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SCHEMER〈スキーマー〉  作者: 霧雨ウルフ
第二部 アルトネア制圧戦
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宿屋にて

 宿屋に連行される間バフラは気味が悪いくらい大人しく、部屋に着いてからもライグたちの質問に素直に答えた。ウラジーミル曰わく悪評高い人物とのことだったが、陽気に答えを返す様子は、ライグからすると剽軽な小者といった感じにしか映らなかった。

 バフラのこれまでの遍歴について一通り聞き終えたライグは、ウラジーミルを伴い部屋を出た。彼は廊下に人の気配がないことを確認すると、声を落として違和感を口にする。

「なんというか、予想とは裏腹に妙に素直だな。君が言うように、例の現皇帝から何度も逃げおおせている人間とは思えない」

「それが狙いなんだよ、ライグ。彼は相手を油断させることに長けている。あの従順さも、恐らくは計算の内だろう」

 ウラジーミルはそう答え、どこか懐かしむように微笑んだ。

「かつて私も、彼に騙され何度恥をかいたことか。あの人はああ見えてとても利発だが、性格は昔から酷くてね。幾度となく笑えない悪戯に悩まされたよ」

 ウラジーミルが追懐の情に浸っていると、部屋の中から短くティリンスの悲鳴らしきものが上がった。ライグたちが慌てて中へ戻ると、口にフォークをくわえたバフラを見てティリンスが腰を抜かしているところだった。

「何事だ」

 ライグが問うと、へらへら笑うバフラと横で爆笑するイグアスを交互に見ながら、ティリンスが上擦った声で説明した。

「バフラが、口からそのフォークを吐き出したんだ。信じられない、さっきまで何もくわえてなかったのに」

「飲み込んで隠していたのか。本当に芸達者な人だ」

 ウラジーミルは呆れた声音で呟き、布巾に包んだ手でフォークを取り上げた。唾液でべたつくフォークを見ながらウラジーミルが顔をしかめ、それを無造作にごみ箱に捨て入れたのを見て、バフラが楽しそうに言う。

「お上品なこった、アルトネアの王子様は」

「貴方にも王族としての品格が少しくらい残っていればな」

 取り付く島もないウラジーミルに、バフラが「つれねぇな」とぼやいた。ライグとウラジーミルはそれを無視して、バフラに厳しい目を向ける。

「さて、バフラ。いよいよ本題に入ろうじゃないか」

 ライグの宣告を受け、ウラジーミルが淡々と続けた。

「ここ最近のグロザーの動きについて、知っていることを全部教えてもらおう。もちろん私たちも独自に調査しているが、如何せん慣れない作業でね。こういったことは、貴方のようなお方にご助力頂くのがよろしいかと思って」

 皮肉混じりに告げたウラジーミルを見返し、バフラが冷えた笑みを浮かべる。ライグはバフラの目に籠もる嘲りに似た感情を見取り、わずかに嫌悪感を覚えた。どうやらこの男は、ウラジーミルが言うとおり一筋縄ではいきそうにない。

「いい顔をするようになったじゃねぇか、甥っ子さん。今のあんたは、まさに復讐の呪縛に飲まれた人間の眼をしてるぜ」

 バフラの言葉に、その場にいた全員が硬直する。中でも当の本人であるウラジーミルは、目に見えて動揺していた。復讐に燃える内心をバフラに覗かれたことが、大層不愉快で遺憾なようだ。

「……今、私のことは関係ない。グロザーのことについて教えろと言っているんだ」

 絞り出すように命じたウラジーミルに、バフラは調子良く頷いた。

「ああ、もちろん。こうして出会っちまった以上は、これまでのわだかまりは忘れて仲良くしようや。なんたって、俺たちはお互い大事なものを奪われてるからな。グロザーを追い詰めるための協力は惜しまねぇよ」

 バフラは指の欠けた右手をかざし、口角を吊り上げた。ライグとティリンスは顔を見合わせてからウラジーミルに目線を向けたが、不幸な王子が二人を振り返ることはなかった。




 気前よく情報を提供したバフラは、しばらくライグたちの旅に同行することになった。理由の一つとしてはグロザーに関する利害の一致だが、ライグたちとしては小賢しいバフラを目が届かない場所にやるのは不安だというのが大きかった。それに、バフラの方も一人旅よりは安全だからと言って、同行することには喜んで賛成した。

