第5章〈決断〉
一体どれほどの時間が経ったのかわからないが、空は既に黄昏の色に染まりかけていた。あれだけ派手に暴れたのに相変わらず静かな議事堂を不審に思いながらも、ティリンスはとぼとぼと無人の建物内をうろついた。
ひょっとしたら執務室には魔術防壁がはってあり、そのおかげでティリンスの雄叫びやナスカの悲鳴が外に漏れずにすんだのかもしれない。もしそうなら、ヴァルカモニカや執務室内の安全と情報を守るために施された物だろうというのに、皮肉な話だ。
枢機卿は案外早く見つかった。何気なく窓の外に目をやったとき、中庭に見覚えのある人影が立っていたのだ。どうやら彼は護衛の一人もつけないで、呑気に花を眺めているらしい。ティリンスは無防備な枢機卿の姿に驚き戸惑いつつ、枢機卿がいる中庭へと急ぎ足で向かう。
もしかしたらまた先程のように罠かもしれないが、今のティリンスにはそれを考慮するだけの余裕はなかった。彼は疲れていたし、少し投げやりになっていた。
ティリンスは階段を下り、錠のかかっていない戸を慎重に開け中庭へと足を踏み入れる。行く手に広がる中庭は、充分に手入れされなかなか明媚な景観だ。色彩に富んだ花々が程良く調和し、植え込みの位置や形も見栄えよく整備されているため、見る者に息苦しさや不快感を全く与えない。
はたして昔はこのように心和む場所だったか。もしかして皇国の人間が少し手を加えたのかもしれない、などと思い巡らせ、ティリンスはそろりと枢機卿の背後へと近づいていく。
ティリンスが真後ろに立つまで、枢機卿は一度も振り返らなかった。よほど熱心に花を観賞していたのかとティリンスは呆れたが、思いがけず目の前の大きな背中が動いたので慌てて手にしたものを枢機卿の背に押し当てた。
「動くな。動いたら刺すぞ」
できるだけ威圧的に言ったつもりだったが、枢機卿がじっとしていたのはほんのわずかな間だけだった。
「何の遊びかな」
枢機卿はそう言うと手を後ろに回し、ティリンスが突きつけていたもの──ただの棒切れを掴み、ゆっくりと振り返った。
枢機卿の淡い緑眼が血に濡れたティリンスの姿を捉えたとき、その目に浮かんだのは微かな驚きだけだった。だが彼が感情を表に出したのは一瞬だけで、すぐにいつもの優しげな微笑を作り、穏やかな口調で話し始める。
「声を聞いただけで、君は人を後ろから刺し殺すような人間ではないとわかったよ。それで、私に何か用かな?」
ティリンスは嫌になるくらい落ち着き払った枢機卿を前に脱力を禁じ得ず、堅くしていた体からふっと力を抜くと、脅し用の棒切れを地面にぽとりと落とした。そして、何故か苛立ちながら早口に問いかける。
「待ってください、その前に聞きたいことが。普通なら、血まみれの服を着た侵入者を前にそんな反応はできないでしょう。何故僕の今の状態について言及しないんですか?」
この場合ティリンスの服についている血はほとんどナスカの返り血なので、心配されたところで大丈夫ですと答えるより他ない。が、そうであっても普通はもっと驚いたり慌てたりするものだろう。全く、このヴァルカモニカという男、本当にどこまでも読めない。
ヴァルカモニカは涼しい顔で答えた。
「貧民街や戦争跡地では、君より幼い子が血に濡れたナイフを手に走り回っているのは珍しい光景ではない。そんな場所への視察を繰り返すうち、人の外観は気にならなくなったのだよ」
ティリンスはいたって冷静なヴァルカモニカを見ながら、急に怒鳴り散らしたい衝動に駆られた。それはヴァルカモニカが憎いからというより、この男がそんな子どもじみた八つ当たりを許してくれるのではないかという甘えにも似た感情のように思われた。
