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SCHEMER〈スキーマー〉  作者: 霧雨ウルフ
第二部 アルトネア制圧戦
58/76

奇襲

 その後のナスカの対応は、感心したくなるほど鮮やかで迅速だった。

 少年は今までテントに充満していた刺々しい空気を無視し、目にも止まらぬ速さで外へ飛び出した。微塵の迷いも見せずにピトンたちに背を晒して去っていくナスカの姿は、彼の枢機卿への執心ぶりを物語っていた。

 突然の出来事に、テント内にいた者たちは声も出せなかった。数秒の間の後、ようやくピトンの思考力が機能し始め、彼は夢から醒めたような顔でオリンダを振り返った。

「行きましょう」

 オリンダはいつもと変わらぬ沈着さで答えた。

「それがいいだろうな」

 オリンダが立ち上がり側に控えていたテイデたちに指示を出す声を聞きながら、ピトンは垂れ幕をくぐりナスカが向かった方向へ駆け出す。なぜ警備されていたはずの連合軍内に侵入者が現れたのか、という疑問を解明するよりも、今は枢機卿を守ることが最優先だ。ピトンは、とにかく急いで彼のもとへ向かうことにした。

 ピトンが悲鳴の上がった場所へ近づくと、襲撃者の餌食になったとおぼしき兵士の死体が見え始めた。それらの先で上がる怒声と悲鳴が、襲撃者の居場所を示すと同時にピトンの焦燥を煽る。

 ふと、ピトンは無言でついてくるアザトの気配を感じ、彼女を振り返った。

「襲撃者らしき奴を見つけたら射て。ただし最初は当てるなよ、威嚇するだけでいい。生け捕りにして情報を吐かせたいからな」

「その余裕があればいいんだが」

 アザトはクロスボウをいじりながら、慣れた顔で頷いた。非常事態にも関わらずあくまで冷静なアザトの凛々しい顔に、ピトンは思わず見惚れそうになってしまったが、呑気に感心している場合ではないと気づき走る速度を上げた。

 テントの間を縫って走る二人を、傷ついた兵士や慌てふためき武器を手にした者たちが眺めている。彼らもヴァルカモニカのもとに向かうつもりだろうが、あまりに唐突な敵襲に動揺を隠せないようだ。

 ピトンも、襲撃者の仕業とおぼしき兵士たちの残骸を目にして、僅かに顔を歪める。

 ──暗殺者だな。

 ほとんどの死体が、一撃で急所をやられていた。それに、兵士が敵に攻撃を与えた痕跡もない。相手はナスカと同等、もしくはそれ以上に俊敏で殺しに長けた人物と考えていいだろう。

 運動に伴う体温の上昇と共に、ピトンとアザトの緊張感も高まる。相手はほぼ確実に手練れだ。それも、闇の中から音もなく殺しを行う暗殺者の性質を持つ者だ。

 まだ見ぬ襲撃者を予想し、ピトンは心の中に不安が広がっていくのを感じた。

 あるテントを超えようとしたところで、アザトがクロスボウを前方に向ける。

「たぶん、そろそろ枢機卿のテントだ。このテントを超えれば見えるだろう」

「枢機卿の死体が?」彼は反射で笑えない冗談を返し、意識を耳に集中させ、騒然とした周囲のざわめきの中から剣戟の音を探り当てた。

 発生源は前方。

 小さな声と、土を蹴る音。

 そして、刃が触れ合う耳障りな響き。

 誰かが戦っていることは明らかだ。重要なのは、どちらが優勢なのかということ──。

 ピトンは地面を力一杯蹴りつけ、テントの前方に飛び出した。ついで、彼はテントの向こうにひろがる光景を目にして凍りつく。

 今、ピトンたちの目の前で激しい戦闘を繰り広げているのは、ナスカと見慣れぬ長身の男だった。男は驚くほど青白い顔で、動きに合わせて踊る三つ編みが目につく。容貌から察するに、恐らくアルトネアの人間だろう。

 ナスカと男の戦いは苛烈を極めた。煌めく刃の残光と金属がぶつかる音、高い身体能力を駆使した目にも留まらぬ攻防。全てが一瞬で無駄がなく、暗殺者の戦いぶりを物語っていた。

 一見すると、二人とも器用に致命傷は避けている。しかし、双方小さな傷は負っていることから、実力は拮抗しているようだ。時間稼ぎはできても、ナスカ一人では相手を仕留めるのは難しいかもしれない。

