プロローグ 甘いチャイム
「夏のホラー2026」参加作品です。
『魔犬ポチシリーズ』第二作ですが、本作単独でもお読みいただけます。
死ぬのは、これが初めてじゃない。
本当に身体が死ぬのは今からだけれど、心の方は、もう何度も死んでいた。
親の顔も知らない。物心ついた頃には施設にいて、殴られるのも、物を取られるのも、嫌われるのも慣れていた。
けれど、苦労の上に苦労を重ねて高校に入れたとき、私は少しだけ思ったのだ。
ここから自分の本当の人生が始まるのだと。
もしかしたら、普通の人生に追いつけるかもしれない、と。
ああ、馬鹿だった。
本当に、馬鹿だった。
私のような人間は、未来に夢を見てはいけなかったんだ。
学校でも、私は不幸と絶望に捕まった。
あの男に捕まったのだ。
あの男は、声が大きくて、いつも偉そうで、教室の真ん中で笑っていた。
最初は優しかった。
施設育ちなのか、と同情した顔をして、ジュースを奢ってくれて、困ったことがあったら俺に言えよと笑っていた。
全部、嘘だった。
呼び出され、金を取られ、断れば脅され、みんなの前で笑いものにされた。
泣いている顔をスマホで撮られた。
親がいないお前が俺たちに構ってもらえるんだから、俺に感謝しろ、と言われたときは、さすがに死んでしまおうかと思った。
でも、死ねなかった。
まだ、未来に未練があったからだ。
高校を卒業したかった。卒業して、大学に行きたかった。
施設で育った私には、学費のことも、その先の生活のことも、簡単ではないと分かっていた。
それでも、勉強だけは続けたかった。
いつか、教師になりたかったからだ。
中学生の頃、たった一人だけ、私を厄介者ではなく、一人の子供として見てくれた先生がいた。
話を聞いてくれて、文房具を貸してくれて、分からないところを何度でも教えてくれた。
その先生は、不細工だった。煙草臭くて、歯が黄色で、髪の毛が無くて、太っていて。
私が高校に合格したとき、涙を流して喜んでくれた。
私は、あの人のようになりたかった。
誰にも助けを求められずにいる子供を見つけて、その手を取れる先生になりたかった。
だから、ここで逃げたくなかった。
ここで学校を辞めたら、本当に何もなくなる気がした。
夢まであの男に奪われるのだけは、どうしても嫌だった。
だから、朝になるたび吐きそうになりながら学校へ行った。
あの男の顔を見るたびに足がすくみ、呼び出しを受けるだけで息が止まりそうになって、それでも学校には行った。
そのたびに、少しずつ私の心と体は壊れていった。
そして今日、とうとう全部終わった。
終わってしまった。
放課後、古いアパートに呼び出された。
嫌な予感はあった。
部屋に入った瞬間、複数の男たちに殴られ、蹴られ、動けなくなったところで、体を汚された。
私に乱暴を働いた男たちの顔は、終始強張っていた。
罪悪感かと思ったが、そうではない。
単純に恐怖心に縛られていたのだ。
あの男だけは笑っていた。
私が泣いても、やめてと言っても、変わらず笑い続けていた。
周囲の取り巻きたちは、その男におもねるように、必死で笑い顔を作っていた。
そのとき、分かった。
ああ、私は一生このままなんだ、と。
私がここで死んでも、あるいはここから逃げたとしても、あいつは笑って生きていく。
明日も明後日も、誰かを踏みつけながら、何も失わずに生きていく。
私だけが壊れて、私だけが消えて、それで終わりなのだ。
嫌だった。
せめて、あいつも壊れればいいと思った。
けれど、私には、その方法がまるで思い浮かばなかった。
私は、無力だった。それが悔しくて、悔しくて、そして呪わしかった。
駅のホームは、人でいっぱいだった。
学生、会社員、買い物帰りの女の人。
みんな自分のことで忙しくて、誰も私なんか見ていなかった。
制服は泥で汚れ、破れているのに。
靴は片方しか履いていないのに。
頬は腫れ、口の中には血の味が広がっているのに。
誰も、私に話しかけてくれないし、見てもくれない。
世界は、私に関心がない。
私がどれだけ苦しくても、誰も困らない。
誰も助けない。見て見ぬふりをして、明日になれば忘れる。
だったら、こんな世界ごと、呪われてしまえばいい。
電車が来る。
風が吹く。
白いライトが近づいてくる。
私は最後に、あの男の顔を思い浮かべた。
いつものように、下品に笑っていた。
だから、願った。
死ね。
いや、ただ死ぬだけじゃ足りない。
苦しめ。地獄に落ちろ。
怨念が、私の足を前に出させた。
誰かが叫んだ気がしたけれど、もう遅い。
轟音と衝撃。
骨も肉も、ぐしゃぐしゃに潰れる感覚。
痛みは、それほどでもなかったので、少しホッとした。
驚くことに、意識も割とはっきりしている。
私は、自分が死んでいることを理解した。
ホームに散らばった自分の肉と血を、自分の目で眺めるのは、とても新鮮だった。
駅員が走り、人が悲鳴を上げ、誰かが吐いている。
迷惑をかけてしまったと、この期に及んで考えてしまう自分に嫌気がさした。
私は死んでいた。
けれど、私はまだここにいた。
空虚な胸の中には、たった一つの思いしか残されていない。
あの男が憎い。
私をこんな目に遭わせたあの男だけは、絶対に許さない。
そのとき、どこか遠くでチャイムが鳴った。
学校のチャイムみたいな、気味の悪い音だった。
でも、その音が、私にはひどく甘い響きのする音のように思えた。
「魔犬ポチシリーズ」第一作『しっぺい太郎は助けない』も公開しています。
本作とは独立した物語ですので、どちらからでもお読みいただけます。