ぼんやりそんなことを思ったティリンスは、慌ててその考えを頭から締め出す。演説の時もそうだったように、この男は相対する人間を何食わぬ顔で飲んで上手く懐柔してしまうような雰囲気を纏っているのだ。
「ファンブリーナを……どうするつもりなんですか?」
ティリンスはヴァルカモニカの器に飲まれまいと、目を逸らして不機嫌な顔で問いかけた。もちろん簡単に本心を引き出せるとは思っていなかったが、少しでも情報が欲しかったのだ。
が、意外なことに、ヴァルカモニカは困ったような笑みを見せた。
「君たち住民が不穏な動きを見せなければ、我々は何もしない。私はファンブリーナを滅ぼしたいわけではないし、ファンブリーナを占拠したいわけでもない」
「嘘でしょう。帝国の物流の要であるファンブリーナを、皇国の人間である貴方が欲しくないはずがない」
ティリンスは語尾を荒げてヴァルカモニカを睨みつけた。しかし、ヴァルカモニカは動揺しないばかりかうっすらと微笑みさえ浮かべている。ティリンスは馬鹿にされたような気がして頭に血が上り、声を張った。
「何をするつもりなんですか? ファンブリーナを使って、何を企てているんですか? 言っておきますが、今回の襲撃にどんな理由があろうと、この街を……僕が育ったこの街を傷つけるというのなら、僕は貴方を許さない。いや、既にファンブリーナは貴方がた皇国の手によって傷つけられているんです。だから、これ以上この街を蹂躙しないでください!」
そうだ、傷つけないでくれ。故郷を追われ、忌み嫌われるニグミ族である僕らを受け入れてくれた、この街を。そして、この街の人々を──。
僕はファンブリーナを守るために、貴方の前まで来たのだから。
ティリンスの痛切な叫びに、ヴァルカモニカはただ沈黙していた。何を青臭いことを、と言われても仕方がないような台詞を吐いたティリンスを、黙って見つめ続ける。やがてヴァルカモニカが右手を上げた。そして、自分の首から下げていたメトラ神の象徴である“真眼”を模したペンダントを額にあてると、目を閉じて囁いた。
「真眼は、人が偽りを口にすることを許さない。だからこの真眼に誓い、私も君には一つだけ真実を告げよう。いいか、今回のファンブリーナ制圧は──」
ヴァルカモニカは真っ直ぐにティリンスを見据えた。
「皇国の意志ではないのだよ」
──ティリンスは絶句した。
そして、息を詰まらせるようにして言葉を絞り出す。
「ま、待ってください。それは、どういう意味なんですか? “皇国の意志”? そうじゃないと言うなら、貴方は何故──」
「この話はここまでだ」
ヴァルカモニカが有無を言わせぬ口調で遮った。困惑した顔でなおも食い下がろうとするティリンスを目で制し、枢機卿は慈しむような眼差しを花々に向ける。
「私は一つだけだと言った。それに、言葉で多くを語るのは美しいことではない。見てごらん、花は何かを言葉にして訴えるかね?」
「いいえ」
疲れた調子で応えたティリンスに枢機卿はにこりとした。
「そうはしないだろう。だが、彼らは己の“存在”のみで実に多くを我々に伝えてくれる。それは美であり、死であり、命でもあるのだよ」
ティリンスはますます訳がわからなくなり、狼狽えた表情をヴァルカモニカに向けた。だが、ヴァルカモニカは面白そうに微笑みかけてくるだけで、何も言おうとはしない。上手く話題をそらされたことに気づかないティリンスはすっかり困り果て、無難な質問を投げかけた。
「何が言いたいんですか?」
「要するに、花を愛でていたと言いたいんだ」
ティリンスが怪訝な顔をしたのを見て、ヴァルカモニカが何でもないように肩を竦める。
「まあ実際は、執務室を追い出されたと言った方が正しいかな。ナスカが……ああ、私の部下の一人だが、彼が『敵が議事堂に入り込んだかもしれない』と言ってきてね。暴動の鎮圧のせいで議事堂内の警備が手薄になっていたから、『他の場所に隠れていてほしい』と私をここから追い出してしまったというわけだ」
