第5章〈任務完了〉
薄暗い書庫の中で、激しい剣戟が繰り広げられている。背の高い赤毛の少女と体格の良い金髪の少年が、互いの刃を振るい相手の命を奪おうとしている光景は、傍から見ればなんと慨嘆にたえないものだろう。
足元を斬りあげようとしたライグの剣を軽やかにかわすと、メリダはうっすらと酷薄な笑みを浮かべた。
「強いのね、貴方。素敵よ」
何の冗談だと思いつつも、ライグはメリダの一撃を受け流し応える。
「君も若いのになかなかの腕だ。さすがに15歳で枢機卿の親衛隊員になっただけはあるな」
ライグの言葉にメリダはきょとんとした表情になった。
「何故そのことを知っているの?」
「有名な話だからな」
ライグの賞賛は決しておだてではない。枢機卿の親衛隊の中に腕の立つ少女がいるらしいという話は、帝国でもそれなりに知られている話だ。尤も彼女が噂の少女だという確信はなかったので、先ほど鎌をかけてみたというわけだが。
しかし、この状況はまずい。ライグは思わず舌打ちしたいのを堪えながら、メリダの突きをすんでのところでかわす。そして後ろに大きく飛び退き、一旦間合いをとり睨み合う。
正直な話、今のライグが勝てる可能性はかなり低いだろう。それはライグが子供の姿をしているからとも言えるが、そうでなくともメリダは──強い。ライグとしては認めたくない事実であるが、緩やかで変則的な剣術のせいでメリダの次の動きは非常に読みにくく、今のライグは彼女の攻撃になんとか反応し防御しているという状況だ。全く、舞のように優雅に剣を振るうのに、彼女の剣の凶悪さときたら──。女とは恐ろしいものだな、とライグは苦笑し、深く息を吐いた。
微かに息を乱すライグを見て、メリダが憐れむかのように悲しげな顔をする。
「急に変なことを言うかもしれないけど、貴方が敵だなんて本当に残念だわ。ナスカも言っていたように、貴方みたいに真っ直ぐな目をした人は滅多にいないから。こんなことを言うべきではないけれど、もし貴方が皇国の人間だったら、さぞかし心強い味方だったでしょうね……」
それを聞いたライグはむっと黙り込んでいたが、おもむろに口を開くと冷たい口調で言う。
「俺を油断させようなどと考えるな。そんな世辞に舞い上がるほど俺は浅はかではないと自負している。そもそも、俺は君の大事な人を斬った人間だぞ。そんな人間相手に美辞を弄するなど──」
ライグは険しい表情で言い放った。
「反吐が出る」
ライグの声が、狭い部屋に反響して砕け散った。その余韻の中、メリダはただ無表情にライグを見つめている。まるで、ライグの心の内を推し量るかのように。
ふと、メリダが表情を和らげた。
「……そうね。自分の大事な人を傷つけた男に甘言を囁くなど、実直そうな貴方には信じられないことでしょう。──ふふ、ばれているのならこれ以上誑かす必要はないわね」
メリダが伏せていた目を上げ、ライグを真っ直ぐ射抜いた。その目は、これまでに見たことがないほどの憎悪に濡れている。
「あんたを殺してやる。絶対に、どんな手を使ってでも。私の大切な人を傷つけた罪は、死よりも重い──」
メリダは床を蹴りつけ、凄まじいスピードでライグに迫った。その剣撃は唸る鬼神のようにライグの剣を強襲し、あまりの衝撃にライグの腕の感覚が麻痺する。それでもライグは必死で柄を握る手に力を込め、荒々しい鍔迫り合いに耐えた。
「だから惨たらしく殺してやるわ。子供の姿をしていようが、そんなことは関係ない。だって、貴方はパラディオを斬った人だもの──ッ!!」
間近で見るメリダの気迫に僅かに気圧され、ライグはじりじりと後退した。たぶんメリダは虫飼いを好いているのだろうとは思っていたが、これほどまでとは。能天気そうな風貌とは裏腹に、かなり感情的な面を持ち合わせているようだ。
金属同士をこする嫌な音と、ライグが後退り床を踏みしめる音が部屋に満ちる。本性を剥き出しにしたメリダの剣に、ライグは情けないほどに圧されていた。ライグは唇を強く噛み締め、なんとかメリダの剣を押し戻そうとするが、技術的な問題というより体格的な問題からこの状況から脱出できそうにない。ライグは顎を伝い落ちる汗が、運動によって生じたものなのか、迫る狂気を目前に溢れた冷や汗なのかわからなくなった。そして、メリダの瞳が映す己の死に様を感じ取り、心臓を締め上げられるかのような息苦しさに襲われる。
