第13話:結界の拡張と、灰に沈む白銀(前編)
死の荒野『灰のヴェール・ガルド』に、魔導の城塞と豊穣の果樹園が現出してから数日が経過した。
城塞の防衛機能とマナの循環システムは、フィアナの異端の魔導工学とセトの無尽蔵の農業魔術が融合したことにより、完璧な安定を見せていた。外では相変わらず致死量の瘴気を孕んだ灰色の嵐が吹き荒れているが、黄金の結界『聖地創生』の内側は、穏やかな春の陽気と甘い果実の香りに満ちている。
城塞の一階に設けられた広大な観測室。そこでは、フィアナが何十枚もの不可視の魔力スクリーンを空中に展開し、凄まじい速度で数式を走らせていた。
「素晴らしい……。マナの循環効率、驚異の九十九・八パーセント。果樹園から供給されるエネルギーの波長は、わたくしの魔導回路の処理速度を日を追うごとに引き上げていますわ。これなら、更なる拡張も……」
「精が出るな、フィアナ」
背後から掛けられた低く落ち着いた声に、フィアナの肩がビクンと小さく跳ねた。
振り返ると、そこには王者の風格を漂わせたセトが立っていた。彼が近づいてくるだけで、フィアナの胸元に刻まれた魔力紋が甘く熱を帯び、彼女の体内を巡るマナが主人の存在に歓喜して激しく脈打つ。
「ああっ……セト様……」
フィアナは空中のスクリーンを即座に消去し、吸い寄せられるようにセトの胸へと顔を埋めた。セトの大きく分厚い手が彼女の艶やかな黒髪を撫でると、天才と謳われた研究者の理知的な瞳は、たちまち蕩けるような服従の色に染まっていく。
「システムは順調のようだな。お前の働きには満足しているぞ」
「もったいないお言葉ですわ……! わたくしの思考も、技術も、すべてはセト様のマナによって生かされているに過ぎません。あなた様に撫でていただくだけで、頭の奥が痺れて……自分がただの従順な雌になったような、絶対的な安心感に包まれますの……」
「その素直さこそがお前の最大の武器だ。だが、今日は観測室での作業はここまでにしておけ。これから『開墾』の第二段階に入る」
セトの言葉に、フィアナはハッと我に返り、頬を染めながらも研究者としての表情を引き締めた。
「第二段階……。つまり、現在の結界領域をさらに押し広げるのですね?」
「ああ。ミリアを呼べ。境界線へ向かうぞ」
数分後。
セト、フィアナ、そして元気いっぱいに銀色の尻尾を揺らすミリアの三人は、黄金の結界の最前列――死の灰の嵐と、緑豊かな大地がせめぎ合う境界線に立っていた。
目の前には、轟音を立てて渦巻く絶望の暴風壁。一歩でも結界の外に足を踏み出せば、瞬く間に生命力を奪われ、灰と化してしまう絶対死の領域である。
「セト、お外はすっごく嫌な匂いがするよぉ。お鼻が曲がっちゃいそう」
ミリアが獣人特有の鋭い嗅覚に顔をしかめ、セトの腰にギュッと抱きつく。
「安心しろ、ミリア。あんな薄汚れた嵐、俺の魔術ですぐに消し飛ばしてやる。フィアナ、結界の出力調整と地脈の固定の準備をしろ。これから、俺の『農業』でこの荒野の概念を喰い破る」
セトはそう言うと、空間収納魔術から一握りの奇妙な種を取り出した。
それは水晶のように透明で、中心に黄金色の星の瞬きを宿した美しい種子だった。
「それは……? 王国のデータベースには存在しない、未知の植物の因子……っ」
「『浄天の霊麦』だ。こいつは土から養分を吸うのではなく、大気中の瘴気と死の魔力を養分として成長し、周囲の空間を浄化する特性を持っている」
セトは一歩前へ出ると、境界線のギリギリの土にその種子を無造作にばら撒いた。
そして、彼自身の内側から溢れ出す、巨大な恒星のような圧倒的なマナを大地へと叩き込む。
「喰らい尽くせ。――『豊穣の神域:第二階位』」
ズゴゴゴゴゴォォォォッ!!
セトの詠唱とともに、大地が爆発的な鳴動を上げた。
ばら撒かれた透明な種子は、セトの規格外のマナと外側の死の瘴気を同時に吸収し、瞬きする間に発芽した。
「なっ……!? 信じられませんわ! 外部の致死性の瘴気を、そのまま光合成ならぬ『魔力合成』の触媒として利用するなんて……! 物理法則が、またしてもセト様の都合の良いように書き換えられていきますのっ!」
フィアナが背中の『魔導構築機』をフル稼働させながら、絶叫に近い驚嘆の声を上げる。
芽吹いた麦は数秒で大人の腰の高さまで成長し、黄金色に輝く穂を実らせた。そして驚くべきことに、その麦畑は自ら意思を持っているかのように、灰色の嵐の壁に向かって猛烈な勢いで増殖し、突き進んでいったのだ。
ザザザザザァァァァッ!!