ナスカの名前が出た時に思わずティリンスはぎくりとしたが、ヴァルカモニカは気づいていないようだった。
なるほど、議事堂が嫌に閑散としていたのにはそういう理由があったのか。その上地下には帝国軍がいるのだから、地下道内の偵察にも人数を割いているはずだ。恐らく今の皇国軍はそれらで手一杯なのだろう。それに、見晴らしのいい議事堂に白昼堂々潜入してくる輩など極めて少ないので、ナスカを含め警備の兵士たちは油断していたとも考えられる。
しかし、議事堂外の安全な場所にいるはずのヴァルカモニカが、何故こんなことろで優雅に花など観賞しているのだ。
「でも、貴方はここにいるじゃないですか。ナスカ……さんの忠告を無視したんですか?」
ティリンスの非難の籠もった言葉に、ヴァルカモニカはわざとらしく驚いた顔をした。
「無視とは失礼な。確かに多少の危険は冒したかもしれないが、現に私は傷ついていないのだし、これも大切な部下を心配しての行動だよ」
その部下は僕のせいで血達磨になっているなどと言えるわけもなく、ティリンスは顔を伏せそうですか、とだけ答えた。ヴァルカモニカの最初の反応からたぶんあの雄叫びや騒動を聞きつけてはいないと思うが、やはり不安ではあった。
そんなティリンスをどう思ったのかは知らないが、ヴァルカモニカはすうと目を細めた。
「それにそのおかげで、こうして君と話すことができたんだからな。多少の危険も、時には有益なのだよ」
それが侵入者に対して言うことなのか、とティリンスは面食らう。そしてヴァルカモニカ特有の人を酔わせる物言いに焦り、やや乱暴に言い返す。
「そんなことを囁いてファンブリーナの人々を取り込んでいるんですね。アネリのことだって……」
「アネリ?」
微かではあるが、ヴァルカモニカの声音に驚きが表れた。ティリンスはそれを見逃さず、たたみかけるように問いただす。
「やはり知らなかったんですか、アネリのこと。実は彼女、昨日までファンブリーナにいたんです」
「何故だ?」
「貴方を追って。貴方に会いたいと言って」
今度はヴァルカモニカが絶句する番だった。言葉に詰まるヴァルカモニカなど初めてだ。ティリンスはその様子を見て、ヴァルカモニカはアネリ誘拐に一切関与していないことを悟った。
「……絶対についてくるなと言っておいたのに……」
どこか悲しげな声で呟くと、ヴァルカモニカは珍しく険しい表情でティリンスを見返した。
「それで、昨日までいたと言うのは? 今彼女がどこにいるのか、知っているのか?」
「それが……わからないんです。フードで顔を隠した二人組の男女に連れ去られて……」
ヴァルカモニカはそれを聞き、大きく嘆息した。ヴァルカモニカが落胆したのと同じく、ティリンスも気落ちしていた。全くの楽天的観測であるが、今現在ファンブリーナを制御するヴァルカモニカなら、もしかしたらアネリに関することを何か知っているかもしれないと思ったのだ。だが、案の定何も知らないらしい。これではもう、アネリを探しようがないではないか──。
「……その二人組、他に特徴はなかったか?」
そう問われて、ティリンスはあることを思い起こした。
「近くにあった鏡を使って逃亡しました。何らかの魔術だとは思いますけど……」
「──鏡か」
ヴァルカモニカが苦々しげに呟いた。その声には、微かな憎悪と希望が表れているように思えた。ティリンスはそんなヴァルカモニカを更に問い詰めようとしたが、その前にヴァルカモニカが口を開いた。
「頼みがある、ニグミ族の青年。私に代わりアネリを探し出してくれ」
ティリンスは思わぬ台詞に目を丸くした。
「どうやって?」
