表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
土地神殺し ―比奈木村の百年祭―  作者: 霧原 澪


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/24

第2話「神主の孫娘は、一人で祝詞を練習していた」

宿の窓から、社殿の明かりが見えた。


23時をまわっていた。村の民宿——というより空き家を改装した一室——の窓ガラスに額を近づけると、暗い境内の奥に、灯籠の橙色とは別の、白っぽい光が揺れている。懐中電灯か、スマートフォンか。

縁は上着を羽織った。


境内の石畳を進むと、声が聞こえた。

低く、単調で、それでいて緊張を帯びた声だった。


「——掛まくも畏き、比奈木の大神の御前に……」


拝殿の板戸が一枚だけ開いている。その隙間から光が漏れていた。縁はそっと近づき、格子越しに中を覗いた。

十九歳とはとても見えない背中だった。正座して、小さな懐中電灯を傍らに置き、手書きのノートを広げている。声は揺れず、ただ懸命だった。

縁は板戸を叩いた。


「——っ」


振り返った顔は幼かった。目が大きく、頬に赤みが差している。髪を後ろで束ね、白い作業着のような服を着ていた。


「すみません、驚かせて。宮乃木といいます。ライターで」


少女はしばらく縁を見た。それから、ノートをそっと閉じた。


「……津島咲です」


拝殿の隅に並んで腰かけた。冷たい板の間。境内の闇を前に、二人の影が懐中電灯で長く伸びる。


「百年祭、一人で務めるつもりなんですか」

「やらなければいけないので」


答えが速かった。迷いがないというより、もう迷い終わった後の声だった。


「資格がないと聞きましたが」

「祖父に習っていました。途中までしか教わっていませんが」


途中まで、という言葉が宙に浮いた。縁は次の言葉を選んだ。


「守さんの死について——警察は事故と言っています」


咲は膝に視線を落とした。


「お祖父さんのことが心配ですか」と縁は続ける。

「祖父は、間違ったことをしたから死んだんだと思います」


縁の言葉が止まった。

咲は顔を上げず、静かに言う。「正確には、間違ったことを止めなかった。ずっと前から。それが——」


そこで言葉を切り、もう続けなかった。


「間違ったこと、というのは」

「わかりません」咲は首を横に振った。

「でも、祖父は怖がっていました。何かを。百年祭が近づくにつれて、ずっと」


拝殿の外で、風が唸った。竹林が鳴る。

縁は懐中電灯の光の中で咲の横顔を見た。泣いていない。泣くことをどこかで封じてしまったような顔だった。


翌朝、縁は本殿の周囲を一人で歩いた。


祭神の扁額には「大山積命」とある。愛媛の山の神。標準的な祭神だった。

だが縁が気になったのは扁額ではなく、本殿の板壁に打ちつけられた棟札だった。

棟札は社殿の造営や修繕の記録を刻んだ木の板で、古い神社にはたいてい複数枚が残る。比奈木神社のそれは五枚。縁は一枚ずつ、年代を確認した。


最古のものは百年以上前のものだった。

墨書きが薄れている。縁はスマートフォンのライトを斜めから当て、表面を舐めるように確認した。


「……」


一か所、黒く塗りつぶされている。上から墨を塗ったのだろう。ただ、百年分の風雨と乾燥でその塗りつぶしが浮き上がり、下の字がうっすらと透けて見えた。


「比奈木大……」


それ以下は読めなかった。

縁はその三文字をメモに書き写した。現在の祭神は大山積命。だがこの棟札が書かれた当時、ここに祀られていた神の名は別の何かだった——そして誰かが、その名前を意図的に消した。


境内の入口で、石段を上ってくる足音がした。

三倉巌だった。


「おはようございます」白い歯が見えた。

「早起きですね、宮乃木さん」


縁は棟札から離れた。


「おはようございます」


笑顔の男と朝の境内に二人。縁はスマートフォンをポケットに入れた。塗りつぶしの写真は、もう撮ってある。

深夜の神社で一人で祝詞を練習する十九歳。

このシーンを書いたとき、「怖い」と「美しい」の境界がわからなくなりました。

暗い拝殿、懐中電灯一つ、震えない声。

咲の「間違ったことを止めなかったから死んだ」という台詞は、この物語全体の鍵になります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