死の灰が霊麦に触れた瞬間、浄化の光に変換され、無害なマナとなって大気を満たしていく。
セトの作り出した黄金の結界『聖地創生』は、霊麦の成長に引き上げられるようにして、数百メートル、いや、数キロメートルにわたって一気に外側へと拡大した。
「わあぁぁぁっ! すごい、すごーいっ! あんなに怖かった灰色の壁が、全部キラキラの麦畑になっちゃったよ!」
ミリアが歓声を上げ、新たに開拓された黄金の麦畑の中へと駆け出していく。
「はぁっ……はぁっ……セト様の、圧倒的な支配の力……。わたくしの魔導回路が、結界の拡張に同調して、焼き切れそうなほどの快感を……っ。セト様、わたくし、あなた様の強大さに、もう……どうにかなってしまいそうですわ……っ」
フィアナはその場にへたり込み、恍惚とした表情で自身の胸の魔力紋を強く押さえた。セトの魔術が行使されるたびに、彼女の精神と肉体はより深く、より強固に彼に隷属していく。それは恐怖ではなく、究極の庇護者にすべてを委ねるという、至上の喜びであった。
セトは狂喜する二人の少女を見下ろし、傲慢な笑みを浮かべた。
「これで、俺たちの領地はさらに広がった。この霊麦は食糧になるだけでなく、この土地の地脈を永遠に浄化し続ける。……ん?」
その時、黄金の麦畑を駆け回っていたミリアが、ピタリと動きを止めた。
彼女の銀色の狼耳がピンと立ち、風の音とは違う何かを捉えて忙しなく動いている。
「セト! フィアナちゃん! あっちの、麦畑の端っこ! 何か……お肉の焼けるような匂いと、鉄の匂いがするっ!」
「何だと?」
ミリアの警告と同時に、へたり込んでいたフィアナの魔導デバイスもけたたましい警告音を鳴らし始めた。
「生体反応を感知しましたわ! 結界が拡張したことで、それまで死の領域にあった『何か』が、わたくしたちの領地内に取り込まれたようです! ……し、しかし、この波形は……!」
フィアナの顔色が変わる。
セトは表情一つ変えることなく、ミリアが指差した方向へとゆっくりと歩みを進めた。
黄金に輝く麦畑をかき分けた先、まだ浄化されきっていない灰色の土の上に、一つの人影が倒れ伏していた。
それは、全身を白銀の重装甲に包んだ人物だった。
しかし、その美しいはずの鎧は瘴気によって無惨に腐食し、ひび割れ、赤い血と黒い灰にまみれている。
「白銀の鎧に、青薔薇の紋章……。間違いない、王国の誇る最強の武力機関、『聖騎士団』の装甲ですわ! なぜ、王国の騎士がこんな死の荒野の深部に……!?」
フィアナが警戒を露わにし、背中の機関部から戦闘用の構築糸を展開しようとする。
王国は、フィアナを異端として狩り立て、セトを無能として追放した憎き故郷である。その手先がここにいるということは、討伐隊が派遣されたのか。
だが、倒れている騎士はピクリとも動かず、兜の隙間からは浅く苦しげな吐息が漏れているだけだった。致死量の瘴気を浴び、すでに生命活動の限界を迎えているのは誰の目にも明らかだった。
「セト、この人、もう死んじゃうよ……。すっごく苦しそう……」
ミリアが不安げにセトの腕を掴む。
セトは見下ろすようにして、その倒れた騎士の傍らに立った。
王国の騎士。かつて自分を嘲笑い、底辺職だと蔑んで荒野へと追放した権力者たちの犬。
ここで見捨てて灰に還すのは容易い。
だが、セトの唇には残酷で、そして傲慢な王の笑みが浮かんでいた。
「命運の尽きた王国の犬か。……だが、俺の領地に転がり込んだ以上、その命の決定権は王でも神でもなく、この俺にある」
セトは騎士の首元に手を伸ばし、瘴気で癒着しかけていた兜の留め具を強引に引きちぎって、その兜を乱暴に脱がせた。
兜の中からこぼれ落ちたのは、灰と汗にまみれた、透き通るような金色の長髪。
そして、苦痛に歪みながらも、気高い意志を感じさせる美しい女性の顔立ちだった。
「女の騎士……。しかも、この純度の高いマナの残滓、只者ではありませんわ」
「ほう。これは良い拾い物をしたな」
セトは意識を失っている女騎士の顎を力強く掴み、その顔を自分の方へと向けさせた。
「王国に見捨てられ、死の淵に立つ誇り高き騎士よ。お前のその命、そして魂のすべてを、俺の王国の礎として買い取ってやろう」
灰の荒野で芽吹いた絶対的なハーレム王国に、新たな、そしてかつての故郷からの『迷い子』が足を踏み入れた瞬間であった。




