07
九月二十一日。
斉京銀行本店は国道沿いにあり、道路の向い側には駅がある。
周りには駐車場なども併設されており、親不孝通りからもそう遠くない位置にあった。この近辺では、大型のショッピングモールやドラッグストアも軒を連ねていることもあり、平日でも人通りが多く、駅の利用者も多い。
胡桃澤と田中は、銀行の北側出入口に面している有料駐車場に車を止めていた。
到着したのは午後一時半だ。
一時間も前から銀行内の駐車場に止めるのは、利用者の目撃などのリスクがあるため、準備が整うまで少し離れたこの駐車場から監視することにしたのである。
服装も作業用のつなぎ服に統一して、作業員を装っていた。
だが、寸法も測らずに胡桃澤が購入してきたために、少し袖まわりが気になった。
彼が「とりあえず、捲って安全ピンとかで止めときゃ邪魔にはならないだろ」というので、とりあえずそうしている。
できれば自分で選びたかったのだが、今更どうしようもない。
運転席からハンドル越しに銀行を眺めていた田中は、緊張のためか落ち着かない様子だった。たしかにこれを失敗すれば、再びチャンスが巡ってくることはないだろう。とにかく辛抱強く一点を見つめていた。急遽、予定が変わって猫柳が早めに来るということも考えられる。
田中は昨日、久々に真奈美に連絡をした。仙石から何か変わった情報などがないか心配してのことだったが「大丈夫よ。予定通りだって」と、至って軽い返答が返ってきた。
変わりないことが確認できるということは、まだ仙石とつながりがあるのではないかと苛立ったが、彼は自分の目的を達成することに専念しようと思った。
車の後部でモバイルパソコンと向き合い、軽やかなブラインドタッチを見せる胡桃澤は、DTセキュリティのクラウドサーバに侵入しているという。もう三十分くらいは会話もなく、車の中はキーボードの叩く音だけがあった。
「先輩、どうすか?」
とりあえず何か話をしていないと落ち着かないのか、田中が後ろを振り向いた。
後部の窓はすべて濃いスモークを貼って光を遮断しているが、胡桃澤の顔だけはディスプレイの淡い光によって浮かび上がっている。
「思ってたよりは簡単だったな。いくら最新のシステムとか使っていたって、使ってる人間がシステムを理解してないんじゃ、セキュリティも糞もないよな。普通に考えて、銀行みたいなところだったら無線LANなんて使わないだろう……ハッキングされやすいのに。たぶん知識のない連中が、便利さだけを求めてネットワークに繋いじまったんだろうけど、このお蔭でずいぶん作業が短縮できた」
「さすがっすね。先輩に協力してもらって正解でしたよ。それに、この車の塗装も手配してもらえたし。でも、この塗装ってちょっと変じゃないですか?」
昨夜、胡桃澤から突然電話があり、ハイエースを一晩預かると言い出したのだ。塗装の件については彼に任せるつもりでいたので、田中は言う通り彼の家へ車を届けた。すると驚いたことに、そこにはジョージがいた。話を聞くと彼の知り合いで特殊塗装をしている業者がいるということで、そこに預けることになったらしい。一晩で可能な作業なのか少し不安だったが、朝には胡桃澤の家まで無事届けられていた。
もともと黒ベースのボディだったが、ボディの上部を白に塗装され、まるでパトカーのような仕上がりになっていたのだ。ただ田中が気になったのは、少し塗装面に違和感があったことだった。
「大丈夫だ。もしもパトカーとかに追跡されたときのために細工を施しているだけだ」
胡桃澤は笑いながらそう言うと、助手席に移動してくる。
窓を開けると煙草を吸い始め、もう片方の手に持っていたモバイルパソコンを田中に見せた。画面には、いくつかに切り分けられた店内の様子が映し出されている。
「すげぇ……本当にカメラの映像だ」
「まあ、こんなもんだ」
今度は膝の上にパソコンを乗せて、なにやら操作している。
画面が変わったかと思うと、窓口の真上から移しているカメラに切り替わっていた。銀行で防犯カメラの利用といえば、真っ先に強盗などの対応のためと考えるが、実は行員の不正や、客とのトラブルに備えての監視という役割の方が大きい。そのためにカメラの台数は客側よりも行員側の方が多い。
「お、仙石くんだね」
胡桃澤が楽しそうにそう言った。
画面を覗き込んだ田中の目には、彼の言うように恋敵の姿が映っている。他の行員と何やら話をしているようだ。
「真面目に仕事してるんすかね」
