第2話「神主の孫娘は、一人で祝詞を練習していた」
宿の窓から、社殿の明かりが見えた。
23時をまわっていた。村の民宿——というより空き家を改装した一室——の窓ガラスに額を近づけると、暗い境内の奥に、灯籠の橙色とは別の、白っぽい光が揺れている。懐中電灯か、スマートフォンか。
縁は上着を羽織った。
境内の石畳を進むと、声が聞こえた。
低く、単調で、それでいて緊張を帯びた声だった。
「——掛まくも畏き、比奈木の大神の御前に……」
拝殿の板戸が一枚だけ開いている。その隙間から光が漏れていた。縁はそっと近づき、格子越しに中を覗いた。
十九歳とはとても見えない背中だった。正座して、小さな懐中電灯を傍らに置き、手書きのノートを広げている。声は揺れず、ただ懸命だった。
縁は板戸を叩いた。
「——っ」
振り返った顔は幼かった。目が大きく、頬に赤みが差している。髪を後ろで束ね、白い作業着のような服を着ていた。
「すみません、驚かせて。宮乃木といいます。ライターで」
少女はしばらく縁を見た。それから、ノートをそっと閉じた。
「……津島咲です」
拝殿の隅に並んで腰かけた。冷たい板の間。境内の闇を前に、二人の影が懐中電灯で長く伸びる。
「百年祭、一人で務めるつもりなんですか」
「やらなければいけないので」
答えが速かった。迷いがないというより、もう迷い終わった後の声だった。
「資格がないと聞きましたが」
「祖父に習っていました。途中までしか教わっていませんが」
途中まで、という言葉が宙に浮いた。縁は次の言葉を選んだ。
「守さんの死について——警察は事故と言っています」
咲は膝に視線を落とした。
「お祖父さんのことが心配ですか」と縁は続ける。
「祖父は、間違ったことをしたから死んだんだと思います」
縁の言葉が止まった。
咲は顔を上げず、静かに言う。「正確には、間違ったことを止めなかった。ずっと前から。それが——」
そこで言葉を切り、もう続けなかった。
「間違ったこと、というのは」
「わかりません」咲は首を横に振った。
「でも、祖父は怖がっていました。何かを。百年祭が近づくにつれて、ずっと」
拝殿の外で、風が唸った。竹林が鳴る。
縁は懐中電灯の光の中で咲の横顔を見た。泣いていない。泣くことをどこかで封じてしまったような顔だった。
翌朝、縁は本殿の周囲を一人で歩いた。
祭神の扁額には「大山積命」とある。愛媛の山の神。標準的な祭神だった。
だが縁が気になったのは扁額ではなく、本殿の板壁に打ちつけられた棟札だった。
棟札は社殿の造営や修繕の記録を刻んだ木の板で、古い神社にはたいてい複数枚が残る。比奈木神社のそれは五枚。縁は一枚ずつ、年代を確認した。
最古のものは百年以上前のものだった。
墨書きが薄れている。縁はスマートフォンのライトを斜めから当て、表面を舐めるように確認した。
「……」
一か所、黒く塗りつぶされている。上から墨を塗ったのだろう。ただ、百年分の風雨と乾燥でその塗りつぶしが浮き上がり、下の字がうっすらと透けて見えた。
「比奈木大……」
それ以下は読めなかった。
縁はその三文字をメモに書き写した。現在の祭神は大山積命。だがこの棟札が書かれた当時、ここに祀られていた神の名は別の何かだった——そして誰かが、その名前を意図的に消した。
境内の入口で、石段を上ってくる足音がした。
三倉巌だった。
「おはようございます」白い歯が見えた。
「早起きですね、宮乃木さん」
縁は棟札から離れた。
「おはようございます」
笑顔の男と朝の境内に二人。縁はスマートフォンをポケットに入れた。塗りつぶしの写真は、もう撮ってある。
深夜の神社で一人で祝詞を練習する十九歳。
このシーンを書いたとき、「怖い」と「美しい」の境界がわからなくなりました。
暗い拝殿、懐中電灯一つ、震えない声。
咲の「間違ったことを止めなかったから死んだ」という台詞は、この物語全体の鍵になります。




