第3章〈無知と無力〉
「ふざけるな!」
星々が煌めく漆黒の夜空に、若い男の怒声が吸い込まれていった。ティリンスは赤くなった頬から手を離し、鋭い目つきでバフラを睨む。
だが、彼の目には微かな動揺があった。目敏いバフラはそれを見逃さなかった。
「それは枢機卿に言ってんのか? 俺に言ってんのか? どちらにしろふざけてなんかないぜ。俺は本気だ」
バフラは挑発的な笑みを浮かべティリンスを見返す。ティリンスは焦りと驚きから荒くなった息を整え、絞り出すように答えた。
「枢機卿もあんたもふざけてる。僕は皇国の隷になんかならないし、アネリも殺させない。だって彼女に罪はないんだ。ファンブリーナを傷つけたのは彼女じゃないんだから」
「だが、奴は王族だ。王族ならば国の責任を負う義務があるんじゃねーのか?」
ティリンスはどことなく諦めたように語るバフラを訝しげに眺めた。その顔にはさきほどとは違う疲れたような表情が浮かんでいる。
「ファンブリーナを襲撃したのが枢機卿だろうとそうでなかろうと、そこには国の意志が反映されている。つまりそれは、皇国の象徴にして支配者である王族の意志だとも言えるんだ。わかるか? 奴は王族であるがゆえに、皇国の全ての権威と責任を負っているんだよ」
ティリンスはバフラの言葉に拳を握り締めた。生まれてから今までずっと身分とは無縁の暮らしをしてきたティリンスであったが、バフラの言っていることが理に叶っているのはわかった。そう、国を支配する王族というものがいかに重要なのか、彼はわかっているつもりだ。だから王族であるアネリは命を狙われても仕方ないし、利用されそうになるのも当然だ──たとえアネリ本人が戦争に関与しているとは言えなくても。
国の行動と責任全てが我が身にのしかかる。そんなアネリをティリンスは少しだけ哀れに思った。ひとたび戦争が始まりそれに伴う弊害が表れれば、国民の不満や怒りの矛先は国の頂点である王族に向かう。それが世の常なのだ。
しかし、ティリンスは納得できない。
「だからってアネリを殺していいってことにはならないだろ。彼女だって選んで皇女に生まれたわけじゃないはずだ」
彼は水色の目に強い光を宿し、そう言い放った。
ティリンスの何かを決意したかのような物言いに、バフラは深々と溜め息をついた。そしてしばらく黙って目線を落としていたが、ふいに不気味な笑い声を上げティリンスを見た。
「そこまで言うなら別に殺さなくてもいいさ。そもそも、俺の本当の目的は枢機卿じゃないしな」
「……?」
ティリンスはバフラの意味深な発言に困惑した表情を浮かべ、目の前に立つ小汚い男を凝視した。
本当の目的?
ファンブリーナを蹂躙する枢機卿以上に、何が重要であるというのか。
「──助けてッ!!」
ふいに背後から甲高い悲鳴が上がった。ティリンスはそれが誰のものであるかを瞬時に理解した。
「アネリ!?」
「いや、離してッ!!」
またしても恐怖に染まった響きのアネリの声が聞こえた。ティリンスは驚愕と焦燥に駆られ、バフラの忠告など忘れ一目散に小屋めがけて走り出す。
何が起こったのかはわからないが、アネリが危機に晒されているのは確かだ。彼は若者特有のがむしゃらさで小屋の扉を突き破り中に入ると、すぐさまあたりを見回した。
アネリは小屋の中央付近で怯えた表情を浮かべていた。
アネリの細い手首を掴んでいるのは、ぞっとするほど顔色の悪い細面の男。
いや、正確に言うならティリンスには男の顔は見えていなかった。男は目深にフードをかぶっているため、細く尖った顎しか確認できない。男が放つ冷たい存在感から、ティリンスは謎の侵入者が危険な存在だと確信した。
フードをかぶった男が舌打ちする。
「ニグミ族か」
ティリンスは男の声音に含まれる微かな侮蔑を見逃さなかった。アネリを怯えさせ自らの血族を蔑むその男に強い憎悪の情が湧き、自分でも驚くほど荒々しい声で彼は叫んだ。
「アネリを離せッ!!」
