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RE:LIGHT  作者: SORA
第1巻「失われた日」

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1/16

第1話「ルカ」


「レイ、起きなさい。遅刻するよー」


 一階から母の声がした。

 返事はない。

 数秒して、もう一度。


「レイー?」


 やっぱり返事はない。


 母はフライパンの火を弱めると、階段の方へ顔を向けた。


「ルカー。レイ起こしてきてー」


 リビングのソファに丸くなっていた黒猫が、ぴくりと耳を動かした。


「ニャ」


 まるで返事をするように一度だけ鳴く。黒い身体がソファから飛び降りた。床に着地した瞬間、身体に走る青い模様が、朝の薄暗い廊下に淡く浮かんだ。


 ルカはそのまま階段を駆け上がっていった。


「ほんと、ルカの方が言うこと聞くんだから」


 母が笑う。


 食卓でコーヒーを飲んでいた父が顔を上げた。


「俺より?」


「あなたより」


「即答かよ」


 母は笑いながら、焼き上がった目玉焼きを皿に移した。


 二階。


 ルカは閉まっていた寝室の扉の前で止まった。


 前足を伸ばす。


 とても器用にドアを開けるルカ。


「にゃあ」


 反応はない。


「……んー……」


 かすかな声。

 レイの上に飛び乗るルカ。


「んにゃぁ」


「分かったって……」


 寝癖だらけの黒髪。眠そうな青い目。十四歳の蒼宮レイが、半分だけ開いた目でルカを見る。


「……おはよ、ルカ」


「にゃ」


 ルカはレイの上に乗りながら身体を擦りつける。青い模様が、ほんのりと揺れた。


 レイはその頭を撫でる。


「母さんに頼まれた?」


「にゃ」


「やっぱり」


 レイは大きくあくびをすると、ようやく身体を起こした。ルカは役目を終えたつもりなのか、ベッドの上にちょこんと座ってレイを見ている。


「起きたよ。もう大丈夫」


「にゃ」


 そう言われても、ルカは動かない。


「……下までついてくる気だろ」


 ルカはベッドから飛び降りた。


「やっぱり」


 レイが部屋を出ると、ルカもそのすぐ後ろをついてくる。洗面所で顔を洗っている間も、着替えている間も。少し離れたところに座って、ずっとレイを待っている。


 それは今日に限ったことではなかった。レイが家にいるとき、ルカはだいたいレイのそばにいた。階段を下りると、焼いたパンと卵の匂いが漂ってきた。


「おはよう」


「やっと起きた。おはよう」


 母が皿を並べながら振り返る。


「おはよう、レイ」


 父もコーヒーカップを置いた。


「おはよ」


 レイが椅子を引く。


 その瞬間、ルカが先に飛び乗った。


「あ」


 当然のような顔で椅子の真ん中に座るルカ。


「そこ僕の席なんだけど」


「にゃ」


「知ってるよね?」


「にゃあ」


「絶対わざとだろ」


 父が吹き出した。


「今日はルカが学校行くんじゃないか?」


「じゃあ僕休んでいい?」


「ダメに決まってるでしょ」


 母がすぐに返す。


 レイはルカの身体を抱き上げ、自分の膝へ乗せた。


「はい、ここ」


 ルカは不満そうに一度だけ尻尾を振ったが、そのまま丸くなった。


 母がレイの前に朝食を置く。


「いただきます」


「いただきます」


 レイがパンへ手を伸ばす。


 同時に、膝の上から黒い前足がゆっくり伸びてきた。


「ルカ」


 ぴたり。

 前足が止まる。


「これはダメ」


 ルカはパンを見た。

 次にレイを見る。

 もう一度パンを見る。


「見てもダメ」


 前足が静かに引っ込んだ。

 父がその様子を見て笑う。


「ほんとに言葉分かってるみたいだな」


「みたいじゃなくて、分かってるよ」


 レイは当たり前のように言った。


「な、ルカ」


「にゃ」


「ほら」


「それ返事してるだけじゃない?」


 母が笑う。


「じゃあ……ルカ、父さんのところ行って」


 レイが言う。

 ルカは顔を上げた。

 数秒、父を見る。


 そしてレイの膝から飛び降りると、父の足元まで歩いていった。


「おお」


 父が少し驚く。

 ルカは父を見上げた。


「にゃ」


「……俺のところ来たぞ」


「だから言ったじゃん」


 どこか得意そうにレイが笑う。


「じゃあ次、母さん」


 ルカは今度はキッチンへ向かった。


「はいはい。分かったから、朝ごはん食べなさい」


 母は足元まで来たルカを撫でる。


「ルカもレイに付き合って大変ね」


「にゃあ」


「なんでそこで返事するんだよ」


 レイは笑いながら、大きくあくびをした。そのまま眠そうに首を少し傾ける。すると、足元にいたルカも大きく口を開けた。


 少し遅れて、レイと同じ方向へ首を傾ける。

◇


 母がそれに気づいた。


「あ、ルカ。またレイの真似してる」


「してないって。たまたまだろ」


 レイが頬杖をつく。


 ルカはレイを見上げると、その場に伏せて前足の上へ顎を乗せた。


「ほら、また」


「……マジじゃん」


 父がコーヒーを飲みながら笑った。


「お前ら、ほんと似てきたな」


「僕がルカに似てきたみたいに言うなよ」


「にゃ」


 まるで同意するようにルカが鳴く。


 母と父が笑った。


 家族の笑い声が、朝のリビングに広がった。朝食を終えるころには、時計の針は思ったより進んでいた。


「レイ、時間」


 母に言われて時計を見る。


「やば」


 レイは慌てて立ち上がった。

 鞄を肩にかけ、玄関へ向かう。

 もちろん、ルカもついてきた。


 靴を履いて振り返ると、ルカは玄関のすぐ手前に座っている。


「ルカ、学校はダメだからな」


「にゃ」


「昨日も途中までついてきたじゃん」


 ルカは何も知らないような顔で首を傾げる。


「今日は家にいるんだぞ」


 レイはしゃがんで、ルカの頭を軽く撫でた。


「帰ったら遊ぼう」


 ルカの青い模様が、ほんの少しだけ明るくなった。


「……返事まで光でするようになった?」


 レイが笑う。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。気をつけてね。私もあとで出るから」


 母の声。


「行ってらっしゃい」


 父の声。


「にゃあ」


 最後にルカ。


「はいはい。行ってきます、ルカ」


 レイは玄関の扉を開けた。

 外から朝の光が差し込む。


 扉が閉まる直前まで、ルカはそこに座ってレイを見送っていた。それは、いつもと変わらない朝だった。家を出ると、いつもの朝が待っていた。


 近所の家の前では、制服姿の生徒が自転車を押している。通りの向こうでは、犬を連れた老人がゆっくり歩いていた。コンビニの前には配送車が停まり、店員が荷物を運び込んでいる。


