第5章〈恐れ〉
「があぁぁぁあッ!!」
執務室に、議事堂全体を揺るがすような咆哮が轟く。それはおおよそ人間のものとは思えないような狂気と憎しみに満ちた叫びだ。
荒々しい咆哮が足下に横たわる青年から発せられたものだと信じられず、ナスカは思わずたじろいで半歩ほど彼から離れる。
すると、少年の 動揺を察したように、ティリンスが素早く体を起こした。
前傾姿勢で目を光らせながらナスカを見据え、野獣そのものであるかのように獰猛に犬歯を剥く。ナスカは瞬間的に今のティリンスが正常でないことを読み取り、暗殺者としての勘から、間合いを取ろうと後ろに飛び退くために僅かに身を沈めた。
が、ティリンスはナスカの動きに即座に反応した。彼は後ろに飛び上がろうとしたナスカよりも先に勢いよく飛び出し、ナスカに強烈な体当たりを食らわせる。
まともにそれを食らい絨毯の上に倒れたナスカは、しかしながらすぐに体勢を立て直し、超人的な身の軽さでその場を離れる。だが、ティリンスは先ほどとはまるで別人のような動きで床から跳ね起きると、長い手足を生かし後ろからナスカの足下を払った。
ナスカはすんでのところでこれを飛び上がってかわし、長衣の袖に忍ばせていた鎖鎌を手に取った。
何が起きたのかわからないが、ますます野放しにしておけなくなったのは明白だ。少年は唸り声を上げるティリンスをねめつけると、左手に握った鎖を鞭のようにしならせ、分銅をティリンスの顔めがけて振り下ろす。
しかし、ティリンスはこれをあっさりとよけた。分銅などまるで目に入っていないとでも言うように、ナスカをまっすぐ見据えたまま、体をわずかに横にずらしただけで。ナスカはその態度に苛立つと同時に底知れぬ戦慄を覚え、顔をしかめて再び分銅を振り上げた。
それが誤りだった。ティリンスはナスカの追撃を今度はよけず、右手を顔の前にかかげて、鎖を器用に自分の腕で手繰る。
分銅の重みが災いし、鎖はきれいにティリンスの右手に巻きついた。ナスカはすぐにティリンスを引き寄せようとしたが、逆にティリンスが勢いよく腕を後ろに振り上げた弾みで、握り締めていた鎖がピンと張り、彼は危うく右手に握った鎌を取り落としそうになる。
畜生……なんて力だ。
ナスカは自分の力ではティリンスに敵わないと悟り、咄嗟に鎖鎌を投げつけた。
だが、ティリンスは驚くべきことをやってのけた。凄まじい勢いで自分に向かってくる鎌の柄を、自由な左手だけで狙いすましたように捕まえたのだ。
彼はそのまま流れるような動作で鎌を持ち直し、あたかも最初から自分の所有物であったかのように平然と構えた。
ナスカはその一連の行動に驚きはしたものの、鎖鎌が素人には難しすぎる得物だと知っていたので、手にしたところでたいして上手く使えないだろうと踏んだ。恐らく初心者にありがちに、先制のためとりあえず分銅を投げつけてくるだろうと予測し、その攻撃がくる前にかたをつけようと一気に間合いを詰める。
ティリンスは相変わらず目でナスカを追い続けていたが、体はついてこないようで全く動こうとしない。恐らく慣れない鎖鎌をどう扱うか計りかねているのだろうと、ナスカはほくそ笑んだ。
次の瞬間──鈍い銀色が煌めいた。
ナスカははじめそれがなんなのかを認識できなかったが、形状やティリンスの動作から正体を察した。
ナスカが見たものは“鎌”の刃だった。
ティリンスは分銅ではなく鎌を下手で投げつけてきたのだ。
普通、素人ならば、分銅ではなく鎌本体を投げつけたりできない。なぜなら、鎖で繋がっている以上鎌は引けばこちらに戻ってくるのが当たり前で、当然ながらそれなりの技術がなければ鎌を上手く引き戻し掴むことは難しい。使い慣れないうちは自分の投げた鎌で負傷、などというのも珍しくないので、かなりの勇気がいる行為だ。
「……っの野郎……ッ!」
だが、蛮族のニグミ族にはそんな常識は通用しないらしい。現に、目の前に鋭利な切っ先が迫ってきている。
