第2章〈ファンブリーナ〉
ファンブリーナ。
帝国一の湾岸都市であり、世界一の貿易都市。南方に荒々しくも豊かな海を持ち、辺りを荒野に囲まれたファンブリーナは、さながら帝国のオアシスだ。
多くの旅人が休息と物資を求めこの地を訪れ、様々な国の品物をぶら下げた華やかな商隊で通りは賑わう。街も人も常に活気に溢れたこの街は、軍事国家のアレクサンドリア帝国には貴重な存在とも言える。流通の中心であり帝国の富の象徴でもあるファンブリーナは、多くの民族が集まる国際交流の場でもあり、住民の多くは陽気で社交的な性格だ。
そう、ここの人たちは僕の浅黒い肌だって気にしない。他の土地では、忌み嫌われ散々侮辱されたこの肌の色も。
だから僕はファンブリーナが好きだ。この街が僕の宝物だ。きっとこれからも、それは変わらない。
――そう思っていた。
さて、時はファンブリーナが占拠された当日に遡る。
「逃がすな! 必ず捕らえろ!」
深い夜の闇の中に、緊迫した声が飛ぶ。その声は、恰幅の良い中年の男――皇国の威厳と秩序の象徴である、群青色の軍服を纏う男のものだった。
周りにいる同じ軍人の反応からすると、今声を発した男が上官らしい。部下とおぼしき軍人たちは素早く反応し、それぞれが別の路地へと走り去っていく。また、とりわけ身軽な一部の軍人たちは、器用にもほとんど音を立てずに屋根上に上がっていった。
この大都市ファンブリーナは、帝国の中でも類を見ない多住宅都市だ。最大の港区リューブを中心に所狭しと建ち並ぶ建造物は、見るものを圧倒する。きらびやかな繁華街が密集し、雑然とした通りには食材店、酒屋、問屋、宝石店、鍛治工房、武具屋など様々な商店が並び、異国の物品が溢れかえっている。
さらに、土地を効率的に使うため建造物はみな縦に長く、屋根上にも露店が開かれる始末だ。実際、屋根上は若者たちの通り道や遊び場として使われている。とにかくファンブリーナは広くて狭かった――人や物や建物が多すぎるせいで。
そういう理由で、軍人たちは屋根上を調査することも重要だと考えた。少なくとも、地表や地下よりは見晴らしがいいし、若者なら屋根上を経由して逃亡する可能性が高いと踏んだからだ。
まったくもって逃亡者には迷惑な話だが、皇国軍には頭が切れる者が多かった。それも枢機卿の教育や指針の賜物だろう……逃亡者ティリンス・クレタはぼんやりそんなことを思った。
彼は案の定屋根上を全速力で駆け抜けていた。少しでも足を滑らせ転倒すれば、そのままはるか下方の地面に叩きつけられ命はない。そんな危険極まりない場所だが、ティリンスはこの道を通い慣れていたので、まったく怖がる様子もなく駆けていく。
屋根上でも一際高い建造物や露店などを利用し、上手く隠れながら逃亡していた。これでは、土地勘が乏しい皇国軍はどうしようもない。
――そろそろ下に降りても大丈夫だろうか。
ティリンスは、辺りを警戒しながら乱れた呼吸を整えて、体を屋根に張り付けるように伏せた。
そのまま、そっと下方の街並みを覗き込む。
と、耳元をヒュンッという風を切る音が走り抜けた。背筋が冷たくなり、体が硬直する。
弓矢――?
ティリンスは、反射的に背後の占い小屋のカーテンの中へ転がり込んだ。分厚いカーテンを素早く閉めると、ぶすぶすという嫌な音を立て矢がカーテンに突き刺さり、先端が目前で止まった。本当に鼻先すれすれだ。
悲鳴を飲み込み、小屋を覆う布をくぐり抜ける。反対側に飛び出し、ついで慌てて動きを止める。
ティリンスの目の前に、軍服を着た男が立っていたからだ。
急に足元に転がり出たティリンスに軍人は面食らったようだ。よく見るとかなり若く、ティリンスより少し上くらいの年齢だと思われた。
その事実が、ティリンスの心に少しの余裕を与える。
彼は勢いよく男に飛びかかり、軍人の顔を爪で引っ掻いた。若い男はぎゃああ、と短く悲鳴を上げ、ティリンスを振り払おうと腕を振り回し暴れる。
ティリンスは隙をついて、男が腰から吊り下げた剣を力尽くで奪い取った。
よし、これがあれば少しは戦える!