「ちょっと見た感じではエリートっぽいけどな」
「あんなんのどこがいいんですかねぇ。まったく女の考えてることって、よくわかんないっすよ。こっちに気があるかと思えば、全然相手にされなかったり……騙されたなー」
「騙されたか。真奈美ちゃんのこと言ってるのか?」
「いや、そういうわけじゃないすけど……」
「お前は人が良いからな。騙されやすい」
胡桃澤のその言葉に、田中は忘れかけていた記憶が過った。
昔、同じような事を言われたことがあったのだ。あれは高校のときだった。中学まで友達が少なかった彼は、高校に入ったら生まれ変わろうと考えていたのだ。だが、そこで出会った同級生はおよそ友情を分かち合えるような人間ではなかったのである。
そう、騙されたのだ。
「先輩」
なぜか自然に口が開いた。
胡桃澤はパソコンの画面を見ながら「うん」とだけ答えた。
「リチャーズで初めて会ったとき、俺が高校生のとき虐められてたって話したことがありましたよね。あれ、同級生の連中に騙されて、目をつけられたからなんすよ」
突然そんな話を始めたからか、胡桃澤は少し面食らったような顔をしていた。だが、彼の性格上、話を遮ることはなかった。彼はいつだって相手の話を聞く側に回ることが多い人間なのだ。「騙されたって?」と話を促す。
「大峯高には、中学のときの同級生が誰もいなかったから、それまでのくだらねぇ自分から変身するつもりだったんすよね。人気者になりたかったんすよ。友達もすぐにできて、けっこう仲良かったんすけどね……毎日遊んで馬鹿ばっかりやってたんです。それで夏休みのとき、旅行に行こうって話になって女の子を誘う計画をしてたんです。俺が誘う役だったんすけど」
「お前なら適任だな」
「今なら問題ないけど、当時は俺もガキで女の子と話しもろくにできなかったんすよ」
「意外だ」
「そういう初々しい時代もあったんすよ。それでもダチから頼まれたんじゃ断りずらくて、俺も必死になって一緒に行ってくれる女の子探したんです。あんなに仲が良かったダチはそれまでいなかったし、期待を裏切りたくもなかったんすね。それで俺は、なんとかクラスの女の子一人だったけど誘うことができたんです。可愛かったけど、あまり目立たない大人しい子だったから強引に誘ったらついてきてくれて……」
田中は言葉を切った。
視線を少し落とすと、着慣れない作業服の袖をいじったりする。
「その子……俺のことが好きみたいだって聞いて、宿泊先で、奴らにそそのかされて夜這いしに行ったんです。彼女はあっさりと俺に抱かれました。そんなことがあったんで、俺は初めて彼女ができたって内心喜んでいたんですけど、それが悪夢の始まりだったわけです」
「悪夢?」
「ええ、俺とその子がヤってるところを、奴ら盗撮してたんすよ」
ハンドルを握っていた手に力が入る。
そんな彼の様子を、胡桃澤も初めて見た。
彼の形相を。
煙草の灰を携帯灰皿に収めると、続けてもう一本取り出し火をつける。そして黙っていた田中の代わりに「脅されたのか、その子」と言った。
田中は溜息を返す。
「その子、自殺したんすよ」
「……そうか」
「俺……そんなことになるなんて思ってもなかったんすよ。あいつらが盗撮していたことを知ったのは、その女の子が自殺した後でした。奴らは、その子を脅して金をむしり取ってただけじゃなくて、裏ビデオとして売り捌いていたんすよ。当然モザイクなんて入ってないから俺の面も割れましたけど、うまく隠蔽したようで表沙汰にはならなかったんです。奴らは俺を友達とは思ってなかった。ただ、利用しただけだった」
「つまり、騙されたってことなのか」
「そうです。実際に奴らにも同じこと言われたんすよ。〝お前は騙されやすいんだ。利用されてるのも気づかない〟って。それから俺は他の生徒からも、女を売った卑劣な男だと思われるし、友達と思ってた奴らには性懲りもなく、また女を連れてこいと脅されるしで俺の高校生活は無茶苦茶でしたね」
「そうだったのか」
胡桃澤は、煙草の煙を細く吐くと「それで今に至るわけだな」とつぶやいた。
その言葉に同情はなかった。
感想を述べただけというような口調だった。
だが、同情を求めているわけではなかった田中は、彼のその素っ気ない素振りで満足していた。自分の過去と、真実を知っていてくれる人間が一人でもいてほしかっただけだろう。大きな仕事をする前だったので、少し感傷的になっていたのかもしれない。
