第4章〈誇り〉
小部屋の戸をノックすると中からはすぐに返事があった。一応女性の部屋に入るので、ライグは躊躇いがちに扉を開けた。
「入るぞ」
扉の向こうには、絨毯を丸め剥き出しになった煉瓦の床に、魔法陣のようなものを書いているバレンシアがいた。
今の彼女は普段は高い位置で結っている黒髪を後ろに流し、擦り切れた紫のローブを脱ぎ麻の衣服を身にまとっている。初めて見るバレンシアの姿に、ライグは思わずどきりとした。
バレンシアが顔を上げ、入り口付近で決まり悪そうに立っているライグに質素な木製の椅子を指差した。
「あと少しで完成するの。ちょっとだけ待ってくれる?」
ライグは頷くと、白いチョークで書かれた魔法陣を踏まないように気をつけながら移動した。ライグが椅子に座る音を聞き、バレンシアが作業をしながら微笑する。
「ごめんなさいね、急に呼びつけて。驚いたでしょう?」
「まあ、少しはな」
そう答えたライグは、端正なバレンシアの横顔に走る鋭利な傷跡が気になった。角度的に傷跡がよく見えるので、つい目がいってしまうのだ。
ライグは失礼極まりないことを承知しながらも、狭い小部屋に二人きりという状況に親近感を抱くのを禁じ得ず思わず、口に出していた。
「不愉快なら聞き流してくれて構わない。ただ、一つ聞きたいことがあるんだ。君の右頬の傷……一体どうしたんだ?」
バレンシアが驚いた顔でライグを見上げた。ライグはつい迂闊なことを言ってしまったと内心焦ったが、意外にもバレンシアは柔和に微笑みどこか懐かしむように話し出した。
「そうね、私が時魔導の教師をしていた頃の話だからもう五年も前になるかしら……。実は私、その時ある男性に言い寄られていたの」
それを聞いたライグは僅かにたじろいた。もちろんバレンシアほどの美人で気立てもよし、とくれば男たちが放っておかないだろう。たとえ顔に酷い傷がある今でも、明朗闊達な彼女に好意を抱く人間も多いのだろうから。
ライグのそんな微かな動揺に気づいた様子もなく、バレンシアは話を続けた。
「まあその男なんだけど、確かに顔は悪くなかったわ。家柄も頭も良かったから、いずれ出世するのは目に見えた。でも、一つ大きな問題があったのも確かね」
バレンシアはそう言うと細い肩を竦めてみせた。
「ちやほやされた良家のお坊っちゃんに有りがちだけど、かなり女癖が悪かったの。甘ったれた性格のくせに、女性に暴力を振るうことも多かったらしくて。だからずっと相手にしなかったんだけど」
ライグはアレクサンドリアにのさばる貴族階級の若者たちを思い起こした。格差の激しい帝都では彼らのように親の七光りだけで一生を送れるような無能で傲岸な輩も多く、中級層や下級層の人間は貴族から酷い仕打ちを受けることもある。たとえ貴族の若者が罪を犯したとしても、親の権力と賄賂によって無罪放免ということも珍しくないのだ。
ライグは低い声でこぼした。
「つまり君の傷も、高慢な若者の暴力の爪痕というわけか」
「そうなるわね」
バレンシアは気にした様子もなく陽気に笑ったが、ライグは沸き立つ憤りを抑えるのに苦労していた。若い女性の、それもバレンシアのような善良な女性の顔に傷をつけるなどという行為は、真面目で正義感の強いライグにはとても許せない。いいや、ライグ以外の人間であっても許せないだろう。
「是非とも一発お見舞いしてやりたいな。そのような輩は、帝国の腐敗の象徴であり……恥だ」
そう呟いたライグに、バレンシアは優しげな眼差しを向ける。
「私のことなら心配しないで、ライグ。確かに帝都には嫌な貴族ばかりいるし、彼は裁かれるべき人間だと思っているけど、この傷のことはそんなに気にしてないの。むしろ誇りに思ってるわ」
「誇り?」
バレンシアは頷いた。
「そうよ。この傷は、しつこくつきまとう彼に私が屈さなかった証明でもあるの。だから、私にとっては“誇り”なのよ」
凛然とそう言ったバレンシアを、ライグは真っ直ぐに見つめた。
──バレンシアの魅力は、容姿ばかりではない。
