鉱業の街ハルグ
帝国とアルトネアの間に座す、氷と雪をまとう険峻なハルゲニー山脈。その麓に築かれたハルグは、帝国の最北端に位置する小さな街だ。
街並みは平坦で煌びやかさに欠けるものの、活気のある人々が多く暮らしている。鉱業が盛んで、中でも時界石の産出量は帝国一だ。ハルグは帝国には欠かせない要所の一つとも言える。
「しかし、なぁ……」
街の外れにある小高い丘の上で、眼下に広がる街並みを見下ろしライグは溜め息をついた。
今のライグは、軍服ではなく雪国の衣服と毛皮の外套に身を包んでいたが、例の軍人らしい鋭い眼光は健在で、相変わらずとっつきにくい雰囲気を漂わせていた。
ライグが溜め息をついた理由は、ハルグ周辺の悪天候だ。今のところ穏やかに降っているものの、ハルグの雪はひとたび荒れ始めれば目も開けていられないような暴力的な吹雪と化す。おまけに本格的な冬が近づいてくるにつれ天候はますます悪化し、無事に山脈を越えるのは更に難しくなった。
ライグは前方にそびえ立つ峰峰を仰ぎ険相を浮かべた。ガルアとヴァルカモニカが同盟を結び、帝国を去ってから早5ヶ月。ファンブリーナ占拠、その後の枢機卿の撤退を受け、アルトネアは大いに混乱し逃げるように撤退した。
ヴァルカモニカとガルアを筆頭とする連合軍は、その後もアルトネアに帝国との戦いに参加するよう呼びかけたようだが、要請を拒否され続け――強硬な手段に出た。連合軍は現在、共闘を躊躇うならアルトネアにも攻撃するという姿勢を示し、両国の間に横たわるコルチャーク山脈付近に兵を展開させている。対するアルトネアも、連合軍を警戒し国境際に兵を集めている状態だ。
それを受け連合軍を警戒した帝国がクロム砂漠近辺から北の国境の防衛体制をますます堅くしたため、アルトネア、連合軍もとい皇国軍、帝国軍が互いを牽制しあい、今はどこもかしこも緊張状態が続いている。
だが、帝国は西の国境や南の海域での戦いに手一杯というのが現状だ。最近は不満を抱えた国民たちが内部で反乱を起こす事も増え、とてもアルトネアへの対処にまでは手が回らないだろう。皇国がアルトネアを屈服させ従わせたとあれば、帝国はかなりの不利を強いられてしまうが、それを止める手だては弱体化していく帝国には今のところないように思われた。
ライグは考える事に疲れて、目線を下げ小さな鉱業の街を観察した。今世界情勢は大きく揺れ動いているというのに、この街は呑気なものだ。そこで足止めを食らっているライグも似たようなものかもしれないが、それにしてもハルグの人々はうんざりするくらい落ち着いており、彼らからは微塵も緊張感や不安が感じられない。ハルグが辺境の街であるからだろうか。
そんなことを考えていると、背後からよく知った声が飛んできた。
「ライグ、そろそろ夕餉だよ」
ライグはわかったと答えながら振り向き、雪に覆われた丘を登ってきた色黒の青年──ティリンスを見た。
「今日は早いんだな。何かあったのか?」
ティリンスはライグが隣まで来るのを待ってから歩き出し、小さく頷いた。
「ムルトさんがいつもより早く仕事が終わったからね。それに合わせて早めに夕食にするみたい」
ライグはふと自分が空腹であることに気づき、机の上に並べられた料理を想像して無意識に早足になった。そんなライグに気づいたのか、ティリンスが呆れたように笑う。
「そんなに急がなくても、ナンシーは僕らの分を食べたりしないよ。相変わらずせっかちだなぁ」
ライグはティリンスの指摘に少しきまり悪くなり、わざと冷めた声で答えた。
「士官学校時代は時間に間に合わないと夕食抜きだったんだ。未だにその時の感覚が抜けないらしい」
机の上に並ぶ様々な手料理はライグの想像を遥かに越えていた。ライグは豪勢な食卓を前に辟易し、隣に立つ人物におもむろに問いかける。
「今日は随分と気合いが入っているな。どうしたんだ?」
「なんとなくね」
料理を作った張本人であるナンシーが微笑んだ。
ナンシーは、ティリンスとライグが居候している宿屋『グラート』の女主人だ。グラートはナンシーの親しみやすさや酒場風の賑やかな食堂、木造の居心地のいい雰囲気などからハルグでも評判のいい宿屋で、現在ライグたちは主にナンシーの仕事を手伝いながらここで生活している。
