流麗館の戦い
2008年 群馬・煙銘街
群馬随一の温泉街、煙銘街は「二つの顔」を持つ奇妙な街だ。
昼間は観光客に癒やしを提供するのどかな温泉地。だが夜が訪れると、昼間の老舗宿や入浴施設は一転して、反社会勢力の密談所や違法なシノギの舞台へと変貌する。
ヤクザ、半グレ、暴走族、海外マフィア、果てはカルト教団まで。多種多様な闇組織が跋扈するこの街で、危うい均衡を保っていたのが任侠集団『室浜組』だった。彼らは上部団体である大北組の圧倒的な威光を背に、全ての勢力の利害を調整し、ねじ伏せていた。
今宵も、街で最も巨大な温泉宿「流麗館」の最上階大広間にて、室浜組が主催する緊迫した会合が開かれていた。
集まったのは、凶悪な半グレ集団『骨庵隊』、違法旅館のネットワークを持つ『湯蜘蛛組』、そして冷酷な中華系マフィア『歯崙シンジケート』。
そしてその上座には、室浜組の顧問を務める大北組副本部長・貝妻の姿があった。
「――つまり、骨庵さんとしては、歯崙さんの違法カジノが自分たちのシノギを脅かしている、と?」
室浜組の舎弟頭が静かに水を向けると、骨庵隊の代表が机を叩いて身を乗り出した。
「そうだ! あの賭場街は俺たちのシマだ! なのにこいつらは、筋も通さず勝手にカジノを作りやがった!」
「それは申し訳ない」
歯崙シンジケートの幹部が、感情の失せた声で反論する。
「だが、だからといって我々の店に火を放つのは筋が違うのではないか? まずは話し合うべきだったはずだ」
小競り合いを睨みつけていた舎弟頭は、もう一人の出席者に視線を振った。
「湯蜘蛛さん、あんたはこの件をどう処理したい?」
「そうだな……」
湯蜘蛛組の代表が煙草を燻らす。
「賭場付きの旅館をやるってんなら、我々組合の許可を取ってもらわねえと困る。歯崙の連中が俺たちに『みかじめ』を払う。それで手を打ちゃあ、骨庵のシマだろうがカジノ建設を認めてやってもいい」
「おい、待て!」
骨庵の代表が色めき立つ。
「あんたら組合があの場所に介入するのを認めたのは俺たちだぞ! 自分たちの一存で歯崙の進出を決めるんじゃねえ!」
「それよりも湯蜘蛛、我々が貴様らに金を払う義務などない!」
「なんだと!? どいつもこいつも調子に乗りやがって……!」
一触即発。怒号が飛び交い、広間の空気が沸点に達しようとしたその時、重々しくも鋭い声が響いた。
「――そこまでにしなされ」
それまで黙って戦況を静観していた貝妻だった。
静まり返る一同を見回し、貝妻は淡々と裁定を下していく。
「今回の件、骨庵さんが歯崙さんのカジノを襲撃したことから始まった争いだ。一方的に手を出した骨庵も、無断で縄張りに押し入った歯崙も、どちらにも非がある。そしてそれは、湯蜘蛛さんの旅館利権をも脅かす不始末だ」
貝妻は冷たい微笑を浮かべた。
「……どうです。両者で不可侵条約を結び、共同で湯蜘蛛さんへ弁償金を支払いなさい。その代わり、湯蜘蛛さんは骨庵さんのシマには一切介入しない。そして歯崙さんには、新たなカジノ建設用の土地を融通してあげる。これで三方丸く収まるはずだ」
張り詰めた沈黙の後、各組織の首領たちが顔を見合わせた。
「……なるほど。湯蜘蛛としては異存はない」
「骨庵も、それで手を打とう」
「歯崙も同意する」
「よし。話はまとまったな?」
貝妻が頷くと、張り詰めていた空気が一気に弛緩した。
「では、和解の宴を始めようじゃありませんか」
合図とともに大広間の重厚な扉が開かれ、大勢の料理人たちが一斉に姿を現した。彼らが押すカートには、湯気を立てる鴨鍋、揚げたての天ぷら、うどん、豪勢な刺身や果物の盛り合わせが所狭しと並んでいる。
先ほどまでにらみ合っていた男たちも表情を和らげ、酒を酌み交わし始めた。平和な夜の平穏が戻ったかのように思えた。
――だが、その瞬間。
室浜組舎弟頭の後ろに直立していた和装の男が、懐から凄まじい速度で短刀を抜き放った。
男は弾かれたように踏み込み、配膳中だった一人の料理人の胸元へと刃を突き立てる。
