第6章〈軍人として〉
「ご苦労さん。次の指示があるまでの間にバレンシアに術を解いてもらって、後は休んでいてくれ」
ライグの任務報告に対しあまりに素っ気ない反応を返したガルアに面食らい、ライグは呻くような声で応えた。
「そうしたいのは山々ですが、本当にこれで良かったんですか?」
「何の話?」
「虫飼いを殺さなくて良かったのかと言っているんですよ!」
ライグは思わず目の前の机に掌を叩きつけた。室内に予想以上に大きな音が散ったのでライグは一瞬たじろいたが、机を挟んで真向かいに座るガルアは微動だにしない。それどころか冷めた薄笑いさえ浮かべている。
罵りたいのを堪えながら、ライグは平静を装って今度は小さな声で言った。
「実際奴は一週間ほど動けないようですが、それでもあの能力は脅威です。潜入中、仕留める機会があるうちに殺すべきかとも思いました。しかし私が任務に行く前、貴方は殺さないようにとしつこいくらいに念を押しましたね。何故です? あの男の能力は、我々に害こそあれど利益にはならないはず」
「全く。頭が硬いんだから」
ガルアの明らかに小馬鹿にした態度に再び苛立ちが沸き起こったが、ライグは己を抑え黙ったままガルアの言葉を待つ。ガルアはそんなライグを試すかのように眺め回した後、深い溜め息と共に俯いた。
「説明する時間はあまりない。夜が明けて間もない頃……つまり君がここを発ってからすぐ、テイデからアルトネアの偵察員がファンブリーナに向かったとの報告を受けた。そして今から三十分ほど前、エルチェから時空間隔離の解除が完了し術の発動に成功したとの報告が入った。アルトネアの移動手段……サバーカの飛行速度から考えると、ぎりぎりの時間だ。後は、ピトンが朗報を持ってきてくれるのを願うばかりだよ」
ライグはそれを聞き、眉をひそめた。確か時魔導師たちは“時界”と呼ばれる時空の層から魔力を引き出し、その層の中に意識を送り込む《時界通》という時魔導で連絡を取り合うため、離れた場所からでも速やかに情報交換ができる。それを踏まえた上で考えると、アルトネアの偵察員がファンブリーナに辿り着くのは、今日の夕刻から夜の間──要するに、今まさにこの時間帯、というわけだ。
「そういうことは早く言って下さい。敵前にこんな姿で突っ立つのは遠慮したいので、今すぐにバレンシアに術を解除してもらいます。では」
ライグは挨拶もそこそこに急ぎ足で会議室を出ると、バレンシアが控えているであろう小部屋に向かった。申し訳程度に身嗜みを整え扉をノックすると、中からは返事の代わりにバレンシア本人が出てきた。ライグはきょとんとした顔で自分を見るバレンシアに、口早に要件を伝える。
「この術を解いてくれ。できるだけ早く」
「あら、その準備ができたから呼びに行こうとしていたところよ」
バレンシアは小さく笑い、ふいにライグの短い金髪をくしゃりと撫でた。ライグが声も出せずに硬直しているのを知ってか知らずか、バレンシアは優しげな眼差しで囁く。
「お帰りなさい。帰りが遅いもんだから、ちょっと心配したのよ?」
ライグは相変わらずがちがちに強張ったまま、ほんの少しだけ頷いてみせた。バレンシアはそんな態度を面白がっているのか、大きな目で上目遣いにライグを見つめ少し甘えるような声を出した。
「でも解除するのは勿体ないわね。いつもの怖い顔立ちが、子供になると意外に可愛らしいんですもの」
「早く!」
ライグは悲鳴のような声を上げ、バレンシアの手を振り払うように部屋に押し入った。心臓が嫌に早く脈打つのは時間がないという焦りのせいにして、彼は怒ったような困ったような表情でバレンシアを振り返る。そして部屋の中央で煌々と輝く魔法陣に目をやり、ぶっきらぼうに言った。
「時間がないのは君もわかっているだろう。早く解除してくれ、でないと本当にこの姿を皇国軍に晒すはめになるかもしれない」
「わかってるわよ。もう、せっかちね」
バレンシアは大して気を悪くした様子もなくライグを魔法陣の中に導くと、目を閉じるように命じた。ライグは従うしかないとわかりつつも、少しだけいじけた気分になり口答えを試みた。
「なあ、目を開けていては駄目なのか? あの気が遠くなるような感覚は、あまり味わいたいものではないんだが」
バレンシアは肩を竦めた。
「開けていて悪いことはないけど、私はおすすめしないわ。自分の記憶や成長過程の映像がぐちゃぐちゃに混ざり合うのが見えると、一生夢に見るくらい気分を悪くする人がいるから」
「……その光景は、君には見えているのか?」
バレンシアの潜在的恐怖を煽る発言に背筋が凍りつくのを感じながら、ライグは慌てて目を閉じ尋ねた。だが返ってきたバレンシアの返答に、ライグはますます不愉快になった。
「いいえ。術を発動させると、陣が真っ白に輝いて中の様子は一切見えなくなるの。だから、貴方がどんな風に姿を変えているのか私にはわからない。もしかしたら、蛹のように一度体をどろどろに溶かしてから、目当ての姿に再構築しているのかもしれないわね」
バレンシアがそう言っている間に、ライグの意識はどんどん遠のいていった。やがて閉じた瞼の裏に、十三歳から今現在の年齢になるまでに起きた様々な出来事や情景が荒波のようにとぎれることなく押し寄せ、ライグの理性と感覚を麻痺させていく。そして体がじわりと熱くなったかと思うと、徐々に波が引いていき痺れていた指先に感覚が戻ってきた。