だが、逃亡者がそう思ったのも束の間、騒ぎを聞きつけた仲間の軍人が次々と小屋の裏手に駆けつけた。
二十人、二十五人……いや、三十人以上いる。この人数が相手では、剣の扱いなどまともに知らないティリンスは一溜まりもないだろう。
どこからこんなに沸いくるんだ、と青を纏う集団を眺め、ティリンス泣きそうになる。
追いつめられた青年は、とっさに若い軍人をひっつかみ彼の裏に回り込んだ。悪党などが好んでやってみせる、人質を盾にする卑怯な手だ。
こんなことは好きではないし、緊張と焦りで心臓が痛いほどだが、やむを得ない。
無様にも盾にされた若い兵士を見て、部隊の上官が罵声を発した。
「アンダーソン! この間抜け野郎がッ!」
「すみません、ブレニム軍曹」
若い軍人は、恐怖に引きつった血まみれの顔を情けなく歪ませた。
ティリンスはそれを聞き、申し訳ないと思いつつも力の限り人質を前に突き飛ばす。突き飛ばされた哀れな男は勢い余って前列にいた仲間に突撃し、迷惑な妨害をきたした。
軍人たちがいらついた唸り声を上げ、若い軍人を振り払い、ある者は弓を構え、ある者は剣を振り上げ、ティリンスに向かおうとする。
しかし、ティリンスは彼らよりさらに早かった。
彼は転がるように屋根を滑り落ち、次々と低い建物に飛び移っていく。さながらムササビだ。
一方、まんまと逃げられた皇国軍はむきなった。ブレニムがだみ声を張り、弓兵たちに激を飛ばしたので、上官の逆鱗に触れたくない部下たちは手当たり次第に矢を飛ばし始める。
ついには、軍人の内誰かが闇雲に放った一本の矢が、ティリンスの左肩をかすめ皮膚と肉をえぐり取った。
傷口から噴き出した血と唐突な激痛に、ティリンスは一瞬視界を眩ませた。直後、運悪く足を滑らせる。
ティンリスの体は、万物共通の重力に従い、自由落下を開始した。
星空が、怒声が、瞬く間に遠くざかっていく。反対に、耳元で唸りを上げる風音は耳障りで。
――落ちている。
そんな――。
浮遊感と絶望がティリンスを包み込む。
彼はふと思った。近づいてくる地面が見えないのは、不幸中の幸いかもしれない。
次の瞬間、激痛と轟音がティリンスを強襲した。
あまりの痛みと衝撃に悲鳴すら上げられない。
続いて、鈍痛が全身を駆け抜けた。今度は弱々しい呻きが口から漏れ、ティリンスの目の前が白と黒に点滅する。
何も見えない。聞こえない。
僕は死ぬのか。
こんなところで――。
ティリンスは何かを叫ぼうとした。しかし、それが音になる前に彼の意識は闇に沈んだ。
“寝苦しい”。
それが最初の感覚だった。
青年――ティリンスが、倦怠感に支配された混濁した意識の中をさまよっていると、やがて瞼に残像のような光がちらつく。
……眩しい。
その感覚を認識したのち、急に理性が覚醒した。
僕は、まだ生きている?
