第1章〈海上にて〉
「上陸まであとどのくらいかかりそうだ?」
船酔いを紛らわすため甲板に出ていたライグは、舳先で海を眺めていた男に尋ねた。
紫色の褪せたローブを着た男、セーファス・エルチェはさっと振り返り、ライグの姿を認めて緊張させていた表情を緩めた。話しかけてきたのが直属の上司であるライグだと分かり、安心したらしい。
「あと丸一日くらいでしょうか。さすがに早いですね」
「それは凄いな。さすが最新式戦艦だ」
ライグの言葉に含まれる微かな皮肉をエルチェは感じ取ったようで、疲れたように苦笑した。そんな風に笑うとますます老け込み、老人のように見える。確か三十代後半だったはずだが。
エルチェは温和に説明した。
「何も速さの理由はそれだけではありませんよ。この船にはちょっとした時魔導がかかっています。早送りの時魔導を使うことで、平時の船よりも少し機能が活性化されていて、その分早く進めるわけです。わかりますか?」
ライグはうぅむ、と曖昧に応えた。自分もフレーザー一族ではあるが、時魔導は管轄外だ。それに、時魔導は帝国内では必要でない限り使ってはならない決まりになっている。時間の歪みや変調をきたす恐れがあるからという理由だったが、そうでなくとも時魔導にはなんとなくいい印象を抱かない。
ライグは目の前の男をしげしげと眺めた。何かを諦めたかのような表情や濃い隈から歳の割に老けてみえるが、柔和で人好きのする顔だ。もとはそれなりに二枚目だったのかもしれない。だが、ライグが知っているのは今の疲れた軍属魔導師であるエルチェだけだ。彼が何故軍に入ったのかは知らないが、少なくとも聞いて楽しい理由ではなさそうだ。
ライグはエルチェと初めて会った時のことを思い返していた。
当時ライグやピトンやアルガンは、新米兵士として毎日戦場を走り回っていた。仲間の死や理不尽な虐殺を連日目の当たりにし、精神的に追い詰められていた時期だった。
そんな中、ある任務で仲間の魔導師が死ぬという事態が発生した。
魔導師無しでは不可能と思われる任務だったので、案の定部隊は森中に追いつめられ完璧に包囲される展開となった。皇国軍の足音が迫ってきて、若き日のライグは死を覚悟し根拠もなくあることを思った。
薄暗い森や洞窟の中では死にたくない。
せめて空の見える場所で死にたい、と。
しかし、神の情けか気まぐれか、ライグは死ななかった。
援護にやって来た部隊にすんでのところで命を救われたのだ。そして、その部隊の中にいた時魔導師がエルチェだった。
救出されたライグは手当てを受けながら、エルチェが時魔導を使い敵の侵攻を食い止めるのを見た。彼は木々に隠れながら器用に円陣を描き、全員をその中に移動させ、皇国兵を呼び寄せて罠に嵌めると告げた。
やがて、ライグたちの居場所を突き止めた皇国軍が接近してきたが、急に前線にいた敵兵が次々と脚を押さえ倒れ出した。何事かと目を凝らすと、皇国軍はエルチェが作った境界線を跨いだところで悶えている。多くの悲鳴に混じり骨が砕ける嫌な音が聞こえた気がした。
ライグの仲間の誰かが、エルチェは老化魔術が得意なんだと零していた。ならば、彼は恐らく敵兵の脚を老体化させたのだろう。無様に泣き喚く彼らの脚は一様に棒の様に細くなり、骨が乾いた皮膚を突き破っているのが確認できた。
ライグは心底恐れたものだ。時を操る魔導とは、こういうものなのかと。いともたやすく人の姿をねじ曲げてしまうものなのかと。
皇国は時魔導を神への冒涜だと言うが、それには少しだけ共感できる――万物を本来在るべき姿から遠ざけてしまう、といった点については。
過去を振り返りながら何とはなしに海を眺めていると、ライグは国境へ向かったオリンダたちを思い出した。ライグは共に過酷な戦場を生き抜いてきた仲間たちを考え、彼らにせめてもの幸運があらんことを、と心の中で呟く。
しかしそんなライグの祈りをせせら笑うが如く、一際強い潮風がライグとエルチェを突き刺した。この海域はよく荒れるのでこんな風は不思議ではないが、ファンブリーナに近づくにつれ風が冷たく乱暴になっていくのはなんだかいい気がしない。
ライグは重たい灰色の海に背を向けた。
「部屋に戻ろう、エルチェ。こんな海を見ていると、こっちまで暗い気持ちになる」
エルチェは例の疲れた笑みを浮かべた。
「私もそう思っていたところです、軍曹」
割り当てられた自室の扉を開けるなりライグは凍りついた。それまでと変わらずピトンと同室だったので、部屋では彼がいつものように難しい顔をして机の上のチェス盤と睨めっこしているか、武器の手入れをしているものだと思っていた。
