首を掴んだまま、彼女の体内で暴走しようとしていた黒い自爆の魔力に対し、己の極大の黄金マナを容赦なく叩き込んだ。
「ア……ァァァァッ!?」
感情のない人形であったはずのシオンの口から、悲痛な絶叫が漏れた。
彼女の体内を巡っていた冷たく機械的な魔力回路に、セトの『生命力』そのものである黄金のマナが奔流となって流れ込んでくる。
それは、彼女の脳内に刻み込まれた王国の『絶対服従の呪印』を、物理的かつ魔術的に焼き切るための暴力的なまでの熱の濁流であった。
「あ、ア、アツ、イ……ッ! 私の、中の、命令式が……ッ!」
「これまでの奴らとは違い、徹底的に感情と痛覚を殺されているようだな。ならば、その凍りついた回路をドロドロに溶かし、雌としての『快楽』を根本から教え込んでやる必要がある」
セトは冷酷な笑みを浮かべ、首を掴む手にさらに力を込めながら、莫大なマナの供給を加速させた。
シオンの感情を封じていた氷の呪印が、セトの圧倒的な陽の魔力に触れ、ジュージューと音を立てて融解していく。
それに伴い、彼女がこれまで感じたことのなかった「痛み」「恐怖」、そしてそれらを一瞬で凌駕する「狂おしいほどの甘い快感」が、一気に脳髄へと押し寄せてきた。
(なんだ、これは……!? 王国のデータに、こんな……こんな波長は、存在しない……っ! 頭の奥が、溶けて……身体の芯が、熱くて、ジンジンして……っ!)
シオンの紫色の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
人形の目覚め。しかしそれは、自由意志への解放などという生易しいものではない。王国の冷たい呪縛から、セトという絶対的な王の燃え盛るような『熱の支配』への、より強固で逃れられない隷属への移行であった。
「ひぅっ、あ、あぁぁぁっ……! や、やめて……っ、私の……任務、が……っ」
「任務だと? そんな下らないものは今すぐ忘れろ。お前が俺の城に足を踏み入れた瞬間から、お前の唯一の任務は、俺の魔力に溺れ、啼き、俺の国を孕むための極上の苗床になることだけだ」
セトは抵抗するシオンの華奢な身体を引き寄せると、その青白い唇を強引に塞ぎ、さらなる黄金の熱を彼女の最も深い場所へと直接注ぎ込み始めた。
新たな標的。
過去のヒロインたちのような「救済」ではなく、冷徹な暗殺者の精神と呪縛を真正面から粉砕し、快楽の底へと叩き落とす、全く新しい『調教』の幕が開いたのであった。




