最終話:雲の向こう側にある、最後の住所
#泣ける物語 #母をたずねて #10歳の孤独 #最後は温かい涙を #エドの物語
その朝、長野は深い霧に包まれていた。熱の名残で体はまだ怠かったけれど、心はもう決まっていた。僕はふらつく足取りで、あの錆びついたビスケットの缶を抱え、施設の裏庭にある焼却炉へと向かった。
一枚、また一枚と、紙飛行機を取り出す。そこには、年を追うごとに変化していった僕の筆跡があった。乱れた鉛筆の殴り書きから、今では綺麗に書けるようになった漢字まで。
「さようなら、お母さん」僕は静かに呟いた。
それらを火の中へと投げ入れる。紙が燃え、軽やかな黒い灰に変わり、冷たい春の風に乗って空高くへと舞い上がっていくのを見届けた。僕は微かに微笑んだ。地上に住所がないのなら、この煙が空の上にある住所まで届けてくれる。きっと、そうなんだ。
その時、ふと思い出した。学校の机の引き出しに、一通だけ手紙を忘れてきたことに。僕は何も考えず、施設の門を飛び出した。ほんの数ブロック先にある学校へ向かって。
頭の中は空っぽだった。ただ、今日中にすべての手紙を燃やし尽くしてしまいたかった。
――キィィィッ!!
静かな朝を切り裂くような、耳を突き刺すタイヤの摩擦音。痛みはそれほど感じなかった。ただ、鈍い衝撃と共に僕の小さな体は宙に浮き、そして冷たいアスファルトの上へと叩きつけられた。
世界が赤く染まっていく。自分の血だまりの上に、散り際を迎えた桜の花びらが落ちるのが見えた。
「エド!! エド!!」
遠くの方で、パニックに陥った高橋さんの声がかすかに聞こえた。
やがて、すべてが揺れ始めた。体が持ち上げられ、担架に乗せられるのを感じる。救急車のサイレンが鳴り響き、静まり返った長野の道を切り裂いていく。揺れる狭い空間の中で、僕の呼吸はひどく重くなった。まるで大きな岩が胸の上にのしかかっているみたいだ。
「エド、頑張るんだ! 目を開けて!」
隣にいる救急隊員が叫んでいる。その顔は、もう霞んでよく見えなかった。
息を吸おうとしたけれど、漏れ出していくのはかすかな余力だけだった。少しずつ、サイレンの音が遠ざかっていく。僕を苦しめていたあの冷たさが不意に消え、代わりに、とても懐かしい温もりが僕を包んだ。
救急車の中の明かりが遠のき、突然、僕はあの夢の部屋に戻っていた。
一人の女性がそこに立っていた。今度は、もう眩しくなんてなかった。彼女はとても綺麗で、長い黒髪と慈愛に満ちた瞳を持っていた。僕がいつも想像していた通りの、花柄の部屋着を着ていた。
彼女は何も言わず、ただ両腕を大きく広げた。
(ああ……やっとだ)僕は心の中で思った。
もう、安物の固形石鹸の匂いを嗅ぐ必要なんてない。彼女の腕の中に飛び込んだとき、その首筋から直接、あの香りがしたから。日本のどんな桜よりも芳しい香り。子供を迎えに来た、母親の香り。
「お母さん……手紙、持ってきたよ」
僕は彼女の肩に頭を預けながら、小さく囁いた。
猛スピードで走る救急車の中で、心電図のモニターが長く平坦な音を響かせた。
ピー――――――――
毛布の端を握っていたエドの小さな手から、力が抜け、ゆっくりと垂れ下がった。冷たくなり始めた指先から、くしゃくしゃになった一通の封筒が落ちる。
施設の焼却炉から立ち上っていた煙は、いつの間にか雲の間へと消えていった。もう綴る必要のなくなった、すべての寂しさを連れて。
エドはもう、門の前で待つことはない。
彼は、ようやく自分の住所を見つけたのだから。
(完)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
エドが最後に見た光景は、彼がずっと夢見ていた唯一の救いだったのかもしれません。
届かなかった手紙、消えてしまった香りが、今はどこか遠い空の上で彼を包み込んでいることを願って止みません。
エドの物語が、少しでも皆様の心に残れば幸いです。




