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五、ヒシ①

あれからヒシは暇を見つけては浜にやってきた。あの男とまた話すためだ。


男を探し始めてひと月ほどたったある日、私はついに男を見つけた。遠くにいるので顔はよく見えないがあの日と同じ着物を着ていたので彼だとわかった。背中に何か大きな荷物を背負っている。食べ物でも運んでいるのだろうか。今日は仲間はいるのだろうか、家族と暮らしているのだろうか、そんなことを考えながら後を追った。しばらくして、男は浜近くの村のほうへと入っていき、そこで見失った。やはり私の足では追いつけない。それに、このまま追って自分一人で村の中に入っていくのは不安だ。何しろ人がたくさんいる。捕まるかもしれない。しかし、おそらくあの漁村の住人だろうという事はわかった。この近くで粘り強く見張っていれば必ずまた浜に現れる時が来る。その時を狙えばいい。


今日のところはあきらめようかと歩く向きを変えながら、しかし…、と考える。乙姫様は話をしてみろと言っていた。そもそも、話すと言っても一体何を話すというのか?命の尊さを語ったところであの男がそれを理解してくれるとも思えない。まさか乙姫様はあの男を殺してしまうのだろうか。確かに私は子供の命を取られた。もしもその私を助けるとすれば、私があの男を殺すように助けてくれるということなのだろうか?私はあの男が憎い。でも、だから殺したいかというとそれは違うように思う。憎しみの最高潮が相手への殺意であるかというと、自分はそうではないように思った。相手を殺すという事は、理解したり許したりする可能性をすべて否定してしまうことになる。それは嫌だ。何か種類の違う、もっと深刻な後悔が残るような気がする。


殺す、その一言が私の心に重くのしかかる。日頃海藻を食べる私も、たまに魚を食べることがある。魚という生き物を殺してそれを栄養にして生きている。でも、それは私自身が生きるためだ。むやみに殺しはしないし、人間がやるような遊びや楽しみとは違う。もし復讐のために人間を殺したことが王様に知られたら、私は何か大きな罰を受けるだろう。どこか遠くの地に追いやられるかもしれない。姫様もそれは分かっているはずだ。卵を盗られ、その上お城にもいられなくなれば、私はもう本当に何もかも失くしてしまう。あの優しい姫様がわざわざ私を追い詰めるような事をするだろうか?あの男に何かちょっとお仕置きをして、それでもう二度と卵をごっそり持っていくような真似をしないと約束させる。その程度の事ではないだろうか?


でも、とまた気持ちが揺れる。怒りの矛先の相手を殺さずに生かしておく事は、本当にその先の日々を平穏に生きる事と繋がっているのだろうか。怒りや憎しみは時間がたてば跡形もなく消えるのだろうか。


そんなことはないのだろうな、と思う。怒りや憎しみを支えているのは記憶だ。記憶が残れば怒りも残る。形が変わったり小さくなったりしても、結局憎しみの欠片は残るのだから消えはしないのだ。ならばこの気持ちはどこに持っていけばいいのだ。だって私は…、


(子供を殺されたのだ)


生きていればいい事も悪い事もある。楽しかった事と悲しかった事の数は、平凡な私はきっと似たようなものだろう。しかし、辛かった事の記憶のほうが精神に与える影響はずっと大きいような気がする。それは、空の上がどこまでも伸びて行くのに、地面の下がどんどん固くなっていくのに似ている。いい事はふわりと舞い上がって空の上へと飛んで行って、やがて見えなくなってしまう。それに対して、悲しい事は下に沈んで土の下の潜っていくが、案外と手が届くくらい近いところで固い地盤にあたり、いつまでもそこにいるのだ。そんなすぐそばにいつまでもいられては、記憶から消えて行ってくれるわけがない。結局は年を取るほどつらい記憶の比率が増えていくなら、それを背負えるように自分を変えていくことが齢を重ねていく意味という事なのか。


嫌なシステムだな、とヒシは思った。


つらつらと考えながら、私は帰りを急いだ。浜に長居をしすぎた。早く帰ってみなに謝らなければ。海に入って泳ぎ始めてしまえば、1時間もせずに城につく。私は泳ぎに集中するために、それ以上あれこれ考えるのをやめてしまった。


今私は乙姫様の暮らす竜宮城で働いている。以前怪我をしていたところを保護されて、そのままお城で手伝いをしながら暮らしているのだ。私の仕事はこの海一帯で傷ついた生き物を見つけて城まで連れて行き、けがの治療や看病をしてくれる部屋まで案内することだ。大きな生き物は自分の力だけで運ぶのが難しいので、助けを呼びに城に戻ることもよくある。海の生き物はそれぞれ違う言葉で話すが、言っていることはたいがい理解できたので、特に不自由はしなかった。


水の中をしばらく泳ぐと竜宮城の水面下に広がる本体部分が向こうにぼんやりと見えてきた。


自分は運がいいと思う。竜宮城で暮らしている自分はおそらく長生き出来るだろう。でも、守られて、身の安全が保障されている生き物がこの世にどれほどいるだろうか。大けがをして城に運び込まれても、結局息絶える者も多い。生き続けるというのは、本人の生きたいという意志だけではどうにもならない別の力が介在している。