理不尽に屈さない強く気高い心が、彼女が多くの人を魅了してやまない輝きの理由なのだ。
「君は強いな」
ライグの静かな言葉に、バレンシアは鈴を転がすような声で笑った。
「ふふ、ありがとう。そのかわり女の可愛げが足りないんだけど」
そんなことはない、十分魅力的だと言おうとしてライグは口ごもった。まるで自分がバレンシアを口説いているようで気恥ずかしかったのだ。不自然に咳払いしたライグを笑いをこらえながらバレンシアが眺め、少しからかうように言う。
「私、この傷のことを聞いてくる人には好感が持てるの。自分をただの女としてではなく、一人の“人間”として見てくれていると思えるから」
そう言うと楽しげに続けた。
「さあ、そんな話をしているうちに魔法陣が完成したわ。今からこの中に入ってちょうだい。安心して、あなたをよぼよぼのおじいちゃんにしようってわけじゃないから」
「本当に上手くいくんですか?」
ガルアにそう尋ねたのはピトンだった。先ほどアルガンへの説明を終えたガルアは、胡散臭そうにピトンを見た。
「上手くいくと思えば上手くいくし、失敗すると思えば失敗するさ」
「そんな精神論が聞きたいわけではないんですが」
ピトンはさっきまでアルガンが使っていた椅子に腰かけると、机の上にだらしなく頬杖をつくガルアと向き合った。
工作部隊はガルアの指示をうけ、説明が終わったすぐあとにエルチェと共に仕事へ向かった。そのため今この会議室には、ピトンを含め武器の手入れなどをする数人の兵士しかいない。残りの者は作戦に備え休息でもとっているのだろう。
ピトンもベッドで休みたいのはやまやまだったが、やはりこれからのことを考えると呑気に寝てもいられないと思い至った。地下道の中でも特に強力な時空間隔離が使われている領域に入ったため、虫飼いに呼び出された蜘蛛に襲われる心配は(恐らく)ない。しかし、二時間ほど前の虫飼いたちの奇襲は作戦に支障をきたすものではない、とガルアは言ったが、どう考えても奇襲による不安要素は生じている。自分たちの情報が皇国軍に伝わるかもしれないし、それに伴い皇国軍が地下道に兵を送り込んでくるかもしれないからだ。
ピトンは腹の内が読めない不気味な司令官に向かって、やや低い声で話しかけた。
「ガルア司令官、貴方は二時間前の奇襲はさほど気にすることではないと言った。たとえ皇国側に情報が渡ろうと、ファンブリーナ近辺の地理に疎い彼らがこの複雑極まりない地下道から我々を追いつめることは不可能だと。確かにそれはよくわかりますよ」
だが、とピトンは唸るように続けた。
「もし、奴らが地下道の地図を手に入れていたら? ファンブリーナ制圧の際に、帝国軍から情報を根こそぎ奪いとっていたとしたら? そうでなくとも、帝国軍の中に裏切り者がいて皇国軍に通じているとすれば……」
ピトンは最後まで言わなかった。ファンブリーナ制圧に帝国側の裏切り者が関わっているかもしれないというのは、船での会議中に真っ先にガルアが警告したことだった。世界でも有数の貿易都市と謳われる巨大なファンブリーナを短時間で制圧するためには、内部に近辺の地理に詳しい共犯者がいると考えた方が自然だ。
そもそも、ファンブリーナは辺りを荒野に囲まれているため見晴らしはうんざりするくらいいい。そんな場所にたとえ大軍で攻め入ろうとしても、早い段階で対策を練られ大砲や魔導などで撃退されるのが落ちだ。そのため、帝国軍の中に手引きした者がいる可能性は高いと予測される。
ピトンの懸念を察したガルアが意味深な笑みを浮かべた。
「やれやれ、今更そんなことに気づいたのか。とっくにわかりきっているものと思っていたんだがな」
「もったいぶらないで説明してください」
ガルアはやけに間延びした声で答える。
「簡単に言うなら、地下道の地図は物質的には存在しないということだ」
ピトンはガルアをまじまじと眺めた。ガルアの言ったことがよく理解できない。
「じゃあ貴方の頭の中にある地図は何なんですか?」