「近くにいても遠くにいても、面倒なのは変わらない気もするが」

 ウラジーミルはつまらなさそうに言った。

「彼の情報収集能力は我々には有益なものだ。警戒は怠るべきではないが、彼もこの人数を相手に下手なことはしないだろう」

 ウラジーミルの言葉に、ライグたちはひとまず合意した。

 そんなわけで、今ティリンスはバフラと相部屋になっている。もともとはライグ、ウラジーミル、ティリンスで一部屋、女性のイグアスでもう一部屋という部屋割りだったが、偶然この宿に泊まっていたバフラの部屋で、男性陣が交代で彼の見張りをすることになったのだ。

 が、ティリンスはあることを失念していた。

「…………寝れない……」

 ティリンスは布団を頭までひっ被ったまま、独り言をこぼす。

 ──そうだ、彼は鼾が酷いんだ。

 ファンブリーナでの初対面の時のことを思い返しながら、ティリンスは苦々しく顔を歪めた。あの時もそうだったように、バフラの鼾はある意味殺人的だった──周囲の人間の気分と睡眠を害するということについては。

 ティリンスは寝ようにも寝れず、何度も無意味に寝返りを打った。どこからこんな音を出しているんだと不思議になり、隣のベッドで爆睡するバフラの顔を覗き込んだ。無性に腹が立って鼻をつまんでみたりもした。それでもバフラは、面倒臭そうに唸るだけで目を覚ます気配はなかった。

 呆れたティリンスは再び横になったものの、案の定睡魔が浸透してくる様子はない。彼は小さく呻き声を上げ、気怠い体で床から這い出した。寝れない夜は、いつも憂鬱な思案に耽ってしまう。それよりは、澄んだ空気を吸いながら雪国の夜を散策したほうが得策だと考えたのだ。

 部屋を出ようとしたティリンスは、バフラが本当に寝ているかをもう一度確認し静かに扉を開けた。静まり返った宿の中は時間すらも凍りついてしまったように無表情だったが、窓から見える星々の煌めきがティリンスの孤独を和らげてくれた。

 ──久しぶりに、星を見ようかな。

 ファンブリーナでは、よく星を見て退屈を潰した。幼い頃には、荒原の夜空を彩る星々の下で母からたくさんの物語を語ってもらった。ここ最近は忙しく故郷を思い出すことも少なかったが、今になって遠い日々の記憶が蘇り郷愁の情を沸き上がらせる。

 ティリンスは上へ続く階段を探してしばらく廊下を歩き、隅にひっそりと存在する暗い階段を見つけた。彼は吸い寄せられるように屋上へ続く階段に近づき、そろそろと古い板を踏みしめる。段を上るごとに木が不気味に軋んだが、踏み抜いてしまうほど老朽化しているわけではなさそうだ。ティリンスは慎重に先へ進み、錆びた鉄の扉の前までくるとほっと息をついた。

 ティリンスは屋上と内部を隔てる扉に鍵がかかっていないことを確かめ、扉をそっと押した。ギギギ、と不快な金属音が上がったが、ニグミ族でない限り下の階で寝ている人間は気づかないだろう。

 そこまできて、ティリンスはあることに気づいた。

「…………確かに、君の言うとおりかもしれない。私がやろうとしていることは、酷く無意味で──独善的なことなのかもしれない」

 僅かに開いた扉の隙間から、冷風と共に聞き覚えのある青年の声が入り込む。それは、紛れもなくアルトネア王子──ウラジーミルのものだ。

 中途半端に開けた扉を締めることも開け放つこともできず、ティリンスはその場で息を潜め耳をそばだてた。

 やがて、対話相手とおぼしき人物が返答した。

「意味があるとかないとか、独善的だとか、そういう小難しいこと言ってんじゃねぇよ。あたしは、お前が復讐から得るものはないと思ってる。復讐の先にあるのは、消えない孤独と虚しさだけだ」

 答えたのはイグアスの声だ。ティリンスは隙間から目を凝らしたが、こちらに背を向けて並ぶ二人の姿を確認する。

 彼らのやりとりを息を殺して聞いているうち、ティリンスは、ウラジーミルがイグアスを信頼しているということ、ウラジーミルはグロザーへの復讐に少なからず躊躇いを感じているということを知った。

