第4章〈国境へ〉
クロム砂漠から乾いた風に乗ってきた砂塵が、夜明けの大地を霞ませていた。見渡す限りの荒野の向こうに揺らぐ赤い太陽を眺め、マドック・オリンダは感慨に浸りながら呟く。
「この不毛の大地にも、こんなに美しい夜明けがあるのだな。クロム砂漠もまだ捨てたものではないかもしれん」
オリンダは白いものが混じる短髪をぐしぐしと掻くと、一つだけ明かりが零れているテントへと近づいた。他の兵士たちももうそろそろ起きてくるだろうが、このテントにいる人物はオリンダの命令で夜通しある作業に没頭していた。部下思いで知られるオリンダは、寝る間も惜しんで働いてくれたその人物に労りの言葉をかけようとテントの垂れ幕をくぐった。
「夜通しご苦労、テイデ。よくやってくれた」
「お役に立てて光栄です、オリンダ大尉」
そう言いながら慌てて立ち上がったのは、紫のローブを身にまとった時魔導師───カナリア・テイデだった。テイデは二十代の女性には見えない童顔で気が弱そうな顔つきをしており、言われなければ軍属時魔導師だと誰も気づかないような頼りない雰囲気を持っていた。しかしその真面目で献身的な性格故にオリンダからの信頼は厚く、今回の遠征においては何かと重宝されている。
「移動を開始したら、しばらく時魔導は使わなくていい。他の奴らに任せるからな」
そう言われたテイデは安堵したように息をつくと、疲れた顔に温和な笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、そう言っていただいて安心しました。私、《時外流隠蔽》は苦手なもので」
《時外流隠蔽》とは、対象をその世界の時の流れに属さないものと錯覚させることで姿を隠蔽する時魔導の一種である。時魔導師が特殊な術で探知しないかぎり、《時空間隠蔽》を施された人物は他人の目には映らなくなる、というともすると卑怯な時魔導で、高度な術者ならば存在そのものを隠蔽することができるため、潜入や奇襲の際には重宝される。ただし、術の効力を維持させるにはかなりの技術と体力を要するため、長期に渡り発動させ続ける場合は時魔導師たちで交代したりするのが最良だ。ちなみに、奇襲の際にガルアがライグにかけたのはこの時魔導である。
そして、テイデが夜明かし発動していたのが《時空間偽装》。これは人や物を対象とするのではなく、ある一定の空間を文字通り“偽装”する魔術である。例えるなら、地面の上に林檎がおいてあるとする。その林檎の周囲をぐるりと線で囲って時空間偽装を発動させると、円陣の中にある林檎が“存在していなかった”時間を映し出すことにより、円陣の外部からはその林檎が認識できなくなる。要するにテイデはオリンダが率いるこの大軍を《時空間偽装》で夜通し隠し続けていたというわけだ。
「そうなのか? 私にはそれぞれの時魔導の違いがよくわからんが」
オリンダが真面目な顔でそう言ったので、テイデは思わず苦笑してしまった。オリンダは厳つい風貌や低い声から“怖い”と誤解されることも少なくないが、実際は部下思いの寛容な男だ。そのような気性から部下にも慕われており、彼は大尉でありながらも今回の遠征においては殉職した将官に代わり師団を上手くとりまとめていた。テイデも遠征を共にするうちに、この律儀な男に惹かれていったものだ。そして、何故彼を慕う兵士が多いのかをよく理解した。
テイデは考え込む上官を弁護するように優しく言う。
「わからなくても仕方ないと思いますよ。我々時魔導師だって時々混乱するんですから」
オリンダはじっとテイデを見つめ、ふいに眉をひそめた。
「それにしても酷い隈だな。すまん、大分無理をさせてしまったらしい。移動中は荷台で休んだほうが良さそうだな」
