第22話 それでもGood Day‼
旅は、いつも非日常の中にあるようでいて、実は日常の延長線上にある。
雲雀蒼空にとって“飛ぶ”という行為は、特別な冒険ではなく、自分を保つための呼吸のようなものだ。
地上では芋ジャージで静かに暮らし、空では迷いなく歩き、雲を抜けるたびに世界が澄んでいく。
この第一部は、蒼空が自分の生き方を確立し、空と地上の二重構造を自然に受け入れていく物語だった。
アレキサンドライトという結果は、その積み重ねの“証”にすぎない。
どうぞ、蒼空の歩幅と呼吸に合わせて、この物語の続きを見届けてください。
おかえり、蒼空。
月曜日の朝だった。
七時二十二分、雲雀蒼空は家を出た。
玄関の鍵を閉める。確認する。もう一度確認する。
閉まっていた。いつも閉まっている。それでも確認する。
今朝の空は、どちらかと言えば白が勝っていた。
曇りとも晴れともつかない、どっちでもいい色をしていた。
蒼空は空を三秒見て、イヤホンを両耳に刺した。
歩く速度は速くも遅くもない。
急いでいるわけではなく、無駄がないだけだ。
信号は渡れるタイミングで渡る。
人混みは最短ルートで抜ける。
いつも通りだった。
* * *
電車に乗った。
座れる席がなかった。
ドアの端に立って、窓の外を見た。
景色が流れていく。
蒼空は何も考えていなかった。
正確には、考えることが何もなかった。
今日やることは頭の中に入っている。
終わりの見えている仕事を、朝からもう一度考え直す必要はない。
でも、一つだけ思っていることがあった。
今朝、起きたとき。
スマートフォンを確認したら、JSNからメールが来ていた。
件名。
「上級会員資格移行のお知らせ」。
現在の資格:アレキサンドライト。
反映されていた。
蒼空はそのメールを、三秒だけ見た。
それからスマートフォンをしまった。
顔を洗って、薄く化粧をして、家を出た。
いつも通りに。
* * *
会社に着いたのは、八時五十一分だった。
席についた。PCを開いた。メールを確認した。
三十二件、未読。
必要なのは、五件だった。
「雲雀さん、おはようございます」
佐々木が半身をこちらに向けた。
「おはようございます」
蒼空は返して、画面に向かった。
今日もいつも通りだ。
喋らなくても回る。
回るから、喋らない。
午前中の仕事は淡々と進んだ。
資料を直す。数字を確認する。メールを返す。
一行か二行。それで伝わる。
* * *
昼は自席でバランス栄養食を飲んだ。
グレープフルーツかどうか分からない味がした。
いつも通りだ。
窓の外を見た。
今日の空は、相変わらず白かった。
曇りとも晴れともつかない色をしていた。
蒼空はスマートフォンを開いた。
JSNのアプリを立ち上げる。
会員ページを確認する。
現在の資格:アレキサンドライト。
まだそこにあった。
消えていなかった。
当たり前だ。消えるわけがない。
でも、確認した。
蒼空はアプリを閉じた。
バランス栄養食を飲み切った。
ゴミ箱に捨てた。
午後の仕事に戻った。
* * *
退社は定時だった。
十八時ちょうど。
PCをシャットダウンして、ジャケットを羽織る。
荷物を持つ。椅子をしまう。席を立つ。
「お疲れ様です」と言いながら歩いた。
返ってくる声がいくつかあった。
蒼空はもうドアに向かっていた。
階段を降りた。
外に出た。
空はまだ白かった。
夕方になっても、白いままだった。
蒼空はその空を三秒見た。
それから、駅に向かった。
* * *
スーパーに寄った。
十八時四十分。
惣菜コーナーに向かった。
目に入った。
幕の内弁当。半額シール。
おかずの種類が多い。ボリュームがある。
手を伸ばした。
誰も来なかった。
今日は取られなかった。
カゴに入れた。
小さな勝利だった。
声には出なかった。でも出そうだった。
ほうれん草のごま和えも買った。
鮭の塩焼きも買った。
レジに並んだ。
支払いはICカード。
袋は持参のエコバッグ。
四百二十円だった。
戦利品を片手に、スーパーを出た。
空はもう暗くなっていた。
* * *
今日は戦利品も多く、アパートに凱旋。
玄関のドアを開ける。電気をつける。
