プロローグ 記憶の目覚め
春の陽光が窓辺を照らす午後、霧島凪は図書室の隅で静かに目を閉じていた。
古い本の香り、木製の書架が軋む音、そして窓の外から漏れ聞こえる部活動の声。すべてが遠く感じられた。
「凪? また居眠り?」
優しく肩を揺する声に、凪はゆっくりと目を開けた。そこには、親友の春野詩音が心配そうな表情を浮かべて立っていた。
詩音の長い黒髪が春の陽を受けて輝いている。制服の襟元から覗く白い首筋に、ほんのりと桜色が差している。
「ごめんね、詩音」
凪は微笑みながら言ったが、その瞳の奥には複雑な感情が渦巻いていた。
一週間前、凪は真実を知った。自分が「記憶保持者」であり、数千年分の前世の記憶を持っているという事実を。そして、この世界が実験場であるという驚くべき真実を。
そして何より、親友の詩音にすべてを打ち明け、彼女がそれを受け入れてくれたという事実を。
「また、記憶が蘇ってきたの?」
詩音は凪の隣に腰掛けた。その仕草には、いつもの自然な親密さがあった。
「ええ……」
凪は窓の外を見つめた。桜の花びらが、春の風に舞っている。
そして、また記憶が蘇る。
* * *
古代ギリシャの神殿。
巫女として仕えていた時の記憶。
同じように神殿で仕えていた少女がいた。黒い瞳と、長い黒髪。そして、どこか詩音に似た優しい微笑み。
二人で夕暮れの神殿を掃除しながら、密やかな会話を交わしていた日々。
そして、疫病が街を襲った日。少女は病人たちの看病に献身的に仕え、そして自らもその病に倒れた。
最期の時、少女は凪の前世の手を握りしめ、こう言った。
「また会えるわ。きっと……必ず」
* * *
「凪?」
詩音の声で現実に引き戻される。
「大丈夫。ただ、少し懐かしい記憶が……」
言いかけて、凪は詩音の手が自分の手を握っていることに気づいた。温かい。確かな存在を感じる。
「ねえ、凪」
詩音が、少し俯いて言う。
「私も、時々夢を見るの。知らない時代、知らない場所での記憶みたいな」
凪の胸が高鳴る。
「そして、その夢の中には必ず、凪に似た人がいるの。ううん、凪の魂に似た人って言えばいいかな」
春の陽が二人を包み込む。桜の花びらが、窓ガラスに影を落としていく。
図書室の古い時計が、静かに時を刻んでいた。それは、新たな物語の始まりを告げる音のようでもあった。
その日の帰り道。
夕暮れの桜並木を、凪と詩音は肩を寄せ合うように歩いていた。
「ねえ、凪」
詩音が空を見上げながら言う。
「私たち、前の世界でも、きっと……」
「ええ」
凪は静かに頷いた。
「いつも、どこかで繋がっていたと思う」
桜吹雪が、二人を包み込んでいく。
まるで、千年の記憶が舞い降りるように。