 レイは鞄を肩にかけ直し、学校へ向かった。


 途中、ふと後ろを振り返る。

 当然、ルカはいない。


「……今日はちゃんと家にいるな」


 昨日は家を出てしばらくしてから、後ろを振り返ると普通についてきていた。結局、家まで連れて戻ったせいで遅刻しかけた。思い出して、レイは小さく笑った。


 学校に着くころには、そんなことも忘れていた。


「おはよ、レイ」


 教室へ入るなり、クラスメイトから声が飛んでくる。


「おはよ」


 鞄を机の横へ掛け、椅子に座る。窓の外には、朝の青空が広がっていた。


「今日、一限なんだっけ?」


「数学」


「うわ、最悪」


「昨日も同じこと言ってたじゃん」


「数学は毎回最悪なんだよ」


 そんなくだらない話をしているうちに、チャイムが鳴った。


 先生が教室へ入ってくる。

 授業が始まる。


 黒板に数式が並び、ノートを取る音が教室に広がる。レイは途中まで真面目に書いていたが、やがて窓の外へ目を向けた。


 雲がゆっくり流れている。


 今ごろルカは何をしているだろう。


 ソファで寝ているか。

 母の邪魔をしているか。


 それとも、自分の部屋で勝手に寝ているか。


 そんなことを考えていると――


「蒼宮」


「はい」


 反射的に返事をする。


「今、どこやってる?」


「……えっと」


 教室のあちこちから笑い声が漏れた。


「猫のことでも考えてたか?」


 前の席の生徒が小声で言う。


「なんで分かったんだよ」


「お前、だいたいそうじゃん」


 レイは苦笑しながら教科書へ視線を戻した。


 放課後。


 校門を出たレイは、朝と同じ道を家へ向かった。


 玄関の扉を開ける。


「ただいま」


 奥から母の声が返ってくる。


「おかえりー」


 それより先に、廊下の奥から小さな足音が近づいてきた。


 タタタタッ。

 黒い影が勢いよく走ってくる。


「ルカ」


 ルカはレイの足元まで来ると、そのまま身体を擦りつけた。


「ただいま」


 レイがしゃがむ。


「ちゃんと待ってた?」


「にゃ」


「ほんとか?」


「にゃあ」


「じゃあ信じる」


 レイはルカを抱き上げた。

 母がキッチンから顔を出す。


「今日はいい子だったよ。玄関で何回か待ってたけど」


「ほら、やっぱり」


 レイがルカを見る。

 ルカは目を逸らした。


「今、絶対ごまかしただろ」


「にゃ」


「返事だけはいいな」


 レイは笑いながら、そのままルカを抱いて二階へ上がった。宿題をするときも、ルカは机の横。ゲームをするときはベッドの上。


 夕食になれば、レイの椅子のそば。


 気づけば、いつもそこにいる。


 夜。


 風呂を終えたレイが二階へ上がる。その後ろを、ルカがついてきた。


 寝室の扉を開ける。

 部屋は真っ暗だった。

 レイは入口で足を止める。


「ルカ、お願い」


 ルカがレイを見上げた。


 次の瞬間。


 黒い身体に走る青い模様が、ゆっくりと明るくなる。


 淡い青色の光が床へ落ちた。

◇


 ベッドの脚が浮かび、机の輪郭が見える。


「ありがと」


 レイはその光を頼りに部屋へ入り、壁のスイッチを押した。


 ぱっと照明がつく。


「サンキュー、ルカ」


「にゃ」


 ルカの光が弱くなり、いつもの淡い明るさへ戻った。レイにとって、それは特別なことではない。


