第4章〈路地裏にて〉
腰に吊り下げた剣がやけに重く感じられる。ティリンスは未だに腫れぼったい目をこすると、重たい足取りで路地裏に入った。朝のすがすがしい太陽の光が酷く目に沁みたのだ。
薄暗いありふれた景観の路地裏で、壁に背を預けティリンスは溜め息をついた。あの小屋を出てから一体何回溜め息をついたかわからない。ティリンスは辛気臭い自分にうんざりしつつ、今までのことを思い返した。
バフラが去った後、長い間ティリンスはうずくまっていた。体が鉛のように重く頭は麻痺したように機能しない。そして、アネリが連れ去られる場面をひたすら反芻した。あの時こうしていればよかった、とか、せめて奴らの顔だけでも見ておくべきだった、とか、どうしようもない後悔ばかりが意識を支配していた。
もともと後ろ向きな性格のティリンスだ。自分を奮い立たせるのには時間がかかった。
やがてティリンスに変化が訪れた。ティリンスに、というよりは周りの景色に、と言うべきかもしれない。よく「明けない夜はない」と気障な詩人などが言うが、まさしくその通りだと彼は思った。天体の法則に従いだんだんと空が白み始めたからだ。
徐々に明るくなっていく世界を前に、打ちひしがれていたティリンスの心に少しずつ光が差し始めた。光というよりは無力な己に対する諦観に近かったかもしれないが。だが人間は案外単純なもので、どんなに絶望的な気持ちであっても夜が明けると少しは心が回復するらしい。ティリンスもその例に漏れず、わずかではあるが希望の気配を自分の内に感じ始めた。
そうだ、まだ終わりじゃない。
アネリは死んだわけじゃない。
ティリンスの見ていた範囲では、ということになるが、それでもその希望はティリンスを立ち上がらせるには十分だった。彼は力の抜けた体を無理矢理起こすと、服についた木屑を払った。そして主をなくしたぼろぼろの小屋をゆっくりと見回した。
そうして辺りを確認していると、破壊された板張りのベッドの下から鈍い輝きがティリンスの目を刺した。どうやらそれはベッドの下に隠してあったらしい。ティリンスはベッド……というよりただの破損した木材の塊に近づき、その中から硬い金属質なものを掴み出した。
それは剣だった。若手の兵士に配給されるような、質素でやや軽めの剣。
ティリンスはファンブリーナ制圧の夜、自分が若い兵士から奪い取ったこの剣のことを思い出した。もちろん忘れていたわけではないが、落ちる途中でどこか別の場所に飛んでいったか、あるいは他の誰かに拾われたかと思っていたのだ。何を考えていたのか知らないがバフラがベッドの下に隠していたらしい。
ティリンスは剣をまじまじと見つめた。剣ならいくらでも見たことはあるが、実際に手に触れたことは少ないのだ。試しに鞘から抜き出し軽く左右に振ってみたりする。不自然にぴかぴかな柄と、刃零れ一つない刀身が新品臭さを漂わせていた。また、背が高いティリンスには少し刃渡りが短く感じられたが、軽量なため振りやすいと言えば振りやすい。
ティリンスは人の命をいとも容易く奪う凶器を前に、不思議と冷静になった。
剣は好きではない。だが、これがあれば少しは強くなれる気がする。実際に人を斬るのは避けたいが、脅しに使うには十分だろう。
ティリンスは足元に落ちていた布で剣をくるむと、それを一緒にひったくった剣帯に差して歩き始めた。どこに向かっているのか自分でもはっきりとしなかったが、立ち止まりたくないと思った。一度立ち止まってしまえば、アネリもファンブリーナもなくしてしまうような気がしたのだ。
自分に何が出来るかわからない。だが、何もしないでいるよりはましだ。
ティリンスは朝日を受けながら、全く先の見えない旅路へと踏み出した。
そして今に至るわけだが。
だが実際のところ、ティリンスには何をどうすればいいのか皆目見当つかなかった。アネリを攫った二人組は鏡の中に消えてしまったため追うことは不可能だし、バフラがどこにいるのかもわからない。そもそもバフラはアネリを殺すと言った男だ。情報を聞き出すことはあっても、間違っても頼るべき相手ではないだろう。
結局ティリンスが出した結論はこうだ。“まずは議事堂にいる枢機卿を問い詰める”。曲がりなりにもファンブリーナを制圧した男だ、ここで起きた騒動や不審な人物についてはある程度把握しているかもしれない。
それに、ぐだぐだと悩んでいる暇はない。あの二人組と顔見知りとおぼしきバフラがいない以上、自分でやれることをやっていくしかないのだ。ティリンスは妙な焦燥に駆られながらひたすら議事堂に向かって歩いていた。