「しかし、それでも……私はあの男が憎いよ。私の父を、母を、兄弟を惨殺した彼が、少しの後悔も見せなかった彼が、憎くて憎くてたまらないんだ。あの夜のことを思い返すたびに、抑えきれないほどの怒りと憎悪が込み上げて、とても正気じゃいられなくなる。グロザーを八つ裂きにするまで、このどす黒い感情は消えそうもない……」

 そう語る声は静粛だったが、溢れ出す激情を物語るように微かに震えている。

 長い沈黙が流れた。姿が見えないので二人がどんな様子かはわからなかったが、漂う空気の重さは感じられる。ティリンスも沈鬱な空気に感化され、息を詰めて次の動きを待った。

「……お前のその気持ちが間違ってるとは思わない。憎しみも怒りも、お前の一部だ。無理に消し去れとは言わねぇよ。だが、たとえ復讐を無事に終えたとしても、お前が納得できる答えが出るとは限らねぇんだ」

 イグアスは一呼吸おいて続けた。

「お前の中の復讐心は、荒れ狂う獣に似てる。暴れて、食らいついて、奪い尽くして、最終的にはお前自身にも牙を剥く。怒りってのは、一時だけの狂気じゃない。激情に駆られるのは一瞬でも、心の内に潜む狂気は激情に触れるたび成長する。狂気はやがてお前の心そのものを飲み込んで、誰にも手がつけられない猛獣に変わるぞ」

 ティリンスがごくりと唾を呑むのと同時に、ウラジーミルが僅かに怯えた声で尋ねる。

「それは、復讐を終えたとしても、私の中の憎悪は消えないということか?」

「そうかもしんねぇし、そうじゃないかもしんねぇ。虚無感にとりつかれて、生きる目的を見失っちまうこともあるかもな」

 イグアスは無情に言い放つと、ふいに声を上げて笑い始めた。何事かとティリンスは困惑したが、イグアスは明るい調子で続けた。

「まあ、そう思い詰めんなよ。結局何もかもなるようにしかならねぇし、お前の復讐がどう転ぶかはお前次第だ。とりあえず、困ったときはあたしに相談しろよな。なんだかんだ、お前のことは気に入ってんだよ」

 ライグやティリンスには無愛想な対応が目立つイグアスの頼もしい台詞に少し驚いたが、雪山で遭難していたウラジーミルを助けたくらいなのだから、彼女は案外面倒見が良いのだろう。ただ、その面倒見の良さは、彼女が気を許した相手にしか出てこないようだ。

 しばらくの沈黙ののち、穏やかな王子の声が聞こえた。

「…………ありがとう、イグアス。これまでのことといい、貴女には感謝してもしきれないよ」

「気にすんな、あたしはあたし自身のために行動してるだけだ。お前のためとか、アルトネアのためとか、そんな大層な理由で動いてるわけじゃねぇよ。それはそうと、もう寝ろ。明日出発するんだから、しっかり体を休めとけ」

 ウラジーミルが優しく応えた。

「ああ。貴女もね」

 別れの挨拶ののち、一つの足音が遠ざかっていく。ついで、扉を開ける金属質な音が響いた。ウラジーミルは別の扉から屋上にやってきたようだ。もう一つの扉の裏に身を潜めていたティリンスは、彼が別の通路を使って部屋へ戻っていったことに安堵した。

