三日目夕方
まだ殴ってます
「ああ、メロス様。」
うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」
メロスは殴りながら尋ねた。
「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」
その若い石工は、メロスの後ろから叫んだ。
「もう、駄目でございます。むだでございます。殴るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。殴るより他は無い。
「やめて下さい。殴るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、殴るのだ。信じられているから殴るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に殴っているのだ。ついて来い!フィロストラトス。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと殴るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。殴るがいい。」
言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロスは殴った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて殴った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは暴君ディオニスを手放し、疾風の如く刑場に突入した。
間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」
と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれてかすれた声がかすかに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。
すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、刑吏!殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」
と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「メロス。」
セリヌンティウスは眼に涙を浮べて言った。
「メロス、私を殴れ。音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」
そしてひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。群衆の中からも、歓喜の声が聞えた。
暴君ディオニスの側近は、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「あなた方の望みは叶いました。あなた方は、ディオニス様の心に勝ったのです。信実とは、決して空虚な妄想ではない。どうか、私たち国民をも仲間に入れてくださいませんか。どうか、私たちの願いを聞き入れて、あなた方の仲間の一人にして頂きたい。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、メロス万歳。」
暴君ディオニスは、これを聞いて行方をくらました。
ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。よき友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。
セリヌンティウスは殴りませんでした。
いかがでしたか?




