闘技場③
ライグはウラジーミルを追って走っていたが、いつのまにか蒼い髪を見失ってしまった。彼は苦々しげに唸り、立ち止まって辺りを見回す。そんなライグを、闘技場の職員と思しき男が怯えたように避けていった。
ライグはとりあえず耳をそばだて、周囲を注意深く観察した。が、闘技場の奥に広がる狭い通路は複雑に絡み合い、ウラジーミルたちがどの道を行ったのかまるでわからない。それに、ここら辺りはどうやら一般客が来るような場所ではないらしく、人気もまるで引いていたため道を尋ねることもできない。
さっきの職員らしき男を捕まえておくべきだった……。バフラとウラジーミルがどこに向かったかまではわからなくとも、いい歳こいて迷子になるのは避けられただろう。ライグは肩を落とし、とぼとぼと通路を行ったり来たりした。
やがて、ライグが苛立ちながらどの道を行こうか決めあぐねていると、彼の左手の道の奥から陶器が割れるような音が微かに聞こえた。ライグは直感的にその道に駆け入り、小さな音と勘を頼りに走っていく。
やがて、薄暗かった通路の先に橙色の灯が見えた。細く伸びる光は前方の扉の隙間からこぼれたもので、部屋に近づくにつれ言い争う調子の声が明瞭になっていく。
どうやらこの道で正解だったようだ。ライグは近づいてくる半開きの扉の向こうに、お目当ての人物がいることを予感した。
部屋の前についたライグは、躊躇わず扉を押した。派手な音を立てて扉を開け放ったライグを、部屋の中にいた二人の男が──ウラジーミルとバフラがぎょっとした顔で見た。
「気をつけろ、ライグ!」
ウラジーミルの警告と同時に、何かが空を切る音が耳を刺す。ライグはとっさにその場から飛び退いて、顔の真横を通り過ぎ通路の壁にぶつかり弾けた物体を振り返った。物体は音を伴って床に落下し、無残な姿をライグに晒した。
「使い方を間違っているようだな。皿は人に向かって投げる物じゃない」
ライグは通路に飛び散った白い欠片が元々は皿であったと気づき、部屋の奥に立ち並ぶ食器棚を背にしたバフラに目を向けた。次に、部屋の床に散乱した陶器の欠片やフォークなどの金属類に目を落とし、険しい顔になる。
「日用品を凶器にしてくれるとはな。厄介な男だ」
ここは食器の保管室のようで、部屋中に食器が溢れていた。つまり、バフラは武器には事欠かないということだ。
バフラがにやにやと薄気味の悪い笑みを浮かべた。
「追われる身ってのはなかなか大変でね。臨機応変に対応できなきゃやってられねぇのよ、なあ、ウラジーミル?」
剣の柄に手をかけたウラジーミルが、ライグの隣に並びながら答えた。
「貴方と一緒にしないでください。私は貴方のように、あの男から逃げ回るだけの人間ではない」
『あの男』という単語に、バフラが眉をひそめた。どうやらウラジーミルとバフラの間では意味が通じているらしく、二人は剣呑な表情で睨み合っている。
バフラがおもむろに口を開いた。
「そいつの話は不愉快だ。どうせならもっと楽しい話題がいいんだがな」
「貴方と私が楽しく談笑などできるわけがないでしょう。諦めて大人しく捕まってください。そして、知っていることを全て吐いてください」
ウラジーミルは淡白に言い切ると、普段とは打って変わって冷たい眼差しでバフラを見据えた。ライグは彼の変わりようにいささか不安を抱いたが、ウラジーミルに倣って臨戦態勢に入った。
──ウラジーミルといい、バフラといい、アルトネア王家の人間は一筋縄には行きそうにない。何かしら腹に隠しているようだ。
ライグは二人の王族を見比べ、面倒なことになりそうだと直感した。
バフラが手にしたフォークをウラジーミルに向けた。
「てめぇに捕まるようじゃあいつからは逃げ切れてねぇよ。諦めるのはそっちだろ、かわいい甥っ子さん」
