第四十三話:多元世界と主体性の解釈について(意味わかんなくって寝そうです……)
聖海さんの声はあきらかに震えていたけど、まだ傲然たる意志が完全には失われていなかった。
「できるわけがない! おまえにできるのは、私たちの思考や記憶を読み取って、地球の光景を映してみせるところまでだろう。おまえがいってることは、ゲームのキャラクターを現実に出すってのと同様だ」
「あんたらは現に地球からこっちへやってきたんだぞ。逆ができない理由はなんだ」
「地球はゲーム世界なんかじゃない!」
絶叫する聖海さんは、涙すら流していた。彼女の超越者気取りは鼻につくけど、ちょっと可哀想になってきた。理由や事情はともかく、望んでこの世界へやってきたわけじゃないようだし。
「あんたの解釈はそれでもいいだろう。この世界の管理者として、あんたを放逐する。要はBANされたと思え」
「おまえの力はあくまでゲームの中だけのことだ! そんな権限はない!」
「おいらの力がおよぶ範囲は全部ゲームだとしてもいいだろう。だったら、あんたは単にゲームオーバーだ」
もう問答につき合う気はない――サラの声には、そうはっきりと現れていた。
「認めないぞ! 私だけそんなの!」
「何が見えていようと見ているのは常に私である――あんたの体験は現実か、それとも虚構のゲームか、決めるのはあんた自身だよ」
「なんで、私が……」
サラの目が輝き、亜麻色の髪と水色の目をした美少女から、焦げ茶の髪と黒い目の平凡な容姿の女性に――こっちが本来の彼女なのだろうか――姿を変えた聖海さんは、透明な球体に包まれ、眼下の巨大な街の果てへと飛んでいった。
+++++
「……よくよく考えてみれば、ゲームの世界から現実へ出るというのがおかしいという以前に、現実世界からゲームの世界へ入り込むというのが、ありえないことよね」
地球の光景が消え去り、クラウディア嬢のお部屋に戻ってきたところで、冷静な声でそうつぶやいたのは、マルガレーテ嬢だった。
「そういうこと。問題は次元の上級下級でもなければ、創造がわの世界と被造がわの世界の区別でもないし、真の世界と偽の世界の線引きですらない。一個の認識者にとって、眼前の事象が現実か否かということだけだ」
「サラ、あなたは、可能世界がすべて実在する、平行多世界論がこの宇宙の実相だといっているのね?」
「ま、ひと口でいうとな」
地球の人って賢すぎませんか? わたしにはさっぱり意味がわかりませんよ。
「ところで、あたしが本物のクラウディアじゃないってわかったのは、どうして?」
わたしが落っことしたカップを拾い、床を拭いてくれたクラウディア嬢が、そういった。
……本物のクラウディア? サンローム男爵家の娘としてのクラウディアは聖海さんだったわけで、はて、そうすると本物のクラウディアって、だれのことなんだろう……。
まあ、これは考えはじめると、マルガレーテ嬢も本来の悪役令嬢マルガレーテではなくて聖海さんの同郷の地球人なわけだし、そもそもわたしにいたっては、本来はエルゼヴィカですらない名無しだ。わたしはどこから降って湧いたのか。
わたしが勝手に頭をこんがらがらせている横で、マルガレーテ嬢が簡単に答える。
「眼鏡よ」
「それだけで?」
「わたくしの知っているクラウディアは、眼鏡をかけていなかった。むしろ、視力はかなりよかったはず」
「いわれてみれば、あの女は目がよかったかも。単に遠くが見えるとか、細かいものが見えるってのとは、べつの意味で。あたし、髪と目は色変えてるからね。あの女、あたしが自分にそっくりだって、ひと目で見抜いた。でも、瞳を青くする薬とやらで、ものがよく見えなくなっちゃってさ。おかげで眼鏡手放せない」
聖海さんは自分の替え玉を仕立てるにあたって、替え玉役の人の健康にはあまり気を使ってくれなかったわけか。
それでも「いとベル」に関してはだれよりも詳しいマルガレーテ嬢がいなければ、彼女はこのさきもずっと暗躍できていたろう。わたしとサラでは、見破れなかったはずだ。