「がはっ……!」
崩れ落ちた料理人の手から、床へ転がり落ちたのは――鈍く光る拳銃だった。
「襲撃者です!」
和装の男が鋭く叫び、貝妻の前に立ちはだかる。
「何だと!?」「クソ、嵌められたか!」
「皆さま、この部屋から動かないでください! ただちに当館の警備員をここに集結させます!」
怒号と悲鳴が入り混じり、極道たちの和解の宴は一瞬にして戦場へと一変した。
流麗館・エレベーター内
一方、宿のフロントから最上階へと急上昇するエレベーターの中。
小原一家の面々はピストルを握りしめ、張り詰めた面持ちで電光掲示板の数字を見つめていた。
先ほど、厨房の裏口から貝妻暗殺のためのヒットマンを料理人に扮させて潜入させた。だが、ターゲットは一筋縄ではいかない大物だ。貝妻を仕留めたとしても、その後の館内は大混乱に陥る。
「身内を一人も見捨てない」――それが小原一家の鉄の掟だ。ヒットマンを確実に生きて連れ帰るため、星山率いる本隊が総力戦を覚悟して突入したのである。
だが、最上階に達する手前で、エレベーターが不自然な衝撃とともに急停止した。
開いた扉の向こうに待ち構えていたのは、数十人に及ぶ『アロウ・ジャパン』の武装警備員たちだった。
「最上階から救難信号が出たが……まさか、お前たちの仕業か?」
警備責任者らしき男の合図とともに、警備員たちが一斉に特殊警棒を引き抜く。
「チッ、足止めかよ!」
同時刻 1階ロビー
フロントには、不気味な集団が音もなく集結していた。
日本刀を携えた室浜組傘下の自警団『鬼陣隊』。
鬼の顔を模した異様な袴を身にまとい、黒い仮面と陣笠で素顔を隠した、戦うためだけの傭兵集団だ。普段は煙銘街の治安維持を担う彼らだが、設立者であり元隊長である「榛沢」からの緊急招集を受け、流麗館へと馳せ参じたのだ。
「――よし、1番隊・2番隊は建物の外周を完全封鎖! 外部からのネズミを一匹たりとも逃がすな!」
現隊長が、地を這うような声で迅速に命令を下していく。
「3番隊は私と共に1階で待機。4番隊は館内をくまなく巡回しろ! 5番・6番隊は直ちに最上階へ向かい、榛沢様の指示を仰げ!」
「ハッ!」
統率された足音が響き、漆黒の軍勢が館内へと散っていった。
館内・非常階段
「ハァッ!」
星山の強烈な正拳突きが、唯一立っていたアロウ・ジャパンの警備員の顎を打ち抜いた。脳を揺らされた男が、白目をむいて崩れ落ちる。
「ったく……殺さねえように加減して戦うってのは、骨が折れるぜ」
星山は鼻血を流して気絶する警備員たちを見下ろし、忌々しそうに毒づいた。
すぐさまエレベーターに引き返そうとしたが、館内に無機質な機械音声が鳴り響く。
『緊急プロトコル発動。全エレベーターの機能を停止します』
「クソが! お前ら、すまねえが階段で駆け上がるぞ!」
「へい!」
星山を先頭に、一行は非常階段を目指して廊下を疾走した。
その頃、最上階の入り口では、和装の男――鬼陣隊の設立者であり大北組お抱えの剣士、榛沢がアロウ・ジャパンの責任者から報告を受けていた。
「侵入者あり! 現在、我が隊の残存兵力と交戦中との報告が――」
「報告、大義」
榛沢は冷淡に遮ると、すらりと日本刀を抜き放った。冴え冴えとした刃が照明を反射する。
「まあ、この榛沢がすべて切り捨てるだけの話だがな」
「オヤジ、ありました! 非常階段です!」
部下の声と同時に、星山は緑色の非常口マークが光る扉を蹴り開けた。
「よし、一気に駆け上がるぞ! ――あん?」
階段室に踏み込んだ瞬間、上階から降りてきた巡回中の『鬼陣隊・4番隊』と鉢合わせになった。
「何者だ!」
4番隊長が吼える。
「てめえらに構ってる暇はねえんだよ!」
星山は躊躇なくピストルの引き金を引いた。放たれた弾丸が先頭の隊員の胸を撃ち抜く。それを合図に、狭隘な階段室内で血みどろの白兵戦が勃発した。
(チッ、噂通りの厄介な連中が出てきやがった……!)