ライグは急に老け込んだように疲れが吹き出し、その場にがくりと膝をついた。実際三倍ほど年をとったのだから、そう感じるのも無理はないかもしれない。
ライグは大きくなった自分の手を眺め、疲れた顔でバレンシアを見上げた。バレンシアは気の抜けた状態のライグを明らかに面白そうに観察していたので、ライグは少し気を悪くしたが、続くバレンシアの言葉にハッとした。
「さあ、もとの姿に戻ったなら軍服を着替えてちょうだい。今の貴方の格好、本当に酷いんですから」
そう言われたライグは立ち上がり、自分の風体を見直した。確かにバレンシアが言うとおり酷い状態で、蜘蛛の群れに突っ込んだ時のままの格好だったので、染み付いた蜘蛛の体液のせいでライグの周りには異臭が漂っている。ライグはうんざりした様子で顔を上げると、バレンシアが手渡してきたおろしたてのような軍服を広げ訝しむ。
「有り難いが、何でこんな新品同然の軍服があるんだ? 船からは、必要最低限の荷物しか持って来ていないはずだろう」
バレンシアはおどけた笑みを浮かべ、小首を傾げた。
「さあ、なんでかしらね。なんとなく必要になるような気がしたのよ」
ライグはしらばっくれるバレンシアをじっと見つめたが、特に問い詰める理由も思い当たらないのでそれ以上は聞かないことにした。そして、いつまでたっても部屋から出て行こうとしないバレンシアに焦れたように言う。
「君がいては着替えられないんだが。それとも、俺がこの部屋を出て行くべきか?」
「私のことなんか気にしないで、さっさと着替えればいいのに」
ライグはバレンシアの本気か冗談かわからない大胆な発言に目を点にしたが、ライグが文句を垂れる前にバレンシアは朗らかな笑い声を上げ扉の前まで歩いて行った。
「貴方って本当に真面目なんだから」
──それはつまらない男だという意味だろうか。しかし微かに動揺するライグを見つめながら、バレンシアは嫌に蠱惑的な微笑を浮かべた。その艶やかな笑みにライグはぎくりとし、思わず目を逸らしそうになったほどだ。
バレンシアが、聞き逃してしまいそうなほど小さな声で告げる。
「でも、そんなところが好きなんだと思うわ」
ライグは目を瞬き、今のは聞き間違いだろうかと考える。だが、自分を見つめるバレンシアの目にはからかいの色が一切浮かんでいないのに気づいた。
──二人の間に、永遠にも感じられるような沈黙が流れる。
やがてバレンシアが困ったような照れているような表情で目を逸らし、扉を押し上けた。
「さあ、急いで着替えて。時間は待ってくれないわ」
「……ああ」
ライグはなんとかそう答えると、バレンシアが出て行った扉を穴が開くほど見つめ、おもむろに着替えを開始した。その間ずっと、バレンシアの一途な眼差しが頭から離れなかった。
ライグは快活で秀麗なバレンシアを思い描きながら、彼女は自分に好意を抱いているのかもしれないとの考えに至り、慌ててかぶりを振る。
もしそうだとすれば、嬉しいのは事実だ。実際自分も、彼女には好意を抱いている。
だが、今はそんな浮ついたことを考えている場合ではない。ライグは今までもそうやって恋愛感情や個人的事情は後回しにしてきたし、これからも軍人としての自分を優先させることに変わりはないだろう。それを考えると、バレンシアが自分に思いを寄せることがはたして良いことなのだろうか、と不安になる。もし彼女が自分と一緒になったとして、帝国の軍人である自分を伴侶に持つ彼女が、女として、妻として、母としての幸せを得うるのだろうか、と──。
「……考えすぎだ」
ライグはぽつりと呟くと自嘲気味に笑った。そもそも彼女が自分に好意を寄せているのかさえ定かではないし、女心は秋の空、と言われるほど変化しやすいものらしい。ならばこんなことで女々しく悩むよりも、迫りくる最後の戦いのことでも考えていたほうが為になる、というものだ。
ライグがそう思った直後だった。
「ピトン伍長及び第七部隊、帰還であります!」
外の通路から見張り番の緊迫した声が響いた。ライグはベルトを締めながら勢い良く通路に飛び出し、旧友の姿を探す。
「ライグ! 参謀副長は?」
するとライグの目が薄暗さに慣れるより先に、聞き慣れた声が通路の先から飛んできた。
「会議室だ。それで、どうだった?」
気が急くライグは、数人の部下と一緒にこちらへ向かってくるピトンのもとに走り寄った。皇国軍の目を誤魔化すため全員すれた船乗りの衣服に身を包んでおり、この集団がファンブリーナ奪還任務の成否を左右させる情報を握っているという緊張感には今一つ欠ける。だが思いの外様になっている船乗り装束で真剣な顔をしたピトンの姿を確認すると、ライグの心構えは一気に引き締まった。
ピトンはライグに疲れたような笑みを見せたが、その目は嬉々と輝いていた。
「喜べよ、ライグ。アルトネア兵の驚きようときたら、こっちが気の毒になるほどだった。俺たちの……いや、ガルア司令官の読み通りだ。後は奴が尻尾巻いて帰って、上官にこのことをご丁寧に報告してくれるのを待つだけだ」
ピトンは一息にそう言うと、喜びに満ちた表情でライグの背を力一杯叩いた。




