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過去の奴隷  作者: むぎ茶
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第二話 講義室

誰しも、捨て去ることのできない「過去」を抱えて生きている。それは嫌な思い出、俗に言う「トラウマ」というものだろう。


俺はその「過去」に強く縛られていた。

高2の春、3年付き合っていた彼女に振られ、加えてクラスの人間関係でごたついてしまい、完全にクラスで孤立してしまった。


だが、そんな自分を変えようと必死に努力した。


新しい自分になれば、あの痛みを忘れられるんじゃないか。そう思って色んなことに手を出した。

髪型を変えてみたり、新しい趣味を探したり、明るいキャラクターを演じてみようとしたりもした。

だが、どれだけ表面を取り繕おうと、心の奥底にある『過去の失敗』という鎖が、俺の足を引っ張り続ける。


何かを始めようとするたび、あの時の冷ややかな視線や、振られた瞬間の拒絶感が蘇って体が竦む。


結局、俺は何も変われなかった。


変われないどころか、過去に縛られた自分を押し殺すために『普通の大学生』という偽物の仮面を被ることしかできなくなった。


そう、俺は一生『過去の奴隷』だ。









「ちょ、おい! あの美人さん誰なんだよっ!?」


「それは俺が聞きたいっての……」


伊織が前方をチラチラ見ながら、興奮気味に俺に耳打ちをしてくる。


俺は焦っていた。

なんせ、講義が始まる直前にすっと俺の前の席に座ったのは――昨日、俺に突然話しかけてきた、長い黒髪をなびかせた綺麗な女性だったからだ。


(てか、なんでわざわざ俺の目の前に座ってんだよ……!)


講義室のざわめきの中、俺は心の中で頭を抱えた。

昨日の今日だ。関わりたくなくて全速力で逃げ出したはずなのに、なぜか彼女は当然のような顔で俺の前の席に座った。チラリと見えた横顔は相変わらず整っていて、どこか浮世離れしていた。


逃げ出したいのに、伊織は隣にいるし、講義は始まってしまう。

俺は存在感を消すために、教科書を立てて必死に顔を隠した。


「なぁ、お前の知り合いだったりしない?これはモデルかもな……、 連絡先聞いてみようぜ」


隣で伊織が「なぁなぁ」と興奮を抑えきれない様子で袖を引っ張ってくる。

だが、俺にはそれどころではなかった。


(頼むから振り向かないでくれ……頼むから気づかないフリを通してくれ……)


机の下で祈るように拳を握りしめる。

しかし、そんな俺の願望は、あっけなく打ち砕かれた。


ギィ、と椅子がかすかに軋む音がした。


前の席の彼女が、ゆっくりとこちらへ振り返ったのだ。

教科書から覗いていた俺の視線と、透明感のある瞳が真っ直ぐにぶつかる。


「あ、やっぱりいた」


鈴を転がすような静かな声が、周囲の雑音を通り抜けて、俺の耳にハッキリと届いた。







講義後──


「オレは金宮(かねみや)伊織! 工学部の二年生! よろしくね!」


講義が終わった瞬間に逃げ出そうとした俺の目論見は、速攻で潰された。

チャラ男の本領を発揮した伊織が、一瞬で距離を詰めて爽やかな(そして極めて下心が透けて見える)笑顔で話しかけていたからだ。


「……鏡野(かがみの)瑠璃(るり)です」


彼女─鏡野瑠璃は立ち上がり、教科書をバッグに収めながら淡々と答える。


「瑠璃ちゃんね! 今までこんな綺麗な子、キャンパスで見かけたことなかったんだけど。なぁ、俺たち何か運命的なものを感じると思わない?」


爽やかな笑みを浮かべる金宮伊織を、彼女は一切表情を変えずにじっと見つめる。

その透き通った瞳に射抜かれ、伊織の軽薄な口調がピタリと止まった。


「…え、なに? 俺の顔に何か付いてる?」


「……ううん」


鏡野は首を少しだけ傾げ、伊織の顔を深々と覗き込む。

一瞬だけ、その瞳に「何か」を確かめるような光が宿ったが、すぐに興味を失ったように視線を俺へと滑らせた。


「私が用があるのは君の方」


「……っ」


「昨日ぶりだね。……やっぱり、今日もすごく苦しそう」


「だ、だから、あなたは何を言って…」


彼女は万物を見透かすような透き通った瞳で、俺を心配そうに見つめる。


「え、ちょっと待って……お前ら昨日会ってんの!?」


彼女は伊織の叫びなど気にせず、視線を俺から離さない。


「…ね、君の名前はなんて言うの?」


「俺は、木村心珀(こはく)…」


「心珀、ね」


彼女は俺の名前を小さく呟くと、満足そうにひとつ頷いた。


「ねえ、心珀。少し、二人で話したい」


「は? いや、俺はこれから――」


「あっちで待ってるね」


俺の返答などお構いなしに、そう静かに言い残すと、彼女はすっと背を向けた。

拒否する選択肢なんて最初から存在しないかのような、不思議な圧とマイペースさだ。


「あ、ちょっと! 待って瑠璃ちゃん! オレは!? オレも話したいんだけど!?」


伊織が「てかスルー!? またオレ、スルー!?」と頭を抱えて騒いでいるが、瑠璃は振り返りもせず講義室の出口へと歩いていく。


(なんで俺なんだよ……。頼むから、俺に構わないでくれ…)


胸の奥で不安が渦巻くのを感じながら、俺は逃げ場のない焦燥感に背中を押されるように、彼女のあとに続くしかなかった。

ご一読いただきありがとうございます!

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