実際そうだった。ピトンは今までよりも小綺麗な部屋で、小綺麗な椅子に腰かけ、難しい顔をしている。
しかし、その光景は明らかに今までと違う点があった。それは、向かいに澄ました顔のガルアが座っていたからだ。
扉の前で呆然と妙な光景を眺めていると、盤上を見たままガルアが手招きをした。そこでようやくピトンがライグの存在に気づいたようだ。はっと顔を上げライグを決まり悪そうに見る。
ライグは溜め息をつき、ゆっくりと二人に近づいた。
平静を装おうとしたが、声は思いがけず脅しのように低くなってしまった。
「何をしているんですか」
「チェスだ」
ガルアは即答した。未だにライグには一瞥もくれていない。ライグは盤上をちらりと見て、ピトンがこっぴどく負かされているのに気づいた。ライグはガルアの態度に歯軋りしたいのをこらえ尚も尋ねた。
「私が聞きたいのはそういうことではありません。司令官、わかっておられますか? 我々は明日には上陸し、ファンブリーナに向かって進軍します。道中は敵の領域も同然です。そんな場所に向かうのですから、作戦の見直しをしたり、武器の調整をしたり、それ相応の備えをするというのが常套ではありませんか?」
ライグの言葉にガルアは小馬鹿にしたような顔をした。
「それはもうしたじゃないか。さっき二時間かけてこれからのことを説明しただろ? 他に何をしろって言うのかな」
ライグは我慢出来なくなった。こんなのが上官だと思うと堪らない。立場を忘れ怒鳴りつけようとしたが、相手が十も離れた子供だと思い出しなんとか踏みとどまる。
両手を指の関節が白くなるほど握り締めるライグをピトンが不安げに見守り、早口に言った。
「ライグ、話を聞いてくれ。チェスをしようと誘ったのは俺だ。すまん」
ガルアは即座に否定した。
「何言ってるんだ、僕からだろ。暇だから何かしようってさ」
ピトンがぎくりとしたのがライグにはわかった。ライグが生真面目で頑固な人間だと知るピトンは、彼が上官であるガルアに食ってかかるのを危惧しあのようなことを言ったのだろう。
ガルアはどうあってもライグを怒らせたいようだ。参謀副長の顔には、明らかにからかいの表情が浮かんでいる。
ライグはオリンダが懐かしくなった。武人を絵に描いたように義理堅く真面目な大尉は、それこそライグの憧れだったのだ。
それに比べ、この人は。
ライグは深く息を吸い込むと、静かに言った。
「司令官、下士官ごときが過ぎた発言だとは思いますが、一つだけ聞いてください。貴方は今現在、この部隊の最高責任者です。それが意味するのは、貴方はこの部隊の人間の全ての命を握っているということ。貴方の命令一つで任務の結果、我々の生死が決まるのです」
ライグは、金色の瞳で参謀の青年をじっと見つめる。「決して休養をとるなとは言いません。しかし、司令官としての意識を持ち、部下たちに示しがつかない態度をとるのはお止めください。――お願いします」
そう言い切り、目の前に座るガルアに頭を下げた。
ガルアの横では、ピトンが心配そうな表情を浮かべ上官の様子を窺っている。ピトンが憂慮するのも当たり前だ、下士官であるライグが帝国軍の中枢を握る参謀本部の人間をたしなめたのだから。処罰を受けてもおかしくない。
それでも、ライグに引き下がる気はなかった。相手が目上であろうが、自分の信念は貫きたい。司令官ならば、一般兵のように軽はずみな行動をとるべきではないとライグは考える。というのも、上官の行動や人柄というのは部隊の士気に密接に関わるからだ。
ガルアよりは十歳以上こちらが年上だ。より長く現場で生きてきた者として、少しは言いたいこともある。
ライグにたしなめられたガルアは黙っていた。顎に手を当て、いかにも考え事の最中と言った顔でチェス盤を眺めている。
ガルアの目からは心情の機微は読み取れず、ライグはえもいわれぬ殺伐とした緊張感から胃が痛くなってきた。
やがて、ガルアが微かに笑いながらライグの目を見据えた。
「ご忠告どうもありがとう。今の発言は、一軍人として大変参考になったよ。君は仮にも僕の補佐官だからね、その言葉はしっかり肝に銘じておこう」
ガルアが本気で言っているかどうかはわからないが、予想以上に素直な返事にライグとピトンは少し拍子抜けした。
ライグはとりあえず頭を下げ、恐縮ですと答えようと口を開く。
と、
「失礼します」
という高く通る声とノックの音に、ライグの言葉は遮られた。