「────ティリンス」

 ほっとしたのも束の間、イグアスのハスキーな声がティリンスの耳に刺さった。

「そこにいるのはわかってるぞ。出て来い」

 ティリンスの心臓が情けないくらい跳ね上がる。

 彼は動揺と後ろめたさからおろおろと辺りを見回したが、慌てて逃げ出しては後が怖い。なんといっても相手はあのイグアスだ、機嫌を損ねたら確実に痛めつけられるだろう。

 要するに、大人しく扉を開けて屋上に出るより他はない。

 ティリンスが諦めて扉をくぐると、月明かりにぼんやりと人影が浮かび上がった。ツンツンとした髪が特徴の人影は、もちろん例のハスキーな声の持ち主のものだ。

「盗み聞きは感心しねぇな」

「そんなつもりじゃなかったんだ。でも、どうしたらいいのかわからなくて」

 素直に心境を吐露したティリンスを見て、イグアスが小さく笑う。彼女はティリンスを手で呼びつけ、彼が隣に来てから静かに話し出した。

「感覚が鋭すぎるってのも面倒なもんだぜ。見たくないものまで見えちまうし、聞きたくないものまで聞こえちまう。今回もそうだったんだろ?」

 いたずらっぽくにやりとしたイグアスに、ティリンスはわざとらしくとぼけた顔をした。

「そうだね。星を見ようと思って来たら、偶然よく知った声が聞こえちゃったんだ」

「違いねぇ」

 ティリンスは叱責されるのを覚悟していたが、予想に反しイグアスは特に咎めることはしなかった。彼女は普段の無愛想な様子とは少し違い、どこか物思いに耽るように黙って雪景色を眺めているだけだ。

「――ウラジーミルが抱えてるものも、お前が抱えてるものも、結局のところ似たようなものだと思うぜ。制御不能の獣、ってとこだ」

 思いがけない発言にティリンスは呆気にとられ、イグアスをまじまじと見つめた。

「あたしは生まれたときからあの無情な雪山で生きてきた。そのおかげかどうかは知らねぇが、相手の目を見れば、そいつが抱えてる苦しみとか恐れとかをなんとなく感じ取れるときがあるんだよ」

 イグアスはそう言ってティリンスの目を覗き込んだ。彼女の目があまりにも濁りなく真っ直ぐに自分を射抜くので、ティリンスは心の奥底にしまった汚い感情まで見透かされてしまいそうな感覚に襲われる。

「君も、僕のように悩んでいた時期があったの? 手がつけられない激情というか……凶暴な闘争本能、みたいなものに。僕は、もしかしたらこの衝動がニグミ族を戦いに駆り立てるのかと考えたりもしたんだけど」

 ティリンスはとっさに目をそらし、どぎまぎしながら尋ねた。イグアスに自覚があるのかどうかはわからないが、彼女の獣を思わせる目と端麗で鋭い美貌は、ティリンスのように純情な若者には刺激が強すぎるのだ。

 当の本人はティリンスの態度をさして気にすることもなく、目を閉じて低く唸った。

「あたしは特にそういうのはねぇな。だが、他のニグミ族はどうか知らん」

「そっか……」

 イグアスの返答に、ティリンスは唇を噛み締めた。

「正直なところ、僕は僕自身が恐ろしいよ。僕は、この獣を抑えるだけの強さがほしい。もっと、強くて優しい人になりたい……。だけど、今のままじゃ、なにかとんでもない罪を犯してしまいそうで……」

 彼女は深刻に思い悩むティリンスに、呆れたような苦笑を向けた。

「お前の中にある獣が悪いものかどうかはあたしたちが決めることじゃねぇよ。全ての命あるものは、天命によって生まれ自然の掟に従って生きていくしかねぇんだ。だから、お前の中の獣だってきっと必然の内に存在してんだよ」

 ティリンスは彼女の超然とした返答に感じ入ると同時に、ウラジーミルがなぜイグアスに心を開いて話をしていたのかを理解した。

 恐らくイグアスは、野心や利己心というものを持っていない。動物たちがそうであるように、あるがままを受け入れ、命の掟に従って彼女らしく生きているだけなのだ。

 だから、真っ直ぐで、強くて、頼もしい。

 イグアスはティリンスの髪をくしゃりと撫で、笑みを浮かべる。それは、孤高な戦いに生きる狼を彷彿とさせる、力強い笑みだった。

「それでも強くなりたいと願うなら、間違いを恐れるな。自分自身を信じろ。どれだけ負けても、恥をかいてもいい。お前が自分自身を投げ出さねぇ限り、何度だって立ち上がれる。まだ強くなれる」

 ──強くなりたい。あるがままを受け入れ、自分自身を信じ、どんな困難が立ちはだかろうと、力強く前に進んでいく人間になりたい。

 イグアスの言葉を受け、ティリンスの中に一つの勇気が芽生えた。

 ティリンスが納得したのを見取ったのか、イグアスは彼の頭を少し強くはたいてから手を離す。二人は顔を見合わせて笑い、どちらからともなく歩き始め、出口へと向かった。

 成り行きで道連れになった集団だが、案外悪いものでもない。

 ティリンスは運命の巡り合わせに小さく感謝を捧げ、これからの旅を──アネリへと続く道のりを思い、過酷な戦いへ赴く覚悟を固めた。


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