06
九月十七日。
田中は車で胡桃澤の家へ向かっていた。
いつも移動は車だが、胡桃澤の家に行くときには手前にある空き地に駐車して、約百メートルくらい歩くことになっていた。以前、家の前で路肩駐車をしていたところ、他の車から通行の邪魔になると文句を言われたからだ。
そのときは田中が出て行ったのだが、彼の風貌を察した運転手はすぐに撤退したものの、彼の慕う胡桃澤より「少し向こうに空き地がある」という一言で、それ以後はその空き地に駐車するようにしているのである。
黒のトヨタ・ハイエースは少しばかりエアロパーツを組み、荷物がたくさん積めるだけのキャブオーバーではなく、本来では最大九人乗りが可能なスペースのところを、六人乗り仕様にし、そのぶん後部にフリースペースを設けている。板張りにしており、ラックに固定された機材がいくつかあった。
強盗のときに必要になるであろう、盗聴器の受信機やモバイルパソコンもあった。
空き地に車を止めた田中は、運転席から降りると、溜息をつきながら胡桃澤の家へ向かう。その足取りは重く、うなだれた様子だった。
辺りは暗くなり始めている。
夕焼けを背にした彼に哀愁が漂っていた。
家の前まで、ぼうっとして歩みを進めていた田中は、玄関の前に立っている胡桃澤に気づかなかった。
「あ、すんません。お疲れ様っす」
「おう、どうした」
胡桃澤はそう言いながら、家の鍵をポケットから出す。
彼の服装は、最近よく着ている作業用のつなぎ服だったことから、今アルバイトから帰ったところなのだろうと田中は察した。
手にはコンビニ袋を提げている。
「今日は土曜なのにバイトだったんすか?」
「ああ、ちょっと急ぎの仕事でな。クライアントが早めに仕上げれば報酬額増やすって言ってるから、頑張ってやってたんだ」
その忙しい様子が、ペンキや油で汚れている作業服でわかる。
立て付けの悪い戸が開くと、二人は家の中に入った。
胡桃澤はコンビニの袋を座卓に置くと、中から缶ビールを取り出し、一本を田中に渡した。
「飲めるか?」
「俺、車なんすよね」
「泊まってもいいぞ」
手渡されたビールを片手に田中は黙っていたが、胡桃澤は気にせず飲み始める。
「何かあったんだろう? 顔を見ればわかるよ。とりあえず飲めば?」
「そうっすね……じゃあ、頂きます」
そう言って田中は缶ビールの口を開けると、そのまま一気に半分近く流し込んだ。
胡桃澤は煙草に火をつけると「真奈美ちゃんからは連絡あったか?」と聞いた。小さくうなずくが、その反応は釈然としないものだった。
「何だよ。どうしたんだ。真奈美ちゃんは何も掴めなかったのか?」
「いえ、あれから仙石と二人になれたらしく、目的の情報は得られました」
「じゃあ、問題ないんだろう」
「先輩、二人きりになったんすよ?」
「だから、それで色々な情報が得られたんだろ」
「俺は、ある言葉を思い出しました」
「なんだ突然に」
「『愛する事を教えてくれたあなた。今度は忘れる事を教えて下さい』」
「シェイクスピアか」
「アイリス・マードックです」
「……何が言いたいんだ」
催促するように、灰皿に煙草の灰を落としながら聞く。
眉間に皺を寄せながら田中は語り始める。
「仙石が来た後、少し様子を見てから俺たちは店を出たじゃないですか。実はあの後、俺は店の前にある路地で、仙石が出てくるところを確認しようと待ち伏せていたんすよ。あいつが貸金庫を管理してるんだとしたら、取っ捕まえて脅した方が早いかと思って。それでしばらく待ってたら二人が一緒に出てきたんすよ」
「そりゃお見送りだろ」
「真奈美は帰り支度して、仙石の腕に絡みついて出てきたんすよ」
「おおっと……」
胡桃澤はビールをこぼしそうになった。
田中の方といえば、両手で握りしめた缶ビールの形が歪んできている。
「まあ、俺も予想はしていたことですけど。そのままホテル街の方へ歩いていったから……そういうことなのかなって」
「そういや睡眠薬を渡していたな。それを使って眠らせたんじゃないのか? 別にお前が想像しているようなことなんて、あったかどうかわからないんだろ。それとも真奈美ちゃんがそういう関係を告白したのか?」
「いえ、真奈美からは次の日の昼頃に電話があって、うまくいったから会って内容を伝えるって。で、会って話を聞いてきたんすけど、なんかいつもより楽しそうで」
胡桃澤は頭を掻いた。
つまり田中が意気消沈しているのは、自分と相思相愛と思っていた真奈美が、自分が依頼した事とはいえターゲットの仙石に取られてしまったのではないか、という心配しているのだろう。
こいつはチンピラ以上にあまり犯罪者向きではないなと思いながらも、話を先に進めるため口を開いた。
「じゃあ、俺からはヘミングウェイの言葉を送ろう」