靴を脱ぎながら、バッグを床に落とす。でも拾わずそのまま。
ジャケットを脱ぐ。クローゼットの取っ手に引っかける。
ブラウスを脱ぐ。スラックスを脱ぐ。
引き出しから芋ジャージを引っ張り出す。上下、エンジ色。
校章のプリントは擦れている。袖のゴムは伸びている。
でも気にしないで、着た。
洗面台でコンタクトを外した。
眼鏡をかけた。
黒縁、黒フレームの。
鏡の中に、いつもの雲雀蒼空がいた。
蒼空はしばらく鏡を見た。
アレキサンドライト。
この顔に、その資格がついている。
芋ジャージを着た、眼鏡をかけた、この顔に。
誰も知らない。
知らなくていい。
蒼空は鏡から目を離した。
* * *
幕の内弁当を温めた。
ローテーブルの前に座って、食べた。
美味しかった。
今日は誰にも取られなかったやつだ。
食べながら、PCを開いた。
フライトプランのファイルを立ち上げる。
新しいシートを開いた。
次の修行の候補地を、白紙のスプレッドシートに入力し始めた。
与那国島。
波照間島。
奄美大島。
まだ降りたことのない空港が、たくさんある。
アレキサンドライトを取っても、飛ぶ理由は変わらない。
むしろ、これからが本番だ。
指がキーボードの上を走る。
「……与那国か、波照間か、でも波照間は便数が少ないから、与那国のほうが、いや那覇経由で両方行けるか、両方行けるじゃん、行けるじゃんね、」
独り言が漏れた。
誰も聞いていない。聞いていなくていい。
「与那国→波照間って直行あったっけ、ないか、じゃあ那覇経由で、那覇→与那国→那覇→波照間→那覇→羽田、いける、いけるじゃん、」
タブが増えていく。
目が、少しずつ変わっていく。
蒼空の目が、奥から灯っていった。
* * *
一時間ほど経った。
スプレッドシートに、新しいルートが完成していた。
羽田→那覇→与那国→那覇→波照間→那覇→羽田。
蒼空はそれを見た。
指が止まった。
画面を見る。もう一度見る。
全部、繋がっていた。
「っしゃ、」
声が出た。
立ち上がった。
握った手を胸の前で押さえた。
芋ジャージの袖がぶかぶかと揺れた。
待って、待って、待って。
与那国も行けて、波照間も行けて、FCも積めて、
なんでこんなに綺麗に繋がるの、
最高か、最高だわ、今日最高、
隣の部屋から、壁を叩く音がした。
蒼空は一瞬止まった。
「……すみません」
小声で言った。
全然、反省していなかった。
足元のスーパーの袋が、くしゃっと音を立てた。
幕の内弁当の容器が、空になっていた。
* * *
PCを閉じた。
ソファに深く沈み込んで、天井を見た。
今日は、飛ばなかった。
月曜日だ。会社があった。バランス栄養食を飲んだ。
幕の内弁当を手に入れた。壁を叩かれた。
でも。
アレキサンドライトが、手に入った。
次のフライトプランが、完成した。
与那国と波照間に、もうすぐ行ける。
蒼空は目を閉じた。
飛ばない日も、フライトプランは更新される。
地上にいる日も、空は続いている。
いつでも飛べる準備が、できている。
それだけで、今日は。
Good Day‼
声には出なかった。
でも確かに、そう思った。
* * *
これが、雲雀蒼空の生き方だった。
地上ではトロく、空では美しく冴える。
その二重構造を、誰にも説明せず、ただ静かに生きている。
人生はフライトプランだ。
飛べた日は、Good Day‼
飛ばない日も、次の空が待っている日は、Good Day‼
フライトプランは、今日も更新された。
第一部 了
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
蒼空が積み重ねてきた距離、時間、景色、そして静かな熱量が、アレキサンドライトという形になりました。
けれど、これは終わりではなく、ようやく“飛ぶ理由”が整っただけ。
与那国、波照間、奄美——まだ降りていない空港がたくさんある。
蒼空はこれからも飛び続ける。
修行ではなく、生き方として。
地上の静けさと、空の冴えが交互に訪れるそのリズムが、彼女の人生そのものだ。
第二部では、蒼空の世界がさらに広がっていきます。
また一緒に空へ。
Good Day!!