 ピトンはなんとかナスカたちから目線を引き剥がして、周辺の状況を確認した。彼はまずヴァルカモニカの姿を探し──ナスカの後方で屈み込んでいる大柄な男を見つけた。

 しかし、地に膝をつく枢機卿ヴァルカモニカは、死にかけているわけでも負傷しているわけでもなさそうだ。彼は見たところ健康そのもので、しかし深刻な顔つきで、自分の足元に横たわる少女の顔を覗き込んでいる。

 ピトンはヴァルカモニカの前に横たわる少女と、枢機卿の向かいで彼女の手を握り締める男に見覚えがあった。三人の後ろで彼らを守るように魔術防壁を張っている男も含め、四人ともピトンには見慣れた顔だ。

「しっかりしろ、メリダ」

 仰向けの少女の手を強く握り締め、黒髪の男が言った。

「君はまだ死んじゃいけない。ここで死ぬべき人じゃないんだ」

 男──パラディオは今にも泣き出しそうな顔で、地面に横たわるメリダを見ていた。ぼやけた目でパラディオを見上げるメリダは、どこか満ち足りた表情で微笑んだ。

「でも、猊下と、貴方は、守れたわ……。私、満足よ……」

「毒だ。恐らく、小柄な侵入者の仕業だな」

 ヴァルカモニカが、メリダの肩に手を当て呟いた。彼は普段の温厚な様子とはまるで違う厳しい表情で、熟練の医者を思わせる手つきでメリダの肩から細い針を引き抜く。メリダは痛みもないようで、ただ虚ろな表情で天を見ている。

 ピトンは無意識の内に、ヴァルカモニカたちの方に向かって走り出していた。ピトンが駆け出したのと同時に、彼の後方でアザトが弓を放つ音が響く。ピトンが横目でそちらを確認すると、アザトが放った矢は三つ編みの男の足元付近の地面に突き刺さり、衝撃の余韻で震えていた。

 三つ編みの男が不愉快そうに舌打ちし、アザトの方を見ないままダガーを投げつける。アザトは素早くそれをよけ、もう一度弓をつがえた。しかし、襲撃者が移動しナスカの後ろに回ったので、ナスカが邪魔になって射てずアザトは渋い顔をした。

「無理すんな! 味方に当てたら笑えねぇぞ!」

 ピトンはアザトに声を張り、暗殺者たちを避けてヴァルカモニカに近づいた。辺りには結構な数の兵士が倒れており、まともに戦力になりそうな人間はピトンたちの他にはまだ到着していないようだ。

 接近してくるピトンに気づき、魔術防壁を張っていたトロギルが複雑な表情をした。しかしトロギルが迷ったのは僅かな時間で、彼は防壁を崩しピトンにヴァルカモニカたちの側に来ることを許した。

 ピトンはヴァルカモニカの横に来ると膝をつき、仰向けの少女の顔を覗き込む。

「何の毒かわかりますか」

 ピトンは早口に尋ねた。ヴァルカモニカはピトンの登場に少し驚いたようだが、すぐに首を横に振った。

「まだわからない。が、即効性、致死性共にかなり高い毒だろう。すぐに解毒に取りかからねば、彼女の命はない」

 それはわかっているんだ、とピトンは心の中で呟き、虚ろな目をしたメリダを見つめた。血の気が引き、唇まで青く変色した顔はもはや死人に近い。

「誰にやられた。あの三つ編みの男か?」

 とりあえず情報を得ようとパラディオに問いかけたピトンに、虫飼いは「いいや」と唸った。

「もう一人小柄な奴がいて、メリダがそいつと戦ってるときにやられたみたいだ。そのとき相手も負傷させたけど、致命傷ではないと思う。たぶんそいつはもう逃げたか、もしくはどこかに隠れてると思うけど」

 ピトンはもう一人の襲撃者の存在を知り、ぎょっとしてアザトを振り返った。しかし、彼女やナスカの周囲に人が隠れられそうな空間はない。

 とりあえず向こうの二人は大丈夫かと思い、再びメリダに目を戻した時だった。

「猊下、針を見せてくれませんか」

 パラディオが真剣な顔で要求した。ヴァルカモニカは液体が手に触れないように気をつけろと忠告し、慎重に針を手渡した。

 パラディオは渡された針を様々な角度から眺め、メリダの血液と混ざり濁った液体を注視した。液体は元々透明だったようで、全くの無臭。また、メリダを死に追いやろうとしている凶器は全長10センチほどの細い針で、金属が光を鈍く反射しピトンの目を刺した。