「遅かったな。何をしていた?」
今ライグに質問した気難しい顔の老人がムルト。彼はナンシーの父親であり、齢七十にして山脈に赴く時界石採掘の熟練者である。
理由は知らないが、老人はいつにもまして険しい表情をしているようだった。ライグはまだ人気のない食堂の椅子に腰かけ、向かいに座るムルトに答えた。
「街の周りを偵察していました。特に不審な人物は見かけませんでしたよ」
「……そうか」
老人はどこか落胆したように呟くと、勢い良く酒を煽った。この歳にしては素晴らしい飲みっぷりだが、娘のナンシーはそれを快く思っていないらしく非難がましい目でムルトをねめつける。
「それくらいにしてよ、父さん。いい歳なんだから」
ムルトは娘の言葉に鼻を鳴らした。
「儂は仕事の後の酒を生きがいにしてるんだ。老い先短い年寄りから楽しみを奪わんでくれ。……と、ライグ」
ムルトは机の上に身を乗り出し、ライグの目を真っ直ぐに見た。
「不審な人物はともかく、不自然に大きな足跡を見なかったか?」
「足跡?」
聞き返したライグに、ムルトは唸るように答えた。
「ああ。噂によると、男は大型の獣……俗にいうサバーカのようなものをつれていたらしい。だから足跡も目立つだろうと思ってな」
ライグは今日の道程を思い返し、そのようなものは見ていないと答えた。ムルトは心底残念そうに呟いた。
「くそっ、早く捕まえて安心したいってのに……」
ムルトが憂慮する人物──それは青い髪の男だ。今から一週間ほど前に山脈付近でハルグの住民に目撃されたらしく、ムルトはその男をどうしても捉えたいらしい。理由は恐ろしく単純で、青い髪を持つのは生粋のアルトネア人だからだ。
実のところ、ムルト以外の住人で謎のアルトネア人を気にする人間は多いわけではない。ハルゲニー山脈付近は昔から密入国が多く、ハルグにも数人の不法滞在のアルトネア人がいると聞く。だからそんなに躍起になって一人のアルトネア人を捜索する必要はないと思うのだが、ムルトだけはそうもいかないようだ。
ムルトが青い髪の人間に執着する理由は、恐らく聞いて楽しいものではないだろうな。ライグは目の前の苛つく老人を眺めそんなことを思った。ハルゲニー山脈辺りでは、資源を巡ってたびたびアルトネア人と諍いが起きていたのだそうだ。老人のアルトネア人に対する憎しみもそこから来ているのだろう。
ナンシーが呆れたように苦笑し、ライグとティリンスに目を向けた。
「ごめんなさいね、二人とも。この話になると周りが見えなくなっちゃうみたいで」
ライグは気にしないでくれと答え、ナンシーに苦笑いを返す。ナンシーたちとの付き合いはまだ1ヶ月ほどだが、同じ屋根の下で生活するうち彼らの人となりは大体掴めてきた。ムルトは典型的な頑固な老人で、ナンシーは世渡り上手な商売人気質。おまけに彼女は容姿と人当たりもよいので、ハルグではちょっとした人気者だ。
ライグとティリンスはナンシーの料理を有り難く頂き、不機嫌な老人と陽気な女性に挨拶を済ませいつも通り外に出た。ライグたちの正体と本当の目的を知らないナンシーたちには名目上は青い髪の男を探すと言って外出しているが、彼らの本当の目的は別にある。
ライグは暮れ始めた紫色の空を見上げ、ティリンスを横目で眺めた。
「やはり既に帝国にはいないだろう。早く山脈を越え、アルトネアに入るべきだ」
ティリンスは顔を伏せ、弱々しく答えた。
「わかってる。でも、あの山を越えられるのかな。こうやって時々山道の確認をしてるけど、上手く行く気がしないよ」
「弱気になるな、ティリンス。挑戦すらしないで諦めるところが君の悪い癖だぞ。皇女を取り戻したいのなら、多少の無茶は必要になってくるはずだ」
ティリンスはしばらく黙り込んだが、やがて顔を上げライグを見た。彼は水色の瞳に焦燥と不安を浮かべながらも、自分を落ち着けるかのように穏やかに微笑む。
「ライグの言う通りだ。僕の悪いところは、相も変わらず悲観的なところだね」
「自覚があるのなら大丈夫だ。安心しろ、君は君が思うよりも強い男だから」
ティリンスはライグの何気ない言葉に驚いた表情になり、ついで嬉しそうに頷いた。ライグはそれを見て微かに笑うと、無慈悲に行く手を阻むハルゲニー山脈に向かって歩を進めた。