この状況を抜け出さなければ、俺に勝ち目はない。早く、早くなんとかしなければ──。
焦りと恐れに駆られ、ライグの心から余裕がなくなっていく。かろうじで彼の理性を保たせているのは、年齢故の矜持だ。それがなければ、とっくにパニック状態に陥っているだろう。
──ライグの脳裏をある言葉がよぎる。
“戦場では冷静さこそ命だ”。
そう言ったのは、誰だったか。
今の自分のおかれた状況を考えながら、まさしくその通りだとライグは思った。冷静さを欠いた状態では、見えるものも見えないし、できることもできなくなる。そんなことを考えていると、どういうわけか頭に上っていた血が引いていった。
ああ、そうだ。
確かガルアが言っていたんだ。
ガルアの言葉に救われたと認めるのは癪に障るが、ひとまず落ち着きは取り戻せた。それから仲間たちの顔を思い浮かべ、ここで死ぬわけにはいかないと強く決意する。
何より、バレンシアに会いたい。あの美しい女性の笑顔を守るために、ここで諦めるわけにはいかない──。
ライグはバレンシアを思い己を振るい立たせ、目の前のメリダを冷静に観察した。先ほどまでのライグと同じく、今のメリダはかなり感情的になっているようだ。ならば、どうにかしてそこを上手くつけないだろうか。
「……虫飼いは、どうしている」
そう小さく問いかけたライグを、刃の向こうのメリダが睨みつけた。
「貴方に教える義理はないわ」
「…………そうか」
ライグは深呼吸をし、メリダを見返すと──悲しげに顔を歪ませた。
メリダが心底不愉快そうに自分を見ているのがわかる。ライグは刺すようなメリダの視線を感じながら、なおも同情するかのようにメリダを見つめ続けた。
とうとう、メリダが明らかに苛立った様子でライグに唸った。
「なんなの? 気持ち悪い」
ライグは真面目腐った表情で答えた。
「すまない。若い君に、申し訳ないことをしたと思って」
ライグの態度に何かを感じ取ったのか、メリダの表情が徐々に不安と狼狽を孕んだものに変わっていった。
ライグはそれを確認すると、静かに宣告した。
「地下道で虫飼いを斬る前、剣に毒を塗っておいたんだ。フレーザー一族に古くから伝わる、とびきり殺傷力の高いものをな」
「嘘よ……!」
メリダが即座に否定した。その目には激しい憎しみが揺れている。
「治療師は、一週間もすれば目を覚ますと言っていたわ。大量出血のせいで当分は安静が必要だけど、もう峠は越えたから命の危険はないって……!」
「……それは違う。恐らく彼は、あと二日ほどで死ぬだろう。俺が使った毒薬は、眠るように死んでいく珍しい種類のものだ。だから目立った前駆症状もないし、治療師が判断を誤っても仕方ないだろう」
動じるな、毅然としていろ。
本気で虫飼いが死ぬ運命にあると、思い込め。
ライグは目が泳がないように気をつけながら、自分にそう言い聞かせた。そう、嘘をついていると思うからぼろが出るのだ。ならば自分自身にも虚構を信じ込ませ、ライグの同情がいかにも本物であるかのように見せればいい。
──メリダの顔が、緩やかに青ざめていく。
「赦さないッ!」
悲鳴のような声で叫ぶと彼女は剣を勢いよく後ろに振り上げた。ライグの作り話を真に受けたらしく、激昂しながらも酷く狼狽えている。その目は、ともすると潤んでいるようにも見えた。
ライグは感情に任せ雑な動作で剣を振り上げたメリダを正面から見据え、手にした剣を投げ捨てた。
ライグはメリダより身長が低いことを利用し、右手を高く掲げた体勢の彼女の右脇の下に上体を倒した。そして右の拳を握り締め、隙だらけになったメリダの鳩尾に拳をねじ込む。
息が詰まるような音と共に肉を打つ鈍い感触が拳に伝わり、ライグは曲がっていた右肘を押し込むように真っ直ぐ伸ばし拳に全体重を乗せた。