 やがて、ピトンとヴァルカモニカが見守る中、パラディオは唐突に信じられないことをやってみせた。

 針に付着した毒に指先で触れ――その指を舐めたのだ。

 見たピトンたちは、息を呑み唖然とした。あえて毒薬を口に含むなど、到底まともじゃない。

 そこでやっと、ピトンの口から言葉が飛び出した。

「お前、何してんだ! この子はその毒でこんな状態になってんだぞ、死ぬつもりか!」

 ピトンの尤もな叫びに、パラディオは真面目な顔で答えた。

「心配しないでくれ、僕には並大抵の毒は効かないんだ。たぶん死んだりはしない」

「だが、今メリダを蝕んでいる毒は……相当危険なものだと思うが。いくら君が強靭な体を持っていても、この毒に耐性がない限りはメリダと同じ症状が出るはずだ」

 ヴァルカモニカが困惑した目をパラディオに向ける。パラディオはそれに自嘲気味に微笑み、軽く頭を振った。

「本当に大丈夫です、猊下。強靭とか以前に、私はいわゆる普通の人間ではありませんから」

 ヴァルカモニカとトロギルがもの問いたげにパラディオを見たが、パラディオは何も答えなかった。代わりに彼はピトンに対し、強い口調で指示を出した。

「トワ・ピトン伍長、今から僕が言うことに従ってくれるかい? 見ての通り状況は切迫してるから、できるだけ手際良く物事を進めたいんだけど」

「ああ、構わん。で?」

 ピトンが即答したのを見て、パラディオは事務的に話し始めた。

「メリダの毒には、僕の虫で応急処置をする。助けられるかどうかはわからないけど、やれるだけやってみるつもりだ。

 なので、僕らが治療に専念する間、君には襲撃者の相手をしてほしい。できればナスカと協力して、片方だけでも生け捕りにしてくれないか」

 ピトンはパラディオの言葉に親指を立ててみせる。そのあとすぐに、疲れた笑みを浮かべてぼやいた。

「難しいことを簡単に言ってくれるな。とりあえず、お互い上手くいくように願うぜ」

 ピトンは立ち上がり、枢機卿に敬礼してから駆け出した。メリダを助けようという気になったり、パラディオの命令に素直に従ったりしているのが我ながら不思議ではあったが、そこまで悪い気はしなかった。

 緊急事態だから、というだけの理由かもしれないが、それでもこうして一緒に戦っていると、妙な結束感が生まれるものだ。

 ピトンはそう思いながら、ナスカと襲撃者に近づいた。

 しばらく交戦する暗殺者たちの様子を窺ったピトンは、案の定三つ編みの男の方が上手だということに気づいた。彼はナスカと戦いながら、アザトから狙いにくい立ち位置を押さえている。複数を相手にしているというのに、隙はほとんどない。

 暗殺者が、ピトンの方へ軽く目線を流した。切れ長の一重の目は、ナスカ以上に冷淡な殺しに生きる人間の目だった。

 暗殺者がこちらを見たのを合図に、ピトンは一歩前へ踏み出した。

「おい、そこの三つ編み。大人しく降参しな、そうすりゃ悲惨な目には合わせねぇ」

 ピトンはオリンダのテントでナスカが吐いたのと似たような言葉を投げかけながら、剣帯ごと剣を地面に落とす。そして、懐から短剣を二本取り出した。

 小柄で器用なピトンは、大ぶりな剣よりも短剣での戦闘を好む。それに、今回の相手は暗殺者稼業を生業とする者だ。できるだけ体は軽い方がいい。

 ピトンが参戦しようとしていることに気づいたナスカは、あからさまに怪訝な顔をした。が、少年の顔にはありありと疲労の色が浮かんでいる。ピトンはそれを目敏く嗅ぎ取った。

「疲れてるなら俺に代われ、ナスカ。下手したらさっくりられちまうぞ」

 ピトンの言葉をどう思ったか知らないが、ナスカが悪態をつきながら後退し、ピトンの横に並んだ。襲撃者も新参者の動きを警戒しているのか、距離をとってこちらの様子を窺っている。

 ナスカは頬を伝い落ちる血を拭い、ピトンを一瞥した。

「相手はかなり速いぞ。ついてこれんのか、おっさん」

「軍人舐めんな。それに、年の功って言葉もあるだろ?」

 ナスカがピトンの言葉ににやりとした。珍しく友好的な態度をとったナスカに、目で襲撃者をとらえたままピトンも軽く笑ってみせた。

 ナスカの承諾を得たところで、ピトンは腹を決め短剣の柄を握り締め臨戦態勢に入る。

「──兄貴!」

 直後、上空で高い声が上がった。

 地上に大きく不自然な黒い影が落ちる。見上げたピトンが目撃したのは、大型の獣に跨がり紺碧の髪をなびかせた少女だった。

 彼女を乗せて滞空する獣は、アルトネアの象徴ともいえるサバーカ。

 ──そうか、あれがもう一人の襲撃者か。確かに、右の脚から派手に出血した跡が残っている。

 ピトンが現状を理解したときには、少女は既に行動を起こしていた。彼女は三つ編みの襲撃者に向かって手で何かを合図し、連合軍の中でも一際大きく頑丈な枢機卿のテントの上を旋回し始めた。