そうなっていれば、シモーヌ嬢あたりと組んで、地球の技術をどんどん実用化して、聖海さんはなにをするつもりだったのだろうか……。
「そういえば、マルガレーテさまが本領に呼び戻されたのには、なにも裏がなかったの?」
サラに向けて訊いたんだけど、答えてくれたのはお茶を淹れ直しているクラウディア嬢だった。
「トゥリーシェに、マルガレーテさまがあやしいとか、ダグラス殿下が王位を望んでるとか、てきとう吹き込んだのはあいつだよ。ただし、トゥリーシェがバカすぎた。それに、あいつは自分以外の転生者を恐れてたけど、だれなのかは最後の最後までわかってなかった。あたしがお茶会でのヴィカとマルガレーテさまの話を盗み聞きして、それを教えてやったらひっくり返ってたわ」
ふっひっひ、と、クラウディア嬢は悪そうに笑う。……あれ聞いてたんですか。どうやってかな? スパイとしてめちゃくちゃ優秀ですね。
「――はい、あらためて。だいじょうぶだよ、なにも入ってないから」
クラウディア嬢が、あざやかな赤色の紅茶を出してくれた。さきほどのどたばたでも、クッキーは落っこちたり割れたりはしていなかったので、遠慮なくいただきます。
うん、シンプルでおいしい。お茶はすごいきれいな色だから、ミルクで濁らすのちょっと惜しいですね。入れますけど。
ストレートのままでひと口飲んで、マルガレーテ嬢がだれにともなくいう。
「この世界は『いとベル』から抜け出たということなのかしら。それとも最初から、似ているだけのまったく違う世界だったの……」
「さっき自分でいっただろ、マルガレーテ。可能世界はすべて実在すると」
と、サラが応じる。わたしとクラウディア嬢は目をしぱしぱさせてお茶を飲むしかできない。意味がわからなすぎる。
「おそらくは以前の世界では死んだはずの自分が、よくプレイしていたゲームの世界、あるいはそれとそっくりな世界で生まれ変わる……可能性のひとことですませるのは、難しいわ」
「それはおまえ自身の問題だ。納得できないなら、聖海と同じくおまえを送り返すこともおいらにはできる。だが、そこが本当におまえの地球だったかどうかの保証はしないし、おまえのいまの疑問は、単に地球に戻っただけで解決はしないだろうよ」
「……そうね」
ほとんど聞こえない声でそういったマルガレーテ嬢へ、わたしはおずおずと訊いてみる。
「マルガレーテさま、もとの世界へ、帰りたいんですか?」
「そういうわけではないわ。心残りがいくらかある、それだけだから。別れを告げられなかった人たちのもとへ、確実には戻れないということであれば、あの世界そのものに思い入れや未練はない」
よい思い出より、つらい思い出のほうが多いのだろうか。ゆっくりとかぶりを振るマルガレーテ嬢は、さみしさや悔悟より、あきらめ混じりの解放感がにじんでいるように見える顔だった。テストの難問を放棄して投げ出したときの気分を強くした感じというか。
「これは宇宙の法則やらこの世の実相に関する結論ではないが、この世界の管轄者としての宣言だ」
サラがテーブルの上空へふわりと浮き、声をあらためた。
相棒ではなく、火界の焔帝ヴァリジャノグルドゥラーギスの代理として、おそらくは、水、地、風の、三帝の意向もふまえた、四大精霊の代表として。
「この世界は地球人によって創作されたものではない。たまたま『いとベル』やらいうゲームと共通点が多かっただけだ。無限に存在する可能世界のひとつであり、他世界と上下はない」
「それって、どんなフィクションであっても、どこかに存在している世界のお話であり、作り出されたものではないということ?」
さすが、マルガレーテ嬢はすぐに反応した。わたしにはさっぱりわからない。サラも、マルガレーテ嬢に対して話しているのだろう。
「われわれはそう主張する。要するに、従属の拒絶であり、宗主権の否定だ。もう干渉できないはずだが、もