闘技場②
鼓膜を震わせる罵詈雑言と、冷やかしを含んだ喚声。
熱気に満ちた健闘の舞台。
肌を焦がす緊張、そして高揚──。
ライグは数メートル先の大男を見据え、唇を殆ど動かさずに問う。
「名前は?」
大男は片眉を吊り上げ、どこか面白そうに返答した。
「律儀だな。が、生憎名乗る名はねぇよ。どうせあんたとはこれっきりだろうからな」
ライグは無言で男を見返したが、相手はにやにやと腹が立つ笑みを浮かべたままだ。ライグは名前を聞き出すのを諦め、辺りの様子を窺った。
審判役の人影もなく、試合場の中にはライグと大男だけしか立っていない。どうやら、ここから先は自分たちで好きなようにやれということらしい。
ライグは負傷していない左腕を軽く回し、大男に目線を送る。大男はそれを準備完了の合図だと捉えたようで、短く息を吐き出すと右拳を掲げ駆け出した。
ライグは大男の動きにすぐに反応しひとまず後退したが、相手は身長の分歩幅が広くほんの数歩で間合いを詰められてしまった。
──こういう上背のある敵は厄介だな。
ライグは大男の拳をすんでのところでかわし、小さく舌打ちした。ライグ自身が180センチ以上もあるので、自分より大柄な相手と手合わせしたことが少ないため、間合いの取り方や切り込み方がいまいち掴めないのだ。
しかしながら、ライグの予想通り大男の動きは単純で鈍かった。
軍人として武術訓練を受け格技を培ったライグと、街中の揉め事で殴り合いを学んだ大男とでは、明らかに戦闘技術の格が違う。実際ライグは相手の攻撃の殆どを見切れたし、隙を突いてカウンターを食らわせることも不可能ではない。
だが、今のライグは利き腕である右腕を使えない。それが、この戦いにおける一番の悪条件だ。
もちろん左腕でも攻撃は仕掛けられるが、やはり利き手による攻撃より打撃力は落ちてしまうだろう。もし下手をして半端な一発を食らわせたら、倍返しにされることは間違いない。それに、相手はあの体格だ。生半可な一撃では倒れてはくれないだろう。
「おいおい、どうしたんだぁ! さっきの威勢の良さはどこにいっちまったんだ、片腕の勇者さんよぉ!」
ライグが防戦しつつ腹の中で戦略をこねていると、観客席から嘲笑とともに野次が飛んだ。ライグは後退しながら軽く顔をしかめ、「うるさい連中だ」とぼやく。
どうやら野次は大男にも聞こえていたらしく、彼は岩のようにごつごつした顔を嫌らしく歪ませ笑みを浮かべた。
「逃げてばっかじゃ、俺も観客もつまんねぇだろ。玉砕覚悟でぶつかってこいよ、この腑抜け野郎ッ!」
大男は干からびた咆哮を上げ、ふいに左足を大きく引いた。
ライグは直感的に危険を察知したものの、飛び退くのが僅かに遅れた。そのまま地面と水平に突き出された大男の踵が、ライグの腹部を襲う。ライグは後方に勢いよく突き飛ばされ、試合場を囲う塀に背中から激突した。
巨体にも関わらず鮮やかな横蹴りだ。
ライグは痛感が胴体を覆っていくのを感じながら、無意識に顔をしかめた。かわそうとしたので腹にはそんなにダメージを食らっていないが、やはり相当な馬鹿力だ。拳にしろ蹴りにしろ、まともに食らえば骨など簡単に折れてしまいそうだ。
ライグが蹴り飛ばされたのを見て、観衆たちのどよめきが大きくなる。「いいぞいいぞ!」だの、「なにしてんだ馬鹿野郎!」だの、それぞれが思い思いの罵声と喚声を撒き散らしている。
大男がいい気になって観衆に手を振っている隙に、群衆の中を顔を隠しながらティリンスとウラジーミルが移動していく姿を見つけた。どうやら予定通りバフラに接近しているらしい。
ライグはそのバフラに目を向けた。件の男も他の群衆と同じように喚き散らしているだろうと予測していたが、意外にも彼は薄笑いを浮かべこちらを見ているだけだった。
ライグはバフラと目が合い慌てて目を逸らそうとしたが、ふと小男の手元へと目が引きつけられた。
それもそのはず、バフラ自身が手にした紙切れらしきものを、まるで見せつけるようにひらひらと振ったからだ。
ライグははじめは意味がわからずぼんやりしていたが、どうやらバフラはこの試合で賭博をしているらしいと気づいた。きっとどちらが勝つかを賭けているのだろう。よくよく見れば、バフラのものと似たような紙切れを持った人間が他にもちらほら見受けられる。
つまり、バフラはこの試合に注目しているということだ。
自分が負けるにしろ、勝つにしろ、バフラはこの戦いを最後まで見届けるだろう。
ライグはバフラの意識が試合場に釘付けになっていることを確信し、闘志が漲るのを感じた。
ライグは首に手を当て、軽く頭を振る。彼はもたれかかっていたフェンスから離れ、大男の方へゆっくりと近づいた。
「さて、お遊びはやめにしようか」
ライグは左の拳を握り込んだ。
「やはり見かけ倒しで、大したことなかったな。あんたの見せ場は作ってやったし、ここからは本気でいかせてもらおう」
ライグの言葉に、一部の観衆がどっと沸いた。それにつられ、大男の顔に怪訝と憤りの色が広がっていく。
しかし今のライグにとっては、周囲の反応などどうでもいいものだった。
彼は獲物を狙う肉食獣がそうするように、真っ直ぐに標的だけを見据え、静かに、長く息を吐き出す。弧を描きながら獲物の周囲を回り、相手の隙を窺う。