田中は自嘲じみた笑みを浮かべて言った。
「実は、その女の子の名前がマナミっていうですよ。初めての女と同じ名前だったから、カスティーロの真奈美にも、なんだか情が湧いちまったんすかね。まあ、真奈美ってのも源氏名らしいすけど」
「名前や言葉には魂が宿るっていうから、あながち間違いじゃない。お前が好きだって言ってたポエムだってそうだ。ポエムは韻文だ。形どった文章が聴覚に形象を感覚させる言霊みたいなもんだ。感慨深くなるのも、愛着が湧くのもわかる」
「なんか難しい事言いますね、先輩」
田中は時計に目をやる。
二時を少し過ぎていた。
ずいぶんと長く喋っていた気がしていた。
ふと、胡桃澤が口を開く。
「お前ほどディープな話じゃないが……俺も子供の頃に騙されたことがある。父親にな」
「父親?」
意外だった。
普段から胡桃澤は、あまり自分の事を話さない。
「単純な話だけどな。俺の父親は女狂いで、何度か結婚と離婚を繰り返していたらしい。俺がまだ十二歳のときだったかな。突然、母親が死したんだが、父親は俺の面倒を見ずに相変わらず女遊びをしていた。俺の事を心配した母方の祖父母が、俺の家に様子を見に来たとき、俺はクソ寒い部屋の中で、母親の遺骨を抱きながら餓死寸前だったらしい。大人たちの間でどんなやり取りがあったかは知らんが、それから俺は祖父母に育てられることなったんだ。俺はガキで事情なんてわからなかったから、父親が迎えに来るのを待っていたよ。あいつが〝すぐに帰ってくる〟って言ってたからな」
胡桃澤は煙草を灰皿ケースに突っ込んだ。
彼の目は、二十数年前の自分を見ているように悲哀に満ちていた。田中は、どう声をかけるべきか考えていた。自分も相当悲惨な人生を歩んできたと思っていたが、彼の歩んできた道もまた辛辣なものだったようだ。
「まあ、人生なんて誰しも心にいくつかの穴が空いてるもんだ。いつ空いたかもわからない穴に、何でもいいから埋めるものを探しながら生きてるようなもんだろう。それそのものが生きる理由になっていると言っても過言じゃない。闇雲に掻き集めたものを押し込んでなんとか生きてるんだ。それが酒であったり女であったり、チンピラになったり強盗だったりな」
「先輩もすか?」
「そんなもんだ」
「へえ……」
胡桃澤の言葉に、田中はふと気になっていたことを思い出す。
その彼の口元が緩んだのを見て、胡桃澤は「なんだ?」と訝しむ。
「いや、先輩の心の穴を埋めてるのって、このまえ電話してた〝さくら〟って人かなって思って。先輩あんまりそういう浮ついた話聞かないすから」
「ああ、違うよ。ありゃただの腐れ縁だ」
「えー? ホントすかぁ?」
初めてバーで会ったときに話していた内容でも、電話のときの対応でも、腐れ縁にしてはずいぶんと長い付き合いを感じさせるものがあった。
田中が掘り下げようとしたとき、胡桃澤が鋭い口調で言った。
「来たぞ」
彼の視線を追い、そちらの方へと目を向けると車から降りてくる女が見えた。
猫柳三琴だ。
地味な紺色のスーツ、肩まである黒髪は艶やかでコーディネイトしたかのような同色の黒縁眼鏡。スカートから伸びるしなやかな白い足。写真で見たように、ほとんど化粧をしていないようだが、美人ではある。
だが一瞬見えた彼女の目は鋭く、気の荒い山猫のようだった。
胡桃澤が予想した通り、北側の出入口に近い場所へ車を止めた彼女は、無駄な動きをすることなく一直線に店内へと向かっていく。モバイルパソコンの画面に、彼女の姿が映ったのを確認すると胡桃澤は別のウインドウに切り替えた。
「よし、移動してくれ。俺は北側の監視カメラに細工する」
「了解」
田中はエンジンをかけると、銀行の駐車場へ移動した。
運よく彼女が乗ってきた車の隣が空いている。運転席側に駐車できるのは幸いだった。これならば猫柳が自分の車に乗り込もうとしたときに、左側のスライドドアから車内に連れ込むことが容易だ。田中はすぐさま後ろ向きで駐車する。いつでも出られるようにエンジンはかけたままにしておいた。
「じゃあ先輩、運転お願いします。俺は後ろで女が来るの待機してますんで」
「おう」
相変わらず軽い返事だな、と田中は苦笑した。
手慣れているのか、ずいぶんと落ち着いている胡桃澤を見ていると、これから女を拉致して逃走するという計画もずいぶん小事に思える。まるで小荷物を受け渡しするかのような口ぶりだ。