日本刀の鋭い斬撃を紙一重でかわしながら、星山は唇を噛みしめる。
事前に情報屋の笹山から聞いていた。煙銘街には、警察すら介入できない夜の街を支配する裏の武力組織がいる、と。日本中の真剣道場からトップレベルの剣士を引き抜いて作られた傭兵部隊。銃器こそ使わないものの、その剣技は現代最高峰であり、海外の正規軍とも渡り合える戦闘力を誇るという。その生みの親こそが、剣士榛沢だった。
「おおおらぁ!」
星山は向かってくる剣士の顎に強烈な前蹴りを叩き込み、同時に別の剣士の腹へ渾身の拳をめり込ませて階段下へと突き落とした。容赦ない剣閃が星山の皮膚を切り裂き、血が噴き出す。
「畜生……! ここはお前らに任せた! 俺は先に行く!」
「し、しかしオヤジ、一人じゃ危険すぎます!」
「構わねえ! 最上階には榛沢とかいう化け物がいる。俺が奴をブチのめし、貝妻の脳天に弾丸をぶち込んでやる! お前らはこいつらを片付けたらすぐに追ってこい。外回りの警備を排除する人手がいる!」
叫ぶと同時に、星山は腰から抜き放ったドスで、立ちふさがる二人の鬼陣隊員の首元を鮮やかに斬り上げた。噴き出す鮮血を浴びながら、星山は単身、階段を猛烈な勢いで駆け上がっていった。
流麗館 最上階
5番隊、および6番隊の隊長が、榛沢の前で片膝を突き、深く首を垂れていた。
「榛沢様、ただいま到着いたしました!」
「ご苦労。5番隊は中に入り、大北組幹部と客人たちの警備に当たれ。6番隊はここに残り、階下からの襲撃に備えろ」
「ハッ!」
5番隊が素早く大広間へと消え、残された6番隊が榛沢の前に強固な肉の壁を形成した。
――その直後、階段室の扉が爆破されたかのように開き、銃弾が撃ち込まれた。
「るおああああっ! 貝妻を引き渡しやがれ!!」
銃撃によって肉の壁が乱れた隙を突き、全身血塗れの星山がドスを構えて突撃してくる。
「侵入者だ! 叩き斬れ!」
鬼陣隊が一斉に刃を振るう。星山は容赦なく浴びせられる斬撃を肉体で受け止めながらも、左手のピストルを乱射し、側面から迫る敵を確実に排除していく。死線を潜り抜け、ついに榛沢の眼前へと肉薄した。
だが、背後からは未だ健在な6番隊の生き残りが刀を振り上げ、迫っている。
「一人でここまで辿り着いた勇気だけは、称えてやろう」
榛沢の冷徹な声とともに、必殺の縦一文字が星山を襲う。
前後を挟まれた絶体絶命の危機。星山が死を覚悟したその瞬間――。
「どけぇ!!」
背後の鬼陣隊員たちが、次々と血を噴いて倒れ込んだ。
背後から現れたのは、4番隊から奪い取った日本刀を血に染めた、小原一家の精鋭たちだった。
「オヤジ、遅れました!」
「助かる!」
星山は叫ぶと同時に後方へ飛び退き、その勢いのまま榛沢の顔面へ強烈な飛び蹴りを叩き込んだ。
「ぐっ……!?」
一瞬よろめく榛沢。星山はその隙を逃さず低空タックルを仕掛け、榛沢の巨体を大広間の中へと押し倒した。
だが、転がり込んだ室内で、星山は激しく舌打ちをすることになる。
中にいた5番隊の面々が、抜き放った日本刀の切っ先を星山に向け、隙のない円陣で完全に取り囲んだのだ。ゆっくりと身を起こした榛沢が、口元の血を拭いながら歩み寄ってくる。その瞳には、昏い狂気が宿っていた。
「――5番隊、刀はそのまま構えておけ。だが、手は出すな。この男は、私が直々に地獄へ送る」
「ケッ……望むところだ!」