バフラが放った挑発の言葉に、ウラジーミルが行動を起こした。彼は細身の剣を抜き放ち、バフラに向かって素早く近づく。
「不愉快な喋り方は相変わらずですね、叔父上。安心しました」
ウラジーミルは皮肉っぽく笑いながら剣を振りかぶった。ライグは一瞬バフラを斬るつもりなのかと思ったが、剣は小男が投げた皿を空中で粉砕しただけだった。やはりウラジーミルにはバフラを殺す気はなく、あくまで彼を生け捕りにするつもりらしい。
ライグはそれを確信すると、ウラジーミルとは別の方向からバフラに接近した。こうしていれば、いずれは挟み撃ちの形になり捕らえやすくなる。バフラがどちらかに気をとられているうちに、もう片方が背後に回り押さえ込めばいい。
しかし、ライグが動き出したのを見て、バフラが急に方向転換し後方の食器棚の群れに入り込んだ。棚は長く縦列に配置されており、列は結構奥まで続いているようだ。おまけに隙間が狭くバフラが床に物を撒き散らしながら奥へ逃げたので、追いかけるのはなかなか難儀しそうな状態になっている。
小柄な体躯を生かし薄暗い棚の密集地の奥へと進んだバフラの姿が、ライグたちの視界から消えた。かくれんぼでもするつもりかとライグは毒づき、ウラジーミルと顔を見合わせた。
「私が追う」
ウラジーミルはライグの体格と負傷した右腕を見て、即座にそう決断した。彼は冷めた顔つきのまま、床に散乱した陶器の破片を足で払い、棚の間を器用に進んでいった。
が、ウラジーミルが棚と棚の間に消えたとき、ライグの脳裏にある可能性がよぎる。
ライグはとっさに声を張った。
「待て! 周りをよく見ろ!」
ライグの忠告を受け、ウラジーミルが驚いたように足を止めた。
──直後、彼の前にある棚が揺れ始めた。揺れに合わせガタガタと棚の中の食器が震え、棚がウラジーミルの方に傾き始める。
最初は何事かと不審な表情をしたウラジーミルも、次の瞬間にはバフラの思惑を察した。
数個の棚を隔てた向こうから、ライグの声が響く。
「早くッ! 潰されるぞッ!」
そう。
バフラがウラジーミルの前にある棚を倒そうとしているのだ。
よって、ウラジーミルの前にある棚は、もうじき彼を押し潰すような形で倒れてくるだろう。
「これが倒れかかってきたら、さすがにまずいな」
自分の目の前にある棚を見上げ、ウラジーミルは引きつった顔で呟いた。彼がそう言った時には、棚は大きく傾き中に保管されていた食器類が床に滑り落ち始めていた。
ウラジーミルは腹を決め、今にも自分に倒れかかりそうな棚に背を向けた。そして、バフラが押して倒れそうな棚ではなく、ライグに近い方の棚──まだぐらついていない棚を、全体重をかけ体で押す。
すると、ウラジーミルが押した棚は案外簡単に揺れ始めた。どうやらここの食器棚は全て床に固定されておらず、力をかけて押せばすぐに倒れてしまうらしい。
ウラジーミルは押した棚が傾いていく様子と、後方から倒れかかってくる棚の状態を確認したのち、自分が押した棚の底の部分──さっきまで棚が立っていたために埃がたまっている場所に伏せ、体を縮めた。
しかし、そんなウラジーミルの行動はライグからは見えていない。彼はウラジーミルがまだ棚の列から出てきていないことに戦慄し、声を張る。
「ウラジーミルッ!」
食器が砕ける耳障りな音の嵐の中、ライグは為す術もなく棚が倒れていく様子を見守った。
──と、
「うわッ!」
棚が倒れた振動と共に、ウラジーミルの小さな叫び声が上がった。
その後も、棚は前にある棚を押し、どんどん連鎖的に転倒していった。まるで巨大なドミノだ。ライグは早くウラジーミルの無事を確認したかったが、棚が全て倒れ終わるまではそちらに近づけず、唇を噛み締めて待機した。
やがて、最前列にあった棚が傾き食器を落とし始めた。それは盛大な音と陶器の欠片を散らし、床に叩きつけられ部屋を揺らした。
