第1話 享年84歳。死因ヒグマ
秋風廉次郎。御年八十四歳。
子供の頃から闘う技術を学ぶのが好きで、日本の武術を始め、海外のさまざまな武術まで、この人生で学べる限りは学びつくした。二十代後半にはどこかの国の戦争に義勇兵として参加したこともあった。戦場で感じる命の危機――生きるか死ぬか、そんな極限の状況が、人生において最も興奮した瞬間だった。
(またあの時のような興奮を、味わいたいものだ)
ふと、そんなことを思う中、廉次郎は自宅から少し離れた森の中でキャンプをしていた。
パチパチと薪が燃える音を聞きながら、熱いコーヒーを一口飲んだその時、何かの視線を感じてはっと立ち上がり、その視線の先を見据えた。
視線が、合う。
熊だ。ヒグマだ。三メートルは優に超える巨体。
この辺りは熊の目撃情報などなかったはずだが……。逃げるにしても、おそらくすぐに追いつかれる。ここは戦うしかない。ナイフはバッグの中だ。
心臓の鼓動が急速に早くなる。戦争に参加した時に感じた、あの死の感覚。体の中から湧き上がる高揚感。廉次郎は、自然と笑みを浮かべていた。
互いににらみ合ったまま硬直していたが、ヒグマは痺れを切らしたのか、こちらに向かって猛然と走り寄ってくる。
廉次郎はそれを確認した瞬間、バッグの中からナイフを取り出し、瞬時に構えて顔を上げた。
ヒグマはすでに目の前まで迫っており、口を大きく開けて飛びかかってくる。
(ここは攻めるしかない)
ヒグマに向かって一歩前に踏み込み、ナイフをその右目に深々と突き立てた。
痛みで叫ぶような雄たけびを上げ、廉次郎の体は左腕で簡単に薙ぎ払われる。
廉次郎はすぐに起き上がり、ヒグマの状態を確認した。
すぐに追撃を仕掛けようとする様子はなく、右目に深く刺さったナイフを取り除こうともがいている。
それを確認したのち、廉次郎はすぐに後ろに振り向き、距離を置くために走り出した。途中で、少しでも武器になりそうな太い木の棒を拾い、折って先端を鋭く尖らせる。
「さっきので右腕がやられたか……」
右の肩から流れ出る鮮血。さっきの薙ぎ払いで爪が深く食い込んだのだろう。それと同時に骨も折れている。それでも動かせないことはないが、まともに使い物にはならないだろう。
ヒグマがいた方向に振り返り、奴の状況を再確認する。
ヒグマはすでにナイフを取り終えており、こちらに向かって再び迫ってきていた。
「さすがに逃げないか」
あっという間に距離を詰められる。口を大きく開けた瞬間、廉次郎は右手に持った即席で尖らせた木の棒ごと、ヒグマの口の中に突っ込んだ。
「使い物にならない右腕ごと、くれてやる!」
前腕まで深く突っ込まれた右腕と、ヒグマの突進する勢いも相まって、持っていた木の棒の先端が喉の奥深くに突き刺さる。
次の瞬間、意識が飛んだ。すぐに意識が回復するが、頭がくらくらし視界が定まらない。右腕も前腕からなくなっている。
滴り落ちる大量の血。
おそらく顔の右側面を強打されたのだろう。
廉次郎はヒグマの様子を確認する間もなく、キャンプをしていた場所にふらふらと戻った。
(あそこにナイフが落ちているはずだ)
何とかキャンプ地に戻ってきた廉次郎は、ヒグマの血がべっとりと付着したナイフを拾い上げ、再びヒグマの位置を確認した。
右目からの出血。口からも血を大量に垂らしながら、のしのしとこちらに向かってきていた。
流した血が多いのか、奴も相当なダメージを負っているように見える。それでも、手傷を負わせた男を殺すことを諦めていないのか、鋭い目で睨みつけてくる。
あの戦場で感じたものとは比べ物にならないくらいに、明確で濃密な死の気配。
体のダメージ的にも、ここで自分の人生が終わると確実にわかる。
「俺はタダでは死なん。確実にお前を殺して死んでやる……!」
八十四年生きてきた人生で、最も胸が躍っていた。戦って死ねる。自分の人生の最後に、これ以上相応しい終わり方はない。
そこからどれだけ時間が経ったか、分からない。
目の前には、無数の刺し傷だらけになったヒグマが、血を流して倒れていた。
それを確認した瞬間、廉次郎の体は緊張の糸が途切れたのか、その場に倒れこんだ。
正直、自分の人生には悔いはない。ただ、家族のことが少し気になる。
(嫁は十年前に先立たれているが、娘や息子、孫たちに会えなくなるのは嫌だなぁ……)
そんなことを考えながら、廉次郎の意識はゆっくりと、静かに消えていった。




