幸運か、娘の努力か
娘が所属してきた場所を振り返ると、不思議に思うことがある。
私たちは地方に住んでいる。
ギフテッド教育が受けられる場所などない。
放課後等デイサービスはどこも定員いっぱいで空きがなく、希望の場所に入れるわけではない。
習い事の種類も多くないし、発達障害児用の教室があるわけでもない。そんな中で、娘は所属している場所で、比較的上手くやれている。
どこも、娘に合う場所を厳選したというわけではない。
1箇所目の放課後等デイサービスは、去年の7月から児童発達支援で通った場所で、その頃と同じ先生たちと過ごしている。
娘の発達障害の発見が遅れたこともあり、空いている児発がそこしかなかった。選んだというより、流れ着いた場所だ。
そこに、娘のために難しいプリントを用意してくれ、娘が作ったルールで一緒に遊んでくれる先生がいる。
2箇所目を探したときは、行ける限り見学に行った。10箇所見学し、申し込みをしたのは8箇所。通えると言われたのは3箇所だった。その中から、娘に一番合いそうな場所を選んだ。そこで娘は、苦手なはずの集団で、楽しく遊んでいる。
リハビリも、紹介状を渡され、言われるがままにたどり着いた場所だった。そこで偶然決まった担当の先生は、娘が心から信頼できる、大好きな先生になった。
ピアノ教室は、娘が2歳のときに近所の教室に決めた。
年々高くなるお月謝に他の教室を提案したことがあるけれど、娘は今の先生の教室がいいと譲らなかった。
娘は教本より、即興演奏が大好きだ。けれど、先生に見てもらうために、毎日ピアノの教本を弾く。
発達障害と言われたことをお伝えしても、それまでと変わらず、一人ひとりに合わせた指導をしていただけている。
バレエ教室だけは、少し違う。3歳のとき、娘はバレエが習いたいと言った。
市内のバレエ教室を全部見学した。そして、その中で娘が自分で「ここがいい」と選んだ。
バレエは、個別レッスンであるピアノとは違う。娘は周りの迷惑になることがある。先生はそれなのに、「踊ることが好きな気持ちがあれば大丈夫」と、優しく歓迎してくださる。
この教室でなければ、きっと娘はバレエを続けられていない。
選択肢は、決して多くなかった。それでも娘は、その限られた環境の中で、今のところ大きなトラブルなく過ごせている。
これは、幸運なのだろうか。それとも、娘の努力なのだろうか。
もちろん、幸運も大きい。理解のある先生に出会えたこと。娘の個性を受け止めてくれる大人に出会えたこと。どれも、私たちだけではどうにもできなかった。
けれど、それだけではない。
娘は初対面の大人に、少し試すような行動をすることがある。どこまで許されるのか。この人はどんな人なのか。娘なりに、その人を見ているように思う。
そして、相手が信頼できると感じるまでは、自分からほとんど話さない。
発達相談でも、とある小児科でも、娘はひと言も話さなかった。質問されても黙ったまま。名前も言わない。
娘は、この人ならば安心だと感じた先生とは、少しずつ話すようになり、自分らしさを見せるようになる。
できないことも多い。急げと言われても急げない。静かにしようと思っても、つい身体が動いてしまう。それでも、娘なりに「ここで過ごしたい」と努力しているのだと思う。
だから、環境が良かっただけとも言えない。
これまで娘は、あまり否定されることなく過ごせている。
「娘の強運の正体は何なのだろう」と考えてみたとき、娘の所属への強い愛着が思い浮かんだ。
それに気づいたのは、娘が幼稚園の頃だ。
二年保育の幼稚園に入園したばかりの年中の頃、年長の子が自分たちの部屋に入ってきただけで、娘は泣いてしまった。
娘にとってその部屋は、年中の自分たちの領域だったのだと思う。
二学期になり、年長の子どもたちとも仲良くなると、そういったことはなくなった。
娘は、「ここが私の場所だ」と思うと、その場所と、メンバーへの愛着がとても強い。
退会と、新しい子の入会があり、バレエ教室のメンバーが変わった時に、行き渋りになったことがある。
けれど、生徒が変わっても、先生は何も変わっていないと気づいたのだろう。すぐに行き渋りはなくなった。
もしかしたら、これまでの多くの場所でうまくいっているのは、娘が「ここは私の場所」という気持ちを、とても大切にしているからなのかもしれない。
もちろん、それだけではない。
理解してくれる先生に出会えたことも、大きな幸運だった。
娘は、その幸運を育てているのではないか。
娘の強運の正体は、良い環境に出会えたことと、その環境を維持しようとする娘の努力によるものなのかもしれない。
もしそうならば、娘はこれからどんな環境に置かれても、そこを自分の場所にしていけるのではないだろうか。
娘の頑張りと、環境との相性。その両方が重なって、今がある。
ギフテッド教育について考えていると、つい「もっと特別な教育が必要なのではないか」という方向に目が向く。
けれど、まだ娘は一年生だ。何ができるようになるのか。どんな教育が必要になるのか。私には、見えてきていない。
それでも、どんな先生が娘に合うのかは、もうわかっている。
娘の世界を否定せず、理解しようとしてくれる人。娘が安心して心を開き、ここで頑張りたいと思える人。
幼稚園で。小学校で。放課後等デイサービスで。リハビリで。習い事で。娘は、そんな先生たちに出会ってきた。
ギフテッド教育を専門とする先生ではない。けれど、娘にとっては、みんなかけがえのない先生たちだ。
だから私は、「これからも娘を理解してくれる先生と出会えますように」と願っている。
今後、新たな制度ができるのは、ありがたいし歓迎している。これまでも、娘が放デイに行けたのは制度のおかげだ。選択肢が増えるに越したことはない。
それでも私は思う。
もしかしたら教育とは、どんな制度があるかよりも、どんな人に出会えるか、なのではないだろうか。
娘をここまで育ててくれたのは、特別な教育ではなかった。
娘を理解しようとしてくれた、一人ひとりの先生だった。




