第5章〈兆し〉
「逃げるなら逃げてもいいぜ」
ナスカが唐突に言った。が、その目は油断なくティリンスを見据えており、ティリンスは蛇に睨まれた蛙のように硬直している。そもそも、こんな状況で暗殺者とおぼしきナスカに背を向けて逃げ出すほうが無理に決まっている。
ティリンスは何も答えられず、ナスカの海のような碧眼を見返した。ナスカは口角を微かに吊り上げ、いやらしい嘲笑を浮かべながらゆっくりとティリンスに近づく。
「前のニグミ族とはクロム砂漠で交戦した。“狩り”の最中だったみたいで、砂の中からいきなり襲いかかってきたよ。外見もあんたと似たような感じで……いや、赤い目をしていたしあんたよりはずっと野蛮な風貌だったが、とりあえず典型的なニグミ族だった」
思いがけず同朋の話を聞かされ、ティリンスは強張った口を開いた。
「そのニグミ族は、どうしたんだ」
「殺したに決まってんだろ、あんな雑魚」
さらりと放たれたナスカの言葉に、ティリンスは強い衝撃を受けた。“狩り”の話はティリンスも聞いたことがあるし決して誉められた慣習ではないと思っていたが、こうもはっきり同族を殺したと宣言されるとやはり憤りが沸き起こった。それになにより、ナスカの目に宿る明らかな嘲りがどうしても許せない。
「僕の仲間を侮辱するな」
ティリンスの低い声にナスカはおや、と眉を上げ、面白そうにティリンスを眺めた。どうやらティリンスが話し出すのを待っているようだ。ティリンスは言い難い屈辱と緊張に耐え、重々しく言葉を紡いでいく。
「君はニグミ族を愚かで好戦的な蛮人だと侮っているようだけど、それは違う。確かにニグミ族は戦うことが好きだし、身体能力や戦闘技能は高いけど、ただの獣じみた戦争狂じゃない。歴とした人間なんだよ。だから色々なことで喜んだり悲しんだりするし、仲間の死だって悼む。君たちと何も変わらないんだ」
街暮らしのティリンスはめったにニグミ族を見たことはなかったが、それでも同朋のために必死で弁明を口にしていた。もしかしたら同族の欲目もあるのかもしれないが、ニグミ族がただの戦争狂だとは思いたくなかった。彼の母は生粋のニグミ族でありながら穏やかで心優しい人柄だったし、フレーザー一族による粛正の際死亡した父は陽気で誠実な人だったと聞く。何も戦いに重きをおくからといって、根底まで獣というわけではない。
ティリンスはナスカにそのことを強く訴えようとしたが、上手く言葉にできずに黙って眼前の少年を睨みつけた。しかしナスカの放つ異様な気配に気圧され、僅かに後込みする。よくよく考えてみれば、ここまではっきりと殺意を向けられたのは初めてなのだと思い至った。だからこそ自分より小柄であるナスカ相手に恐怖を禁じ得ないのだ。
「言いたいことはそれだけか」
ナスカがややつまらなそうに問うた。ティリンスはナスカの失望を感じ取り、ごくりと唾を飲み込んだが、無言で頷いた。
ナスカが長い息をつきながら気怠そうに頭を掻く。その様子は落胆と諦観を表しているように思われた。そして、なんでもないように残酷なことを呟く。
「前のはちっとも手応えがなくて暇潰しにもならなかったから、あんたには期待したんだがな。だが、どうやらあんたの方が退屈そうだ。伝説の戦闘一族だってのに、全く──」
俺を失望させてくれるなよ。
ナスカはそう吐き捨てるや否や、手にしたダガーをティリンスに向かって鋭く投げつけた。
ティリンスは持ち前の反射神経を生かし、その投擲を横に飛び退いてかわしたが、焦りと経験不足ゆえか続くナスカの蹴りには反応できなかった。ナスカは猫を思わせる軽やかさでティリンスの目の前まで来ると、目を丸くしているティリンスの腹部に強烈な回し蹴りを叩き込む。ティリンスはみっともない悲鳴を上げ派手にもんどりうって倒れると、起き上がる間もなく今度は顔面を蹴り上げられた。その後はあまりの激痛に呼吸も満足に出来ず、ただ顔を押さえて呻くばかりだ。
「やっぱ弱ぇな。長年の街暮らしのせいで、せっかくの身体能力が衰えてんじゃねぇか?」
ナスカがせせら笑い、ティリンスの体を足で揺さぶる。その振動だけで腹部と顔面が激しく痛み、鼻孔に鉄臭い匂いが充満する。ティリンスの双眸からぼろぼろと涙が零れた。それを知ってか知らずか、ナスカは年齢に相応しくない非道な笑みをたたえ──鷹揚に言い放つ。
「忍耐力向上のために、一本ずつ指でも切り落としてやろうか」
「…………ッ!!」
ティリンスは戦慄き、なんとかその場から離れようとした。が、芋虫のように這うことしかできない今の状態では抵抗などたかが知れている。ナスカはティリンスの腹を軽く蹴って何の苦労もなく相手の動きを封じると、絨毯に爪を立てるティリンスの右手を引き剥がしティリンスの背中側に引っ張り上げた。
「最初は小指からにしてやるよ。次は薬指、その次は中指……ってな。もし泣いたり悲鳴上げたりしたら、目を抉ってやるから覚悟しとけ」
ナスカのあからさまに愉快そうな声音に、絶望感が体中を走り抜ける。ティリンスはふざけるなと叫ぼうとしたが、恐怖と痛みのせいで上手く口が動かせない。手を振り払おうにもこの体勢では腕に力が入らない。ティリンスは情けなく血まみれの顔を歪め、ナスカが冷たいダガーの刃を自分の小指の根本にあてがうのをなす術もなく見守る。
「やめてくれ……!」
ティリンスの懇願も虚しく、ナスカはつぷりとティリンスの小指の付け根に刃を潜らせた。
鋭い痛みと共に大粒の血液が溢れて刃を伝い落ちたが、そんなに深い傷ではないようで、指はまだちゃんと手についている。嫌がらせのつもりなのか、ナスカは一気に指を切り落とそうとはしなかった。そう、見世物のようにじわじわと指を切っていくつもりなのだろう。
(いやだいやだ、やめろ……!)
ティリンスの脳裏に、噴き出す血の色が──深紅の彩りが自分の手を伝う光景が浮かぶ。それは、目を覆いたくなるほど凄惨で、残虐なものに思われた。
だが同時に、ティリンスの心の内には得も言われぬざわめきが沸き上がる。
血の赤、生命の色は、彼が普段無意識のうちにしまい込んでいるある種の“興奮”を引きずり出そうとしていた。本人の意思とは関係なく、血の色と香りに刺激されあらわになった本能的な衝動は、理性という名の枷を破り心を喰らうおうと暴れ、猛り狂う。
突然牙を向いた自らの内に眠る感情に、ティリンスは呑まれていくのを感じる。命の危険に晒された彼は、本能的に自身のうちに秘めた凶暴で残酷な“獣”を解き放とうとしていた。
「ゥヴヴ…──ッ!!」
口をついでた呻きは酷く獣じみ、水色の瞳には人間らしくない野性的で凶悪な煌めきが宿る。
──激情が理性の鎖を引き千切ったとき、ティリンスの意識は闇に弾けた。