参謀副長はそろそろ気づけと言いたげにピトンを見返した。やがてピトンはガルアの言わんとすることを理解し、思わず呻いていた。
「……信じられない。まさか、参謀部には貴方に匹敵する記憶力の持ち主ばかりいるんですか」
「そうとも言えるな。尤も、ここの地図を記憶しているのは参謀部の中でも一部の人間だけだが」
ガルアは気怠そうに適当に返事を返したが、ピトンは改めて参謀部というものの異質さに気づかされた。ガルアは地下道の地図は物質的には存在しないと言ったが、それは要するに“紙面”に記されているのではなく一部の人間の“記憶”として保管されているということだろう。もちろん参謀本部には記憶するときの元となる地下道の地図が保管されているのだろうが、それはあくまで門外不出。つまり、帝国の中で最も優れた頭脳を持つ集団である参謀部の人間の頭の中にこの地下道の地図は丸々収まっており、有事の際にはその記憶としての地図が重宝されるというわけだ。
「前にも言ったように、ここは戦略的に非常に重要な土地だ。その分敵に狙われやすくもなるし、情報管理にも十分に配慮しなければならない。君が指摘したように軍部から裏切り者が出る可能性は常にあるわけで、だからその対策としてこの地下道に関する情報は絶対に守らねばならないんだ。もちろんそれだけが全てとは言えないが、それが僕ら参謀部が並外れた知識、記憶力を要求される理由の一つでもある」
「帝国では女帝の次に強大な権力を握るのは参謀部の人間だと言いますからね……。なるほど、確かに納得できる。貴方に引けをとらない天才方がひしめいているんですから」
ガルアはピトンのいささか棘のある言い方に苦笑した。
「なんだ伍長、君は参謀部に恨みでもあるのか?」
「別に。さすがだなぁと感心したまでですよ」
素っ気なく答えたピトンにガルアが冷たい目線を向けた。少し口が過ぎたかもしれないとピトンは慌てて謝ろうとしたが、その前にガルアが鋭い口調で遮った。
「それはそうと、君は気づいたか?」
ピトンはいつになく真剣な眼差しを向けるガルアに違和感を抱き、他の者に聞こえないように小声で問い返した。
「何にですか?」
全く心当たりがないといった様子のピトンを無言で眺め回したあと、ガルアは興味を失ったかのようにそっぽを向いた。
「なんでもない」
質問しといて『なんでもない』はないだろ──。ピトンはなんとなく様子がおかしい上官に不信感を拭えず、もう一度尋ねようとした。
しかし口を開いた瞬間扉を勢いよく開ける音がし、それにつられるように背後からどよめきが起こった。
どうやらそれは会議室に入ってきた人物を見て生じたものらしかった。ピトンはたまたま扉を背にしていたので、何事かと煩わしげに振り返った。
そこに立っていたのはピトンとほぼ同じ身長の金髪の少年だった。農民臭い地味なチュニックを身にまとい、平均的なフレーザー一族よりもやや濃いめの顔つきをしている。また、短い髪がよく似合う実直そうな少年で、そこそこ良い体格をしていた。
こんな陰気な地下室にふいに少年が現れたこと自体驚きだが、ピトンはあることに気づき更に驚愕した。それは少年の金色の目の鋭さだった。あの銀髪の暗殺者とまではいかないが、年頃の少年らしからぬ厳しい眼差しに見据えられピトンは動揺を隠せなかった。そして何よりもピトンを狼狽させたのは、その謹厳な目つきに見覚えがあるという事実だった。
ピトンは喫驚を隠せずに上擦った声で訊いた。
「ライグなのか?」
少年は若者らしくない渋い表情を浮かべた。そして後から入ってきたバレンシアを振り返り、少し拗ねたように言う。
「おい、本当にこんな姿になる必要があったのか? 大柄で無愛想な俺じゃなくて、元から小柄なピトンの方が適役だったんじゃないのか?」
バレンシアは澄ました顔で答えた。
「大丈夫よ、ライグ。変に口が上手いピトンよりも、可愛げがないくらい真面目そうな貴方の方が警戒されない……と思うわ」