「心当たりがある」
そう言うと、ヴァルカモニカはティリンスに信じられないことを耳打ちした。あまりに突飛な話にティリンスはついていけず、狼狽してヴァルカモニカをねめつける。が、ヴァルカモニカは至極真剣な顔でティリンスを見返すだけで、それ以上のことは告げなかった。
言葉で多くを語るのは美しくない、とでも言いたいのか。
だが、アネリを探しに行きたいのはティリンスにとっては本心だった。ファンブリーナを守りたいとは思っているし、目の前の枢機卿を腹の底から信頼はしていないが、アネリのことを思い出すと動悸が痛いほどなのだ。それほどにティリンスは、あの可憐な少女に心を奪われてしまっている──。
ティリンスはそっと目を閉じ、声が震えないように注意しながら答えた。
「……わかりました」
ヴァルカモニカは、ティリンスの返事に満足げに頷いた。そんなヴァルカモニカに強い眼差しを向けると、ティリンスは厳しい顔つきで付け足した。
「僕と貴方は敵同士です。だから僕は貴方を信用していないし、たとえどんな事情があったとしても、ファンブリーナを傷つけたことは許せない。
でもアネリは違います。彼女は貴方が僕たちにした仕打ちを本当の意味では知らないし、ファンブリーナに来たのはただ貴方を案じてのこと。そんな純真で無垢な彼女だから、僕は助けに行くんです。決して彼女が皇女だからじゃない──」
ティリンスは、ヴァルカモニカに挑みかかるように一歩前に踏み出した。
「ファンブリーナも、彼女も、貴方には……いいや、誰にも利用させない。絶対に、守ってみせますから」
「……君は愚直だな。それに強慾だ。大した力もないのに、己の願いだけは叶えようとする」
ヴァルカモニカは呆れたようにそう言うと、柔和に微笑んだ。
「だが、今はそれでいい。せいぜい自分にとって一番大切なものが何なのか、見失わないように気をつけたまえ。そして、願わくばメトラの祝福があらんことを」
異国の神の恩恵を授かったところであまり需要はないと思うが、ティリンスは思わず苦笑を浮かべた。もちろんヴァルカモニカに好意など微塵も抱いていないが、もし出逢い方が違ったなら、この不可解で付け入る隙のない男のことを、少しは理解できたのかもしれない。
……いや、今のティリンスにも一つだけわかっていることがある。それは、ヴァルカモニカが子ども好きだというのが偽りではないということだ。恐らくヴァルカモニカにとっては、花も子どもも同じく愛すべき対象なのだろう。ヴァルカモニカが花に向けた眼差しやアネリの誘拐を聞いて落胆した様子は、決して嘘には見えなかった。
だからといって、老獪な彼がただの“善人”とは思えないのは事実だが──。ティリンスは思考を整理すると、改まった表情を浮かべ躊躇いなく言い放った。
「メトラの祝福はいりません。僕には還るべき場所──ファンブリーナがある」
ヴァルカモニカは何も言わず、黙礼を返した。ティリンスはそれを合図に潔く中庭を後にした。だが、入り口のアーチをくぐったことろで急に怒濤のような不安と疲労が押し寄せ、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。理由は恐らく先の戦闘と、ヴァルカモニカと面と向かって話し大口を叩いたことだろう。
肩に乗っていた重石が急になくなったように無意識的な緊張が和らぎ、その反動で足元もおぼつかなくなっていく。ティリンスはできる限り平然を装おうとし、ヴァルカモニカに今の自分の胸中を悟られませんようにと願いながら歩みを進める。
「大丈夫だ。ファンブリーナも、アネリも、守ってみせるから……──」
知らず知らずに呟いた言葉は冷たくなり始めた宵の風にさらわれ、押し寄せる夜の闇の中に消えた。