オリンダは、若い女性であるテイデを徹夜で働かせたことを気にしているようだった。そうでなくとも、テイデはか弱い印象を受けるのだ。テイデはオリンダの身にしみるような気遣いに感激しながらも、慌ててかぶりを振った。
「お心遣いは嬉しいですが、ファンブリーナが占拠されたこの緊急時に一人だけ休んではいられません。私はこう見えて丈夫ですから、気になさらないでください」
「だが、そうは言ってもな」
オリンダはふいにテイデの柔らかい金髪に手を伸ばし、頭をわしゃわしゃと撫でた。
「やせ我慢は逆に良くないぞ? お前がかなり疲れていることぐらい、見ればわかる。上官命令だと思って移動中くらいは休んでいろ」
テイデはオリンダの思わぬ行動に驚き、ついで頬を真っ赤に染めた。敬愛する上官の優しさに触れ、照れくささと共に激しい戸惑いが頭の中をぐるぐると巡る。テイデは高鳴る胸の鼓動を抑えつけるように、せめてもの冷静さを繕いながら答えた。
「しかし、私は……」
「いいから休め。もしものことがあれば叩き起こすから」
厳しいがどことなく優しげな口調でオリンダが遮った。それ以上はテイデには反論できなかった。彼女が頷いたのを見てようやく手を離したオリンダが、呆れたように溜め息をつく。
「お前は妙なところで頑固だからな。まったく、世話が焼ける」
「も、申し訳ありません……」
顔を伏せ弱々しくて謝罪したテイデに謝るほどのことじゃない、とオリンダは答えると、大分明るくなり始めた外へ出ようと垂れ幕をめくった。そしてテイデを振り返り、お前も来いと言わんばかりに片眉を吊り上げた。
テイデは未だに火照る頬を恥ずかしく思いながら歩き出した。そして、オリンダを前にときめく心を誤魔化そうとわざと難しい顔をする。
正直なところ、テイデは困惑していた。自分とは親子ほども歳の離れたオリンダに惹かれてしまう己が、酷く身の程知らずだと思えたからだ。それ以前に、オリンダに好意を抱くこと自体が無謀ともいえた。恐らくオリンダにとって自分は、ただの世話の焼ける若い部下の一人でしかないと彼女は気づいているのだ。
冷静になれ、と自分に言い聞かせながらテイデは外に出た。私は軍人なのだから、任務中に浮ついたことを考えるなんてとんでもない──。と、外に出た途端に纏わりついてきた予想以上に冷え込む夜明けの空気に、テイデは身震いした。
それを見たオリンダが真顔で尋ねる。
「上着を貸そうか」
「結構です!」
顔を赤らめ即座に断ったテイデをオリンダは不思議そうにしばらく眺めていたが、やがて白む空を見上げ、訝しげな表情を浮かべた。
「あれは……」
テイデもつられてオリンダの目線の先を追った。
オリンダが見ていたのは、北方のまだ夜の名残を感じさせる暗い空だった。そこには紫色に染まった雲がいくらか浮かんでいたが、普通ならば見えるはずもないものが飛んでいることにテイデは気づいた。それは大きな鳥───いや、羽根を持つ犬のような動物で、灰色の毛皮を身にまとっていた。
大型の動物はオリンダたちに気づく様子もなく軍団に接近し、20メートルほど上空を通過していった。テイデは近くで見た謎の生物の大きさに唖然とし、それから慌ててオリンダを振り返る。彼女は思わず叫んだ。
「人が乗っていました! あの服装は恐らくアルトネア兵です!」
オリンダは狼狽えるテイデとは対照的に、落ち着き払った声で答える。
「わかっている。たぶん、あれが司令官が仰っていた“偵察員”だろう」
テイデが不安げな表情でオリンダを見た。オリンダも苦々しい顔つきで飛び去る動物とアルトネア兵を見送っている。やがて彼らが南の空に見えなくなったとき、オリンダの口をついたのは深い溜め息だった。
「間に合えばいいんだがな……」