 それを受け、襲撃者が枢機卿のテントに走り寄り布を掴んで登り始める。

「逃がすかよ!」

 襲撃者たちが撤退するつもりだと察したナスカは、テントをよじ登る三つ編みの男にダガーを投げつけた。が、それは上空の少女から放たれた別のダガーに弾かれ、地面に叩き落とされた。

 ピトンは消えたもう一人が逃亡手段を確保しにいっていたとわかり、思わず毒づいた。が、時すでに遅し、アザトの放つ矢もナスカのダガーも悉く弾き返され、三つ編みの男はすでにテント上部まで登りきろうとしている。

「畜生、覚えてろよ!」

 ナスカが口汚く罵りの言葉を吐いた。男はそれを全く相手にせず、近くまで降りてきたサバーカにテントの縁から飛び移った。

 が、あれだけの身長がある男が急に飛び乗ってくるというのは、人間の乗り物として使役されてきたサバーカにも負担が大きいらしい。

 サバーカは男が乗ったあと大きく揺れ、体勢を立て直そうとばたばたと翼をはためかせた。それにより大きな振動が生じ、上に乗っていた襲撃者たちが慌てて獣にしがみつく。

 アザトはその隙を見逃さなかった。彼女は流れる挙動で弓をつがえ、焦点を襲撃者たちに定めた。獲物をしとめようとする狩人を思わせる、無駄のなく洗練された動作だった。

 アザトが、弦にかけていた指を放す。矢は幸運にも風にのり、失速することなく標的へ向かって飛んでいった。

 命中したか、とピトンが確認しようとしたとき、到底人間とは思えない悲鳴が上がる。

 ──地を揺るがす苦悶の咆哮は、実際人間の声ではなかった。

 矢が命中したのはサバーカだ。矢は獣の前足の付け根に突き刺さり、傷口から吹き出す赤い血が豊かな毛並みを汚した。

 サバーカは痛々しい鳴き声をあげながら空を飛び回り、地上に血を滴り落とす。

 アザトがまた弓を構え、サバーカを狙った。しかしサバーカのほうもそれに気づいたのか、矢が届かない上空までふらふらと舞い上がっていった。

 やがて、襲撃者たちを乗せたサバーカは雪山へ──アルトネアへ向かって移動し始めた。サバーカは悲痛な吠え声を残しながら、ピトンたち連合軍から遠ざかっていく。

 残されたピトンたちは、思わぬ展開で戦いが終息したことに呆然と立ち尽くした。しかし、もう点のように小さくなってしまったサバーカを追うことは不可能だ。

 彼らはできることもなく、ただ空を見上げていた。

「……とりあえず、終わったな」

 ピトンが小さく呟いた言葉に、ナスカがぼんやりした顔で相槌を打つ。と、少年はハッとした顔でヴァルカモニカを振り返った。

「ヴァルカモニカ様!」

 慌てて駆け寄るナスカをヴァルカモニカは一瞥し、すぐにメリダに目を落とした。枢機卿は生死の境を漂うメリダと、小瓶から見たこともないような虫を出し作業をするパラディオを見守りながら、ナスカとトロギル、そしてピトンたちに短く命じた。

「今は彼女の治療が最優先だ。君たちは他の治療師を呼び、治療に集中できる場所を確保してくれ。あと、伍長。君はオリンダ大尉にすぐに報告を」

 そう言ったヴァルカモニカは、ピトンたちの後ろから近づいてくる帝国勢に気づき少し安堵した表情になった。そして、こちらを窺うピトンに柔和に笑いかける。

「向こうから来てくれたようだな。それに、結果はどうであれ君たちの援護には感謝する。ありがとう、ピトン伍長、ゲガルド兵長」

 ピトンとアザトはヴァルカモニカに黙礼し、オリンダの方に向かって駆け出した。ナスカは横を通り過ぎていくピトンに少し恨みがましい目を向けたが、何も言わずに治療師を探しに行った。たぶん、彼もヴァルカモニカから何か言ってほしかったのだろう。

 確かに、枢機卿からの労いの言葉は案外悪いものではなかった。ピトンは微笑を浮かべ、ついで顔を引き締めた。

 戦いはまだ終わったわけではない。むしろ、今回の襲撃から何かが始まるのだろう。

 ピトンは来るべき動乱を予感し、北国から吹きつける風に小さく身を震わせた。


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