舞い上がる粉塵の中、ライグは目を凝らしウラジーミルの姿を探した。
──もしかして、棚に潰されてしまったのだろうか。
あれだけ大きな物が倒れかかれば大怪我を負う可能性も充分に……いや、打ち所が悪ければ即死する可能性も──。
最悪の事態を想定し、ライグはひやりとした。
が、
「ったた……」
ようやく振動も埃も静まり始めたとき、倒れた棚の間から小さく声が上がる。ライグは瓦礫と貸した食器棚の残骸を乗り越え、急いで声がした方向へ向かった。
近づくと、棚の下からごそごそと何かが動く気配がした。ライグは倒れた棚と床の間にわずかな隙間が生じていることに気づき、もしやと思いそこを覗き込む。
ライグは切羽詰まった声音で尋ねかけた。
「ウラジーミル、無事か?」
すると、暗く影になった隙間の奥から、少し間を置いて返事が返ってきた。
「ああ、なんとか」
わずかな隙間から、ウラジーミルがずるずると這い出してきた。彼は不安そうなライグに軽く笑いかけ自分の無事を教え、隙間から脱出しほっと息をついた。
「無事か。良かった……心配したぞ」
大した怪我もなく案外けろりとした様子の彼にライグは安堵した。王子は疲れた顔でふにゃりと笑う。
「ぎりぎりだったが、棚と棚の間の隙間に身を隠せて助かった。生まれて初めて大柄でないことに感謝したよ」
ウラジーミルは木屑やガラスの欠片を払いながら立ち上がり、深々と溜め息をついた。
「どうやら、棚と戯れているうちに逃げられてしまったようだ。たぶん、奥にあった窓から逃げたんだろう」
そこまで言われ、ライグはバフラの姿が一向に見当たらないことに気づく。彼は仲間の無事を確認するのに気を取られ、バフラへの注意をすっかり怠っていた。
「……すまない。俺が不注意だった。バフラまで気が回らなかった」
沈んだ表情で謝罪したライグに、ウラジーミルが穏やかに笑いかけた。その顔は、ライグが一番見知った普段のウラジーミルのものだ。
「貴方が謝る必要はないし、まあ、仕方ないさ。ずる賢いあの人が相手では、どんな人間も一度は翻弄されてしまう。彼を捕らえるのは、またの機会に──」
「やっやめろ! 離せ、このくそ女ッ!」
ウラジーミルの言葉を遮り、野外から悲鳴じみた男の声が響く。ライグとウラジーミルは顔を見合わせ、慌てて外の景色が見える窓辺へと移動した。
窓から見えた光景に、二人は目を瞬く。
「おい、ティリンス。こいつで間違いないんだな?」
闘技場の裏手の少し離れた路上で、イグアスとティリンスが並んである人物を見下ろしていた。見下ろされている男は、イグアスに背中を踏まれ足をばたつかせている。しかし、イグアスは全く気にしていない様子でつまらなさそうに男を眺め回した。
ティリンスがどこか困ったような顔で頷く。
「うん、間違いないよ。それにしても、さっきの大きな音はなんだったんだろう……」
ティリンスはそう言って周囲を見回し、闘技場の窓からこちらを見るライグたちに目を留めた。彼は顔を輝かせると、悪態をつく男を手で示す。
「外で見張ってたら偶然見つけんだ。この人、捕まえて良かったんだよね?」
「ああ、もちろんだ。良くやった、二人とも」
ライグは脱力しながら返答し、隣で呆けた顔をしているウラジーミルの肩を軽く叩いた。ウラジーミルもライグにつられてふやけた笑みを浮かべ、感心したように言った。
「あの二人、なかなかやるな。驚いたよ」
「ああ。俺たちと違って運がいいみたいだな」
ライグは苦笑いして、イグアスの足元で暴れる人物に声をかけた。
「今回はお前の負けだ、バフラとやら。さあ、腹を括って全部話してもらおうか。もちろん、楽しい話にはならないだろうが」
バフラは悔しげに唸ったが、イグアスには敵わないと悟ったのか、地面に顔を伏せ大人しくなった。