しかし、今のティリンスは腰から剣をぶら下げている。下手に皇国軍に見つかって怪しまれるのは避けなければ。そういうわけで、焦りながらもこそこそと路地裏などを通っているのだ。
ティリンスは目頭を押さえもう一度溜め息をついた。今更だが、本当に自分は無謀すぎると思う。前回は門兵に話すら聞いてもらえず容赦なく殺されかけたというのに、またあの議事堂に潜入しようと言うのか。よしんば潜入出来たとして、皇国を牛耳るあの胡散臭い枢機卿が自分のような一庶民の言い分に耳を傾けてくれるだろうか。そう考えると、自分の愚直さがいかに酷いかがわかって思わず自嘲めいた笑みがこぼれた。
すると、そんな物思いに耽るティリンスの背後から、誰かが押し殺した声で話すのが聞こえた。
ティリンスはなんとなく興味を覚え、その声に耳を傾けていた。ニグミ族の特徴の一つにあげられる五感の鋭さは、街中で暮らすティリンスにも健在だ。そのため他の人間にはたぶん聞こえないであろう小声にティリンスの耳は反応したのである。
しばらくし、ティリンスは声がこの路地の奥のマンホールの中から聞こえてくるものだと気づいた。ファンブリーナの下水道は地下道に通じている箇所もあるため、もしかしたら地下道で生活する浮浪者の声かもしれない。ファンブリーナにいる浮浪者の中には、血気盛んな若者に因縁をつけられることと警備隊に補導されることを危惧し地下道に潜んでいる者も少なくないので、地下から咳き込む音や変な呻き声が聞こえたりするのは不思議ではないのだ。
だが、どうにもこの声の主は若いようだ。
いや、若いと言うより“幼い”と言った方が正しいかもしれない。どう聞いても声変わり前の子どもの声だ。そんな子どもが、やけに畏まった口調で難しい話をしているようである。
ティリンスの本能がひそひそと囁きかけてきた。これは重大な局面だぞ、と。
ティリンスは猫のように足音を忍ばせ、慎重にマンホールへと近づいた。なぜかやけに心臓が痛かった。緊張のせいなのか、興奮のせいなのか、不安のせいなのかはわからなかったが。
ティリンスがそろそろと移動する間も声はやまなかった。どうやら頭上を嗅ぎ回るティリンスには気づいていないらしい。やがて、ティリンスはある不可思議なことに気づいた。
声の様子は明らかに人と話しているようなのに、それに答える相手の声は聞こえないのである。
ティリンスは静かに息を吐き出すと、マンホールの数歩手前で立ち止まった。地下道からマンホールまでは結構な距離があるので、あまり大きな声でない限り会話が筒抜けということはないが、ティリンスは仮にもニグミ族である。死のクロム砂漠で“狩り”を行うような、超人的身体能力を誇る一族の末裔なのだ。
ティリンスはそっとしゃがみ、マンホールに耳を寄せた。案の定先ほどよりもはっきりと子どもの声を認識することができる。
「しかしそうは言っても、この場合は『時外流隠蔽』が良かったんではないですか? それなら無邪気な子どもを演じる必要はないし、何より人目を気にしなくていいですから。貴方もご存知の通り、私はこのような性格ですので演技力は期待できませんよ」
少年の声はそこまで言って静かになった。随分流暢な敬語を使うものだ。ティリンスは全くわけがわからないまま、しかし好奇心を膨らませ続きを待つ。
結構な沈黙が流れた後、ふいに年寄り臭い溜め息が聞こえた。子どもが放ったものにしては、なんというか……貫禄がありすぎる。まるで世の中の辛酸をなめ尽くしたと言わんばかりの重い溜め息だった。
どことなく呆れたような声音で少年が言う。
「……わかりましたよ、ガルア司令官。全部貴方の仰る通りです。ちゃんとご指示に従って議事堂に潜入を試みますから、面白がるのはやめてください。貴方が人を言い籠めて楽しんでるのは、ちゃんとこっちまで伝わってるんですから」
ティリンスはそう答えた少年の声を聞き、頭を殴られたような衝撃を受ける。
時外流隠蔽──司令官──議事堂に潜入──そして、子どもの声なのにまるで軍人のように硬い口調──。
ティリンスの頭の中に少年の台詞が谺し、それが不思議なほど綺麗に連鎖していく。次の瞬間、脳裏にある信じがたい言葉が閃いた。
────“帝国軍”。
恐らくこの少年は、帝国軍の人間だ。
待ちに待った帝国の守護者、世界最強と謳われた軍隊、そしてファンブリーナ奪還の希望。
無辺の大地を越え、皇国の堅固な警備をかいくぐり、彼らがファンブリーナを救いに来たというのか。
ティリンスは驚愕と興奮で鼓動が早まるのに耐えきれず、思わず胸元を掴んでいた。そして無意識の内に呟く。
「信じられない……。母さん、ファンブリーナはまだ見捨てられてないみたいだ」