「ヘミングウェイ?」
「『釣れないときは、魚が考える時間を与えてくれたと思えば良い』」
「俺、ずいぶん考えましたけど」
「まあ……とりあえず、真奈美ちゃんからの情報を教えてくれよ。お前も色恋沙汰に没頭し過ぎて、組から命を取られちゃ元も子もないだろ?」
諭すように胡桃澤が言うと、ようやく田中も「そうすね」と小さく返事をした。
ようやく気を取り直したのか、彼はお気に入りのアリゲーターバッグから、資料を取り出して胡桃澤の前に置いた。
その内容を目にして、胡桃澤は田中の落ち込む理由が理解できた。たしかにここまで詳しい情報を手渡してくるとなると、仙石とかなり親密な関係にまで達したのだろうと想像してしまうはずだ。
苦笑いを隠しながら、彼は田中の説明を聞いた。
「まずは貸金庫のことなんすけど、これは先輩が言ったように猫柳がブツを受け取ってから銀行の外で奪った方がいいみたいすね。仙石のいる斉京銀行の貸金庫は、二階に貸金庫専用のフロアがあって、本人と行員が一本ずつ所有している鍵がないと開錠できないようになってます。監視カメラの数も多くて、二人で襲撃なんてすれば、すぐに捕まっちまうでしょう。データごと猫柳も拉致する予定で問題ないっす」
「それは予想してたからな。現金を盗むよりハードルが高い」
「それで猫柳本人の情報ですが……これっすね。銀行との貸金庫契約書です。契約期間は三ヵ月で、期限が九月二十一日までになってます。こっちが本人確認したときの免許証のコピー。偽名じゃないのかな……猫柳三琴となってますね。三人姉妹の末っ子なんすかね。三琴なんて名前」
「さあな。生き別れたお前の姉じゃないのか」
「俺の兄弟は全員男っすよ。生き別れてもないし」
そう言って田中は笑う。
少しは調子が戻ってきたらしい。
胡桃澤は、吸っていた煙草がいつの間にか灰になっていたことに気づき、二本目の煙草を取り出す。田中がライターを出しながら説明を続けた。
「真奈美の話だと、次に仙石と猫柳が合うのは契約書の期限日である九月二十一日で最後らしいっす。当然この日にデータを持ち出すんでしょうけどね。仙石の手帳には午後二時半にアポが入ってるらしいんで。先輩、この日はアルバイトとかの予定を入れないでくださいよ」
「大丈夫だ。今のバイトもその頃にはもう終わってる」
「強盗予定日時は決まりましたけど、実際にはどういうふうにするんすか?」
「一応、俺なりに考えてはいる」
そう言うと、胡桃澤はCDと文庫本に溢れたカラーボックスの奥から、丸めた用紙を手にすると座卓に広げてた。そこには図面が描かれている。
「これって、もしかして銀行の見取り図じゃ……」
「ああ、ジョージに手配してもらった」
「ジョージさんって……そんな情報も手に入れられるんすね」
田中は寡黙なマスターの顔を思い浮かべる。
この図面を手に入れるのに、何枚の福沢諭吉が必要だったのかを想像していたのだ。
そんな田中の心境は知らず、今度は胡桃澤が説明を始めた。
「さっき聞いたように、二階にある貸金庫のフロアには入り口だけでも三台の監視カメラがあるし、一階にも当然のことながら本金庫があるから確認できただけでも、十台以上ある。入り口は三か所で、ここには一台ずつカメラがある」
そう言いながら、指で三ケ所の出入口を指す。
図面では、店舗の北側に一か所。
表通りに面した西側に一か所。
そしてATMの前にある南側に一か所。
それぞれの出入口に面して一台ずつ設置してあるようだ。田中もこの銀行には行ったことがあるので、建物の構造は少しながら想像できた。普段、彼が使うのは南側のATMがほとんどだった。だが、窓口に用事のある客は、表通りに面した西側の出入口を利用するだろう。
「九月二十一日は水曜だな。翌日は秋分の日で祝日だから、銀行を利用する客も多いはずだ。サービス業なら釣銭の両替が必要だから、ATMに並んでいる両替機の周辺が混雑するだろう。二十五日が給料日の会社もあるはずだから、ネットバンキングを利用していないところは振込依頼書で窓口に依頼するはずだ。そうなると猫柳が利用するのは、二階への階段が近い北側の出入口が濃厚だ。北側出口は表通りからは少し死角になっているし、駐車場も近い。組から奪ったヤバいデータとなれば、貸金庫から車まで最短距離で移動したいはずだ」
「じゃあ、北側の出入口で待ち伏せっすね」
「ああ、駐車場にも一台監視カメラがあるから、こいつをなんとかしないといけない」
「そうっすよね……車の中で待機するにしても、目出し帽とか被ったままだったら、他の人間から不審に思われちまうし……カメラを壊すのもリスク高いし……」
「そのとおり。だからカメラを操作する」
田中は目を丸くして「カメラを?」と眉間に皺を寄せる。
まるでスパイ映画だ。