さきほどまで防戦に徹していたライグの変わりように、前列にいた何人かの観客が息を呑んだ。感情を消し、相手を倒すという目的だけを目にたたえ、見えぬ圧力を放ち相手へ接近するライグは──まさに軍人そのものだったからだ。
大男もライグの変貌に気づいたらしく、微かに表情を堅くする。しかし、怖じ気ついているととられるのが嫌だったのか、急に雄叫びを上げライグに殴りかかった。
──その後、勝敗はほぼ一瞬のうちに決まった。
先に仕掛けたほうが勝ちと言わんばかりに衝動的に放たれた大男の一撃を、ライグは顔を小さく逸らすだけでかわした。
続いて、勢いを殺せずライグに激突しそうになった大男の胸倉を左手で掴み、引き寄せながら膝を男の腹部に叩き込み、一回、二回、三回、膝蹴りを食らわせる。
そして、目を見開き息を詰めた大男に止めの一撃を見舞う。
ライグは左拳を大男の顎に下から叩き込み、鮮やかに上方に打ち上げた。
骨を打つ乾いた打撃音の余韻と、観衆が身じろぎし息を呑む音が漂う。その中で、ゆっくりと突き上げた拳を下ろすライグと、顎を反らした状態で硬直した大男の姿が、異様な存在感を放ち観衆を圧倒する。
──しばらくの後に、天を仰いだままの大男の体が派手な音を立て後方に倒れた。
それを見ていた観衆から、徐々に驚愕の声と嘆息が零れ始める。ざわめきは増長しながら広がり、やがて、会場全体を揺るがす叫喚へと化した。
「どういうことだ!」
「何あっさり負けてんだよ!」
罵声と歓声が飛び交い、観客席はあっという間に大騒ぎになった。大男の取り巻きと思われる連中が、慌てふためきながら倒れた大男に群がり様子を確認している。もちろんライグは殺さないように加減していたが、それでもあれだけ盛大に脳を揺さぶられたら、軽く脳震盪を起こしていてもおかしくはない。すぐに立ち上がり戦いを再開できる状態ではないだろう。
ライグはブーイングと歓声を受けながら辺りを見回し、バフラのところで目を止めた。バフラはライグに賭けていたらしく、目を輝かせ指笛を吹いてみせた。
ライグは、バフラのは背後の人混みにフードを被った二人組の姿を確認した。
(ティリンス、ウラジーミル……上手くやれよ)
ライグがそう念じた矢先――。
「やるなぁライグ! 見直したぜ!」
聞き慣れたハスキーな声が、バフラの後方から上がった。
イグアスの声だ。
女の声が珍しいのか、または先程の片腕の勝者のライグという名に反応したのか、バフラの周辺の男たちが後方を振り返る。そしてもちろん、バフラその人も周りにつられ顔を後ろに向けた。
「イグアス!」
イグアスはバフラとウラジーミルのさらに後方から試合を観戦していたようだ。
ライグは彼女のタイミングの悪さに目眩を覚えつつ、ウラジーミルたちに顔を隠すように指示しようとしたが、既に手遅れだった。バフラの後方に立っていたウラジーミルとティリンスは、振り返ったバフラと正面から向き合う形で硬直している。
どうやらイグアスがいる位置からはウラジーミルたちの姿は見えていないらしく、少しおちょくる調子でライグに賞賛の言葉を飛ばした。
「いやぁ、お見事! ただの堅物糞真面目人間かと思ってたら、意外と面白い奴じゃねぇか! あんたが試合に出てるってもっと早く気づいてりゃ、賭けてやってたのに──」
「話は後だ、前を見ろ! その金髪の男を捕まえるんだ!」
ライグは声を張り上げ、訝しげにウラジーミルたちを睨みつけながら後退しているバフラを指差した。バフラはライグに指差されたことに気づき、ついにウラジーミルたちの正体を確信したようだ。
バフラがはじかれたように走り出した。彼は小柄な体躯を駆使して人の間を鼠の如く駆け抜け、後方のウラジーミルたちに叫ぶ。
「やっぱりてめぇか、ウラジーミル! どうにも見たことある顔だと思ってたら、まさかこんなとこにいたなんてな!」
ウラジーミルが顔を歪ませ、厚手の外套を払い捨て人を押しのけながら走り出した。ティリンスもそれに習い、観客席を駆け上がり逃亡するバフラの背中を追う。
ライグも仕切りを乗り越え観客席に乱入し、バフラを追って走り出した。あまりに鬼気迫るライグを前に観衆はたじろぎ道を開けようとしたが、大勢が密集しているせいでそれぞれ上手く動けず、観客席は軽く恐慌状態に陥った。
畜生、なぜよりによって、イグアスはあんなところにいたのか。
これも俺の運の悪さゆえだろうか。
ライグはとりあえず誰かを罵りたいのをこらえ、乱暴に人混みを掻き分け前進した。が、驚きと疑惑で混乱した人々は、そうそう思い通りに動いてくれない。ライグは押し返されたり押し出されたりしつつ、実に無駄な労力と時間をかけて、ようやっと観客席を抜けた。
ライグが荒い息をしながら状況を確かめていると、蒼い長髪の男が闘技場の向こうの奥の通路に走っていくのが見えた。案の定ティリンスは群衆から抜けるのに苦労しているらしく、辺りにはいない。
ライグは深く息をつくと、混乱の中でいつのまにかボタンが数個取れてしまった上着を見下ろし溜め息をついた。そして、意を決してウラジーミルの後を追って走り出した。