星山は残された二丁のドスを逆手に構えた。
無言の合図とともに、二つの影が爆発的に地を蹴った。
極道たちの見守る円陣の中、凄絶な一騎打ちが始まる。
だが、星山の肉体はすでに限界を迎えていた。相次ぐ連戦、ノンストップで駆け上がった階段、そして無数に刻まれた斬撃による失血。
鋭い金属音が響くたび、星山の腕の感覚が麻痺していく。そして、榛沢の放った渾身の強撃が、星山のドスを虚空へと弾き飛ばした。
「しまっ――」
鋭い刃が星山の胸を真横に切り裂く。激痛に襲われ、床を滑るように後退する星山。だが、倒れ込みながらも、床に落ちていたもう一丁のドスへ執念で手を伸ばした。
間髪入れずに追撃を仕掛けようとする榛沢へ向け、星山はドスを全霊の力で投擲した。
「ぬぅッ!」
予想外の対空攻撃に、榛沢の踏み込みが一瞬狂う。
そのわずかな虚を突いた。星山は野生の獣のような跳躍で榛沢の顔面へ飛び蹴りを突き刺し、怯んだ腹部へ容赦のない高速の連撃を叩き込んだ。
「ガハッ、バカな……っ!」
榛沢が必死に刀を振り回して距離を取ろうとするが、星山は泥臭くその懐に潜り込み、榛沢の右腕を力任せに圧折した。
「ギャアアアッ!」
悲鳴とともに零れ落ちた日本刀を空中で奪い取り、星山はその切っ先を、崩れ落ちた榛沢の首筋へと突き立てた。
「動くな……。お前ら、道をあけろ」
星山は荒い息を吐きながら、周囲を取り囲む5番隊の面々に鋭い眼光を向けた。
あまりの形相に、5番隊長が唇を噛みしめる。
「……仕方ない、道を――」
「馬鹿野郎!!」
首筋に刃を突きつけられたまま、榛沢が裂帛の気迫で吼えた。
「お前たちの使命は大北組に忠義を尽くすことだ! 私のためではない! 私はここで死んでも構わん。だが、貝妻副本部長を……大北組の未来を、絶対に死なせるな!!」
その凄まじい覚悟に気圧され、5番隊長はハッと我に返った。
「――道を閉じろ! 榛沢様……申し訳ございません!」
隊長が涙を呑んで叫ぶと、榛沢は満足そうに薄笑いを浮かべ、小さく頷いた。
「ああ。それでいい……」
「オラァァァッ!」
鬼陣隊が一斉に星山へ殺到する。星山は榛沢から奪った日本刀を狂ったように振り回し、死に物狂いの乱戦に突入した。
幾条もの刃が星山の身体を削り、額から溢れ出た鮮血が両目を覆う。視界は完全に真っ赤に染まった。
(ここで……倒れるわけにはいかねえんだよ……!)
星山の脳裏に、大北組の卑劣な罠によって傷つけられた、獄界町のカタギたちの涙が過った。彼らの無念を背負っている。この歩みを止めることなど、許されない。
「退けぇぇぇ!!」
限界を超えた咆哮とともに、星山はついに人間の壁を食い破った。
血の足跡を引きずりながら、大広間の最奥、豪奢な椅子に腰掛ける貝妻の目の前へと立ち塞がる。
貝妻は、自身の前に現れた「血の悪魔」のような男を、驚きを隠せない様子で見つめていた。だが、やがてすべてを悟ったように、ふっと穏やかに微笑んだ。
「……まあ、私も綺麗な死に方はできないと、薄々分かってはいたよ。さあ、そら、殺しなさい」
星山は何も言わず、小刻みに震える右手で腰のピストルを引き抜いた。
照準は、貝妻の眉間。
乾いた銃声が、大広間に響き渡る。
撃ち抜かれた貝妻の身体がゆっくりと崩れ落ちるのと同時に、すべての力を使い果たした星山もまた、真っ赤な畳の上へと倒れ込んでいった。