ライグの拳をまともに食らったメリダは背中から地面に叩きつけられ、鳩尾を押さえ悶絶した。呼吸困難を起こしているのか、悲鳴すら上げることができずに体を丸めてうずくまっている。ライグはすぐさまメリダの側に落ちている大剣を拾うと、それを書庫の隅にある小さな窓から投げ捨てた。
メリダが激情に駆られ冷静な判断ができなくなったおかげで助かった。
ライグはそう思いながら未だに起き上がれないでいるメリダに近付くと、メリダの体を仰向けに返した。目元を赤くし荒い呼吸をするメリダはぎょっとしたようにライグを見上げたが、弱々しく手ではたいてくることしかできないようで、泣きそうになりながらかすれた声で毒づく。
「ゆる……さなぃ、から……っ。パラディオを、傷つけたら、赦さない……っ!」
ライグはこの期に及んでまで虫飼い──パラディオを心配するメリダに少々呆れた。
「全く、君は……。少しは自分の心配をしたらどうだ」
ライグはそう言ってメリダの剣帯を外し始めた。メリダは朦朧とした様子でそれを眺めていたが、ライグがそれを使ってメリダを縛ると憎々しげに呟いた。
「殺し、なさいよ……。どうせ、私は、パラディオを守れなかったんだから……。彼が死ぬなら、私も死ぬ……!」
「その必要はないさ」
ライグはティリンスから受け取った剣を鞘に収め、メリダをアンダーソンの横まで引きずってくるとそっと横にした。たとえ敵であろうと、女性に手荒な真似はしたくない(実際は既に暴力を振るっているのだが)。
ライグは不審そうに自分を見上げるメリダに真実を明かした。
「俺は剣に毒なんて塗ってない、ということだ。もし虫飼いが目を覚まさないのだとすれば、それは奴自身の軟弱さと運の悪さが招いた結果だろう」
それを聞いたメリダは、穴が開くほどライグを見つめた。やがてライグの言わんとするところを察し、力無く目を閉じて微笑を浮かべる。
「何よ……。あんな、真面目な顔で嘘つくなんて、最低……」
「悪い」
だが、ライグの謝罪はメリダには聞こえていないようだった。彼女は床に頭を垂れ、気絶しているようだ。虫飼いが死なないとわかったことに余程安堵したのか、それとも緊張の糸が切れたのか、安らかな表情だった。
ライグは長く息を吐き、懐から小瓶を取り出した。白色だが時おり虹色に煌めくその液体は、時粉をインク化させたものだ。彼は、メリダとアンダーソンが確かに気絶していることを確認し、いよい本題の任務に移る。
ライグは室内を見回し、書庫の奥の方に埃を被った空間があるのを見てそちらへ向かった。狭く雑然としているが、無理をすれば大人でも通れそうだ。ライグはとりあえずここに目印をつけることにして、時粉のインクを目立たない程度に床や書類にぶちまけ、染み込むのを見届けると急いで辺りを本や棚で覆い隠した。
「状況が状況だし、これ以上は高望みしないでおこう」
ライグは今しがた自分が細工を施した場所を不安そうに眺め、ぽつりとこぼした。あとは、“彼”が上手くやってくれるのを願うだけだ。
さて、とりあえ任務は終えたし、おまけに運良く虫飼いの容態も知ることもできたわけだし、そろそろ引き上げるか。
正直な話、ライグは厄介な虫飼いを殺せるなら殺そうと思っていた。しかし、ガルアから無謀なことはせず与えられた役目を終えたら速やかに戻れと言われていたし、メリダがあまりにも虫飼いを必死に守ろうとするものだから、虫飼いを殺すのがなんだか億劫になってしまった。敵兵に情けをかけるなど軍人としてあるまじき行為だが、今のライグの容貌は軍人ではなくただの農民の子供に過ぎない。それならば、外見に従い多少の慈悲くらい恵んでやってもいいだろう。
ライグはメリダとアンダーソンが起きていないのを改めて確認すると、例の小さな窓に近づいた。廊下を使って逃亡するのはどう考えても危険なため、ここから飛び降りるのが一番安全そうだ。
ライグは窓枠を掴んでよじ登り、外の様子を窺った。幸いなことに、少し下に張り出した屋根が見える。その屋根上を歩いてゆけば、ティリンスが言っていた抜け道の近くまで行けるだろう。ライグは心の中でティリンスに感謝と武運を祈る言葉を投げかけ、他の皇国軍が駆けつける前に議事堂を脱出するため、急いでその場を後にした。