長年の屋根上暮らしで鍛えられた脚力を使い、ティリンスは勢いよく男に飛びかかる。たとえ街中で生活していようが、さすがはニグミ族といったところか、普通の人間ならば避けられないような速さだ。現に彼は皇国軍の追跡をかいくぐっているし、屋根から屋根へと猿のように飛び移っていく驚異的な身体能力も有している。
しかし、謎の男はさらに速かった。まるでのティリンスの行動を見切っていたかのように、アネリの背後に回り込みながら攻撃をひらりとかわし、皇女の手を捻り上げる。小屋の端にあるベッドを粉砕しながら着地したティリンスは、アネリが苦痛の呻き声を上げるのを聞き慌てて振り返った。
ティリンスはアネリの名を呼ぼうとしたが、それより前に叫んだ人物がいた。
「こんなところまで来やがって!」
バフラだった。彼は小屋の入り口で険しい表情で男を睨みつけながら、心底軽蔑したよう吐き捨てた。
「この暇人が……!」
「それはお互い様だ」
謎の男はつまらなそうに答えると、素早く懐から取り出した長い針のようなものを数本バフラに投げつけた。バフラは悪態をつきながら小屋の壁の後ろに隠れ、投擲をやり過ごした。
それを見たティリンスは、無防備になった男の背に飛びつくように突撃した。男は体をそらせ体当たりの威力を上手く流したが、横っ面にティリンスの頭突きを食らい小さく呻く。と、男が後方によろけた隙をつき、アネリが男の腕から逃れようともがいた。
ティリンスはそれに気づき、アネリの腕を引きながら彼女を抱き止めようと体を開いた。
アネリが潤んだ綺麗な藍色の目をティリンスに向ける。
──次の瞬間、ティリンスの後頭部を鋭い痛みが走り抜けた。
目の前で火花が散り、景色が揺らぐ。
「残念でした」
ふいに耳元で聞き慣れない女の声がした。ティリンスはそれが何者の声なのか考える間もなく床に崩れ落ち、激痛に悶絶した。
なんとか目だけで上を見上げたティリンスが目撃したのは、例の男と同じようにフードを被った小柄な人物。
一体、どこから──。
「彼女は預かるよ、ニグミ族のお兄さん」
女が嫌らしく笑いながらややハスキーな声でそう言うと、謎の二人組は呆然とするアネリの腕を引きティリンスにくるりと背を向けた。そして朦朧とするティリンスの目の前で、彼らは信じられないことをやってみせた。
バフラの小屋の入り口近くに立てかけてある姿見の中に、まるで吸い込まれるかのように音もなく入っていったのだ。
ティリンスは消えていく二人組と引っ張られるアネリを見ながら、必死で言うことを聞かない体を起こそうとした。しかし虚しいことに、どんなに力を入れても脚はがくがくと震えるだけだ。ティリンスは縋るような思いでアネリを見上げた。アネリの腕を掴んでいた男が姿見の中に溶け込むように消えたとき、アネリは泣きそうな顔で言った。
「心配しないで」
アネリはびっくりするほどあっけなく鏡の中に消えた。
──なんの痕跡も残さずに。
「……行っちまったなぁ」
ふいに頭上からバフラの声が降ってきた。彼は荒らされた自分の家をげんなりした顔で眺めたあと、足元で力無く横たわるティリンスに言った。
「お前って本当に役立たずだな」
ティリンスは低く唸ったが、何も答えなかった。その通りだと思ったのだ。幼気な少女一人取り戻せなかった自分が、心底憎らしく恥ずかしかった。
──なんなんだ、あの男たちは。
どうして、アネリを。
どうして、僕はこんなに無力なんだ──。
ティリンスの中を言葉にはできない恐怖と絶望と悔しさが渦巻いた。それは熱い水滴へと変わり、ティリンスの頬を濡らしていく。ティリンスは自分の不甲斐なさを呪いながら、声を殺して泣き始めた。
しばらく無言でいたバフラが、溜め息をついた。
「皇女もいなくなったし、この小屋も使えなくなったし、もうここにいる意味はねぇな。とりあえずあんたとはお別れだ、ティリンス。短い間だったが楽しかったぜ」
バフラは捨て台詞のようにそう呟くと、一人泣き続けるティリンスを残して小屋を出て行った。
残されたティリンスは、ただ自らの無力を噛み締めるしかなかった。