ナスカはなんとか踏みとどまり、体をティリンスに対し半身に構えた。そして、鎌の軌道から体を逃がすように、上体を後方に反らす。
小柄さと俊敏さに救われ、鎌は、空を切りながらナスカの目の前を通過する。
空を切った鎌は速度を落とすことなくティリンスに襲いかかるかに見えたが、彼は別段慌てる様子もなく上手く鎌を掴み直すと、不気味な薄笑いを浮かべた。
ナスカは、勢い余って背中から地面に倒れた体勢の自分がいかに無防備な状態かを思い出す。
直後、鈍い衝撃がナスカの腹部を強襲した。ティリンスに上から踏みつけられたのだ。
ナスカは体をくの字に折り、必死で吐き気をこらえながらティリンスから離れようとした。だが、ティリンスは容赦なく追撃を開始する。
重い一撃がナスカの右頬に叩き込まれた。続いてティリンスは、ナスカの髪を掴んで持ち上げると、硬い机にナスカの顔面を叩きつける。
机の上に赤い鮮血が飛び散り、ナスカが弱々しい唸り声を漏らした。
しかし、ティリンスはまるで気にする様子もなく、ただ残忍な暴力を振るい続ける。
勝敗は既にはっきりしていた。
部屋に響く鈍い音。音。音。
遠のいていく意識。麻痺していく感覚。
ナスカは閉じていく世界の中で、敬愛してやまない枢機卿の無事だけを切に願った。
そして、声もなく呟く。
貴方を最後まで守れないことをお許しください──。
やがて、辺りが静寂に包まれた。
「……僕は、一体何を……」
愕然とティリンスは呟き、血まみれなった自らの手を見下ろした。その手は目に見えて震えており、掠れた声も明らかに先ほどまでの野獣じみたティリンスとは違う、本来のティリンスの声だった。
ティリンスは自分の所行が信じられず、何度も目の前でぐったりとしているナスカを見ては、呆然と首を振る。
激情にも似た恐れが湧き上がったとき、確かにティリンスの中の“何か”が放たれた。それは乱暴にティリンスの意識を奪い取り、彼を“獣”へと変えた。
ナスカと戦っている間、普段の温厚なティリンスの意識が全く消えていたわけではない。だが、微かな良心も暴力という名の歪んだ愉悦の前にかき消され、自分自身を制御することが不可能になっていた。
理性を取り戻した今、周囲に展開する光景を目の当たりにし、青年は己の所業に戦慄く。
部屋中に飛び散った血飛沫、ことごとく破壊された家具類、そして、目の前に無残な姿で横たわる少年。
まさか、こんな子供を無慈悲に打ちのめすなんて。
そんなこと、普段なら絶対に有り得ないはずなのに──。
幸いナスカは死んでいないようだった。ティリンスは自分の非道な行いに眩暈を感じながらも、未だにわななく手でナスカを仰向けにし、呼吸を確認する。
自分がこの年若い兇手を力で圧倒したというのは信じられないが、微かに残る記憶の断片や今の状況から、全てティリンスがやったことに間違いないと理解した。
やがて、ティリンスは自分が恐ろしくてたまらなくなった。ティリンスを突き動かしたのは、アネリへの恋慕や生への執着ではなくただひたすらに狂暴な“殺戮の欲求”だったからだ。
これが、ニグミ一族が殺人狂と呼ばれる所以なのか?
この残酷で凶悪な“獣”こそが、ニグミ一族を戦いに駆り立てているのか?
ティリンスは脳裏をよぎった絶望に対し泣き出したい衝動に駆られ、激しくかぶりを振った。まるで、自分が自分ではない何かにとりつかれたようで……いや、自分ではない何かに変容していくようで、喚き散らしたいほどの恐怖が込み上げる。
だが、今ここでそんなことをしても、何にもならない。
ティリンスはおぼつかない足取りで扉に近づき、逃げ出すように部屋を出ようとした。
だが、前に進めず、おもむろにナスカを振り返る。
──あの少年は、ヴァルカモニカを守るために戦ったのだろうと考えた。
ティリンスはぼんやりと枢機卿の顔を思い起こす。穏やかな深緑色の目をした、優しい微笑みをたたえる壮年の男を。
僕はまだ帰れない。枢機卿に会うまでは──。
ティリンスはそう確信し、重たい扉を押し開け、悲愴な面持ちで痺れた脚を前に踏み出した。