 昔から、ルカはこうだった。

 いや――。

 昔からだっただろうか。


 寝る支度を終えたレイは照明を消した。暗闇の中、ベッドへ飛び乗ったルカの青い模様が、ぼんやりと浮かぶ。


 レイの隣で丸くなる。


「ルカ、いつも綺麗だな」


 ルカの耳がぴくりと動く。


 レイは青い模様を指先でなぞるように撫でた。


「いつからだっけ?」


 少し考える。


 幼いころのルカは、今とは少し違っていたような気もする。けれど、はっきりとは思い出せない。毎日一緒にいるうちに、いつの間にかこれが当たり前になっていた。


「……もう忘れちゃったよ」


「にゃ」


「ルカも覚えてない?」


 ルカはレイの顔をじっと見る。


 そして何も答えず、レイの腕に頭を乗せた。


「そっか」


 レイは笑った。


「おやすみ、ルカ」


「にゃあ」


 部屋の中で、青い光だけが静かに揺れていた。


 翌朝。


 レイが目を覚ますと、最初に見えたのはルカの顔だった。


 枕のすぐ横。


 青い目が、じっとこちらを見ている。


「……近いって」


「にゃ」


「まだ母さん呼んでないだろ」


 ルカは答えず、レイの頬へ前足を乗せた。


「起きる。起きるから」


 レイが笑いながら身体を起こす。カーテンを開けると、朝の光が部屋いっぱいに入ってきた。ルカの青い模様は、昨夜よりずっと薄く見えた。


「今日はちゃんと起きたぞ」


 一階へ下りると、母が少し驚いた顔をした。


「珍しい。今日はルカに起こされる前に起きたの?」


「起こされたよ」


「やっぱり」


 父が新聞から顔を上げる。


「そのうち目覚まし時計いらなくなるな」


「もういらないかも」


 レイが椅子に座ると、ルカもいつもの場所へ来た。


 昨日と同じ朝。

 同じ食卓。

 同じ声。


 何か特別な予定があるわけでもない。レイはパンを食べながら、母と父のどうでもいい会話を聞いていた。それがずっと続くものだと思っていた。


「行ってきます」


 玄関で靴を履く。


「行ってらっしゃい」


 母が言う。


「忘れ物ないか?」


 父が言う。


「たぶん」


「たぶんって何よ」


 レイは笑いながら扉を開けた。


 足元では、ルカが昨日と同じように座っている。


「今日はついてくるなよ」


「にゃ」


「帰ったら遊ぼう」


 レイはルカの頭をひと撫でして、家を出た。


 学校。


 午前の授業は、いつも通り退屈だった。


 先生の声。

 黒板を走るチョークの音。

 ページをめくる音。


 窓の外から聞こえる、体育の授業の笛。レイは頬杖をつきながら、ノートへ文字を書いていた。少し前の席では、誰かが小さくあくびをしている。


 別の誰かは、先生に見つからないよう机の下でこっそり何かをしていた。


 何も起きない。

 何も変わらない。

 ごく普通の一日だった。


 壁の時計の秒針が進む。

 午前十一時十六分。


 先生が黒板へ新しい式を書き始めた。


 レイはそれをノートへ写す。

 十一時十七分。

 カタ。


 机の上のシャープペンが、ほんの少し転がった。


 レイの手が止まる。

 窓ガラスが、小さく鳴った。


「……地震?」


 誰かが言った。


 次の瞬間。


 ドンッ。



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