「ここの警備システムはDTセキュリティって会社が担当している。昨日、この銀行のATMで金をおろしたときに、さり気なく見たんだ。ご丁寧に会社のロゴが貼られていたから間違いない」
DTセキュリティという会社に、田中は覚えがあった。
それもつい先日、自分の口から胡桃澤に説明したことだ。あの十年前に起きた現金輸送車襲撃事件。田中が「やっぱり」と口にする前に、胡桃澤がコンビニの袋から取り出した柿の種を投げつける。
そして「黙って聞け」と言った。
「この警備用カメラは、あらかじめ監視したい場所を何カ所かプリセット登録させておいて、その登録した場所を順番に繰り返し撮影していくシステムだ。だからこの北側の出入口前と、駐車場に設置されている両方のカメラに、でたらめな撮影個所を再登録させて俺たちが待機している車を撮影させないようにする」
「でも……そんなこと本当にできるんすか?」
「大丈夫だ。ここのセキュリティはクラウドで管理されているから、ネットワーク上から侵入することが可能だ。カメラの設定なんかは銀行の端末から、DTセキュリティのクラウドへ送信するようになっているから、銀行側の端末に偽装したIPでアクセスする」
「言ってることがよくわかりません」
「とにかく監視カメラを無効化できる」
「なるほど」
話の要約で理解した田中は、缶に残ったビールを飲み干した。
胡桃澤が二本目の缶ビールを差し出すと「あ、すんません」と拒むことなくプルタブに指をかける。発泡音のあと、再び喉を潤す田中を見ながら、胡桃澤は煙草の灰を落とす。
「カメラを気にする必要がないから、俺たちは猫柳が出てくるのを見計らって、接触し、彼女ごとデータを奪う。本当ならデータだけを回収する方がいいんだが、彼女の身柄も必要なんだろ?」
「もちろんすよ。この女のために俺がこんな目に合ってんですから。それに先輩の報酬もこの女を交渉の道具に使うつもりですし、もし荷物だけをひったくってもデータは上着のポケットに入れてたりしたら大失態ですからね。女ごと連れて行くのが確実っす」
「わかった。じゃあ役割を決めよう。どっちが彼女を拉致する?」
「あ、それは俺がやります。先輩は運転をお願いしていいっすか?」
「わかった。じゃあ、俺は運転席で待機しているから、拉致したらすぐに車に乗ってくれ。逃走経路は交通量の多い市内を走ったあと、尾行がないか一車線の県道に入って様子を見る。そのあと二十四時間はどこかに潜んで、テレビとラジオで事件として扱われているか確認しよう」
「まあ、マフィアの人間だったら、事を荒げるようなことしないと思いますよ」
「マフィアの連中がそうしなくても、銀行員や客が気づいたら警察に通報されるだろうからな。そうなればちょっとまずいが……だが、うまくいけば誰にも気づかず事件にもならない。この出来事は表には出ず、俺たちの中だけで進行することができる。これがいちばん理想のケースだ」
胡桃澤の考えに、田中は何度もうなずく。
猫柳三琴が、銀行からデータを受け取りにいく日時は確認できている。胡桃澤の話で彼女がどのような経路をチョイスするかも予測できた。その対応もなんとかなりそうだという。本人は認めてはいないが、彼は現金輸送車の襲撃に成功し、完全犯罪を成し遂げているプロだ。田中にも自然と笑みが浮かんできた。
「そうだ。それで逃走に使う車ですけど、俺の車を使いますか?」
「そうだな……できれば、決行日に車を盗んだ方が警察から逃げるのには好都合だと思うんだが、そうなったときには必然的に身を隠すことになるわけだし、逃走するには情報収集や食料の心配もあるからな。できればお前のハイエースで準備した方がいいが……」
「当日までに、ダチの板金屋で偽造のナンバープレートくらいは作らせますよ。それくらいじゃ不味いすかねぇ?」
「できれば、塗装を変えたいが……お前の愛車だしな」
「その方が良ければ色変えますけど」
胡桃澤は灰皿で煙草を消すと、しばらく吸い殻で灰を突いていた。何やら考え事をしているようだったので、田中はトイレを借りようと立ち上がった。ビールを飲むと、どうしても尿意のサイクルが早くなる。
部屋を出ようとした田中に、「塗装については面白い案がある。俺が連絡するまで保留しておいてくれ」と胡桃澤は言った。
おそらく彼には妙案が浮かんだのだろう。
その得意げな表情に田中は安堵した。
自分一人では、ここまで計画を練ることはできない。
胡桃澤は、田中がトイレに入ったのを見計らい、彼のアリゲーターバッグを手にした。普通のセカンドバッグにしては重量がある。中身を見ると、やはり以前見たのと同じ拳銃が入っていた。
田中はこの銃を使う気なのだろうか。
できれば使わなくても済むようにしなければ、と胡桃澤は考えていた。