後部座席に移動すると、運転席と助手席の間から顔を出し、パソコンのモニターを確認した。胡桃澤の細工がうまくいったのか、北側出入口のカメラ画像だけは駐車場の奥に視点を切り替え、そのまま変化しなくなった。
「これでいいだろう。タイマー式のスクリプトを設置したから、三十分もすればカメラの位置は今までと同じようなルーチンワークに戻るはずだ。あとでバレたとしても、証拠の映像がなければ意味がないし、アクセスしてきた端末も特定できないなら警察も手出しできないだろう」
「女は二階の貸金庫室に行ってるんですかね」
「まあ、そう慌てるな。出てきたところを見逃さなきゃ問題はない。とりあえず回線は切っておく。あまりアクセス時間が長いと、さすがにセキュリティシステムに捕まっちまうからな」
貸金庫室の映像が見れないことに、田中は少し不安だったが、彼の言うようにあとは銀行から出てきて車に乗り込むところを捕まえるだけだ。それまでは落ち着いて待っていればよかった。胡桃澤は助手席から運転席に移動し、いつでも車を出せるように準備する。
二人はフロントガラスから見える北側口をじっと見つめていた。
会話はなかった。
田中には車のエンジン音が、自分の心臓音に聞こえた。
出入口は自動ドアになっているのだが、扉の半分以上が磨りガラスになっているため、出てくる人間がはっきりと識別できるのは足元だけで、あとは磨りガラス越しのシルエットでしかわからない。店内に入る前の彼女の服装は確認しているので、なんとかわかるはずだ。まだ、誰も出てくる気配がないのにも関わらず、すぐに飛び出せるようにドアハンドルを握りしめる。
猫柳が店内に入ってから、どれくらいの時間が経っただろう。
車内の時計は二時三十五分。
慌てて車を移動させたので、店内に入ったときの時間を見ていなかった。アポイントは二時半だったので、それから考えてもまだ出て来ないだろうか。デジタル式になっている時計は微動だにしない。一分という時間が異様に長く感じる。
出入口と時計を交互に目をやりながら、二時四十分を迎えたときだ。
自動ドアに黒いシルエットが見える。
田中は乾いた唇を舐めると「あれですかね?」と言った。ドアがゆっくりと横開きすると、そこには猫柳の姿があった。服装と同色のショルダーバッグを提げている。彼女の姿を認めた胡桃澤は、返事の変わりにブレーキを踏んだまま、ギアをパーキングからドライブにシフトさせ、ちらりと田中の方を見た。
言葉は不要だ。
やるべきことはわかっている。
田中は小さく頷くと、助手席の隙間から見える猫柳の歩く速度から、スライドドアの前にくるタイミングを予測する。思ったより歩く速度が早い。
あと少し。
手にまとわりつく汗を拭う。
ドアに手をかける。
今だ!
田中は勢いよくドアを開け放つと、猫柳に飛び掛る。
「ちょ……なに!」
左手で彼女の腰周りに手を回して抱えあげるようにし、右手で口を塞ぐと、強盗ではお決まりの台詞で「静かにしろ! 言うことを聞かないと痛い目に会うぞ!」と言う。
彼女は抵抗しようと彼の腕を掴むものの、忠告どおり少しは大人しくなったように思えた。田中と猫柳の身長差はあまりなかったため、体重が軽い分、彼女を車の中に引っ張り込むのは想像していたより容易だった。
彼女を座席シートに押し付けるようにして、素早くドアを閉めると「先輩!」と叫ぶ。顔色ひとつ変えずに事を眺めていた胡桃澤は、田中が声を掛けるとほぼ同時に車のアクセルを踏んだ。
ハイエースが大きく揺れる。
そのせいで田中はバランスを崩し、猫柳の上に覆いかぶさるように倒れた。
ぶつけた頭をさすりながら顔を上げると、目の前に猫柳の顔があった。当然ながら怒っている。理由は多分にあることだろう。
もう片方の手は、彼女の胸に着地していたのもある。
頭の整理をする前に、猫柳から平手打ちを食らった。
「痛てっ!」
「何すんの! いったいどういうつもり!」
「いいから黙ってろ!」
頭の痛みと、頬の痛みを堪えながらも、腰のベルトに挟んでいた拳銃を取り出す。今にも飛びかかろうとしていた猫柳は、ゆっくりとシートの隅へと体を戻した。彼女はそれ以上暴れようとはしなかったが、鋭い睨みを田中と拳銃に向けていた。
運転していた胡桃澤が、はじめて口を開いた。
「落ち着いたか?」
その言葉は田中に向けられたものか、猫柳に向けられたものかわからなかった。
彼は鼻歌を歌いながら運転していた。
ストーンズの『ライク・ア・ローリングストーン』だった。