城で命の最期を迎える者は穏やかに逝っていくものが多い。私はそれは最後に誰かに見守られているからだと考えている。見守られて死ぬというのは、案外と大切なことなのではないかと思う。たとえ、治療所で出会った行きずりであっても、死なないで欲しいと懸命に手を尽くしてくれる中で死ぬのは、誰にも見守られず死んでいくのと、同じわけがない。


生と死について考えているといつも奪われた卵のことに考えが行き着く。忘れてしまうことが出来ればきっと気持ちは楽になるのだろうけれど、忘れてはいけないように思う。私が忘れてしまえば、もはや誰も覚えていないことになってしまう。卵を奪ったあの男も卵のことなどとうに忘れているだろうから。


私は日頃城の最上階にある海上の正門からは出入りしない。竜宮城は海の底に出来た山の頂上が、海上に突き出て作り出した小島の内部にある。島の内部を住みやすいように掘って作られたのがこの海底城だ。竜宮城の正面入り口はもっぱら乙姫様専用で、他の者たちはそのそばにある裏口から出入りしている。裏口と言っても守衛もおり、十分な幅を持つ。色々な物資を運び込む船もこの脇にある桟橋に接岸されるので、賑わいで言えばこちらのほうがよほど活気がある。竜宮城では多くの人間が乙姫様に仕えていたが、私のような動物も何匹も働いていた。猫や鳥のように鳴き声を上げることが出来る動物は乙姫様の力ですぐに人間と話すことが出来るが、ヒシのように鳴き声を持たない生き物が乙姫様の助けを得て話せるようになることもあった。


私は海から上がるとペタペタと門に近付いて守衛にあいさつする。今までも言葉を発しなくても意思の疎通に問題なかったが、今のヒシは違った。


「遅くなってすみません」


守衛は穏やかな人間の老人で少し表情を和らげると


「おかえり」とだけ言って門を開けてくれた。


門から入るとすぐに地下に降りていく幅の広い階段がある。ヒシはそれを器用に降りていき、真っすぐ治療室に向かった。数日前に運び込まれた渡り鳥が少し元気になって食事をとるようになったらしい。少しは会話も出来るようになっているだろう。運び込まれた動物からけがをした時の状況を聞くのもヒシの大切な役割の一つだ。ここには人間の怪我人は来ない。専ら動物だ。城の者に言わせると、乙姫様は人間がお嫌いだからだと言っていたが、ヒシにはその意見には何だか違和感があった。


(人も助ければいいのに…)


そう思うがそんな事を言えば城を追い出されそうで怖くて言えなかった。誰にでも優しい人などいない。それはあの乙姫様とて例外ではないと私は感じていた。


病室に入ると意識の戻った若い渡り鳥が医師と話をしているところだった。

医師のルークは人間で、まだ若いが勤勉で礼儀正しい。皆の模範となるような存在だが、彼自身は自分に自信がないのか、いつも少し遠慮気味に話す。


「やあ、ヒシ、お帰り。今日はもう話せる状態まで回復しているよ。少し話してみるかい?彼はミゲル。南の方から北へ向かっての移動中だったらしい。ミゲル、こちらはヒシ。えっと、君に少し聞きたいことがあるそうだ」


ミゲルと言われた渡り鳥は、まだ少し疲れが残った表情をしているがここに運び込まれた時のようなぐったりした様子ではなく、しっかりしたまなざしをヒシの方に向けた。


「こんにちは、ミゲル。私はヒシ。怪我が治るまで身の回りのお世話をさせていただくわ。今日は怪我をした時の様子を少し話してもらえるかしら?あ、でも急ぐ話ではないのよ。もう少し元気になって、落ち着いてからでもいいわ」


「いや、大丈夫です、話せます。まだ痛みはありますけど、僕も色々聞きたいことがあったので丁度良かったです」


ここまで聞くと医師のルークはじゃあお大事にと言って部屋を出て行った。ヒシはルークに軽く会釈をするとミゲルに向き直って話の続きを促した。ミゲルはゆっくりと思い出しながら話し始める。


「あの日は12羽で飛んでいました。まだ昼頃でしたけど、出発も早かったのでそろそろ休もうかと話していたところで良さそうな森が見つかりました。僕たちは旋回して様子を見ながら高度を下げていったんです。すると突然遠くの方で何かが光り、地面が破裂するような大きな音がしました。何だろうと思っていると、次の瞬間経験したことのないような爆風で僕たちはみな飛ばされてしまいました。僕の記憶はそこまでで、次に目を覚ました時はここでした」


箱舟か、とヒシは思った。これで何匹目の被害者だろうか。怪我をした動物はもちろんのこと、命を落とした者も多い。比較的静かなこの国では近年ない大事故だ。箱舟は一体何のためにあるのかとのんきに思っていたが、なんのことはない、生き物を殺すための戦争の機械だったのだ。人が殺しあう戦争に何も関係がない動物が巻き込まれた。人間が時々殺しあい、それに動物たちが巻き込まれる事は知っていたが、こんな風に被害を目の当たりにするのは初めてだ。事態を知った時の乙姫様は激怒していたという。


「じゃあ、あの爆発の様子を細かく見ることは出来なかったのね」


「ええ…。ところで、僕の仲間もここにいるんでしょうか?」


ふうと一息置いて答える。


「あなただけよ。あなたは運がよかったの。海に落ちたと言っても浅い波打ち際だったから発見されたのよ。もっと沖の方まで飛ばされていたら、見つけられることもなかったわ」


「じゃあ…」


「お気の毒だけど」

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