「……ッ!?」
興奮のあまり勢いよく飛び起きたものの、左肩に走る痛みに苦悶の声が漏れた。
こんなに痛いと感じるのは初めてだ。だが、痛みも生きている証に他ならない。
自分の生命力に驚愕しながらも、ゆっくりと左肩を見てみた。誰かが治療してくれたのか、左肩には包帯が巻いてある。左肩以外大した負傷はなく、落下時に感じた全身の痛みも粗方消えていた。
自分の状態を確認したティリンスは、次に辺りを見回した。
……小汚い。いや、かなり汚い小屋だ。
天井は至る所の板がはげ、室内に日光が降り注いでいる。小屋中に舞う埃やちり、無造作に投げ捨てられたゴミが日光を反射し、きらきらと輝く。普段ならなんとも思わないが、今はその何気ない光景が感慨深いものに思われた。
ティリンスが寝ているのは数枚の板を組み立てて作った簡素な寝台で、すりきれ嫌な匂いがするぺらぺらの毛布を被っている。シーツはなく、剥き出しの板の上にそのまま寝ていたらしい。
小屋は小さく物が散乱していたが、片隅にこの場に似つかわしくない上品で大きな姿見が立てかけてあった。これは、なにやら年季物みたいだ。
傷口に負荷をかけないように気をつけながら、ティリンスはふらふらと戸口へ向かった。
誰が助けてくれたのかは知らないが、とにかく、会って話をしなければ。手当てまでしてくれたのだから、感謝もしなければなるまい。
立て付けの悪い引き戸を半ば強引にこじ開け、日光の中に出た。眩しさに目を細め、数回まばたきする。
どうやら屋根上のようだ。広々とした青空が目に痛い。
目が慣れ、左右を確認すると、ある人物が目に入った。
薄汚れた身なりの男が、両足を屋根の端から投げ出した危険な体勢で爆睡していた。
ごうごうという酷い鼾がここまで聞こえる。ボロボロのチュニックを身にまとい、短いくすんだ金髪は何日も洗っていないように見えた 。
そっと近づき顔を覗き見ると、その男が若くないことがわかった。開けっ放しの口から覗く歯は何個か欠けていて、無精ひげと相まってかなり見苦しい。
この男が助けてくれた可能性が高いが、ティリンスはなんとなく声をかけることに戸惑いをおぼえ、彼が自然に目を覚ますまではそっとしておくことにする。
ふぅと息をついて顔を上げると、そこには思わず溜め息をつくほどの絶景が広がっていた。
ここはかなり高い場所に位置しているようで、繁華街や商店街、大通りや広場を全て一望することが出来る。煉瓦造りの建物が密林のように建ち並ぶ街並みは、窮屈なようでいてどこか温かく、まるでこの街の人々の性格を表しているようだ。港には、いくつかの豪華な商船が停泊しており、広場や大通りも普段は見世物やサーカスで賑わう。
ティリンスは思う――この閉ざされた帝国にあって、ファンブリーナは唯一の楽園だと。
が、その心もある光景により暗いものになった。街の東部、工房街から立ち上る数本の硝煙を確認したからだ。工房街には占拠された今でも皇国に反抗する職人たちが多くいる。恐らくは皇国軍によりそれの鎮圧が行われているのだろう。
ティリンスは溜め息をつく。地響き、轟音、悲鳴、そしておぞましい数の――虫。
皇国軍がこの街に押し寄せてきたあの時の光景は忘れられない。思い出すと今でも鳥肌が立つ。
そもそも何故あんなにも唐突に奴らは現れたのか。ファンブリーナの警備機関に発見されることもなく、帝国軍の目に留まることもなく。それ以前に、何故僕ら住民を生かしている?
皇国軍の武力が行使されたのは、皇国による侵攻開始から制圧を通告したほんの一時間程度の間だ。ある人は枢機卿は出来た人間だから虐殺を好まないのではと言っていたが、戦争においてそんな情けは期待できるはずもない。今は僕らを殺さずにある程度は自由にさせているけれど、きっと何らかの不愉快な理由があるに違いない。
ああ、ファンブリーナ――。母さんが愛した街、僕を育てた美しい都。
今ここで、きっと帝国の存亡に関わるような邪悪な陰謀が渦巻いている。僕は何としてでもそれを阻止したい。この都市を自分の手で守り抜きたい。
だけど、僕に出来るのだろうか。軍人でもなく、ましてや魔導すら使えない僕に。
ティリンスはしゃがみこみ、両手で顔を覆った。あまりの無力さと不甲斐なさに目眩がする。結局は、この街が壊されていくのを見守るしかないのだろうか……。
そんな感傷に浸っていると、ふいに真横から声が飛んでくる。
「なんだ、案外元気そうだな」
小汚い男が起き上がり、ティリンスを眺めていた。
驚きながらも、ティリンスは改めて男を見た。ティリンスが男の小さな黒い瞳に言い難い不安を感じていると、男がだらしなく顎を掻き始めた。
その時になってようやく、ティリンスは男の右手の薬指と小指がないことに気づく。
男は歯を剥き出しにし、醜悪な笑みを浮かべた。
「バフラだ。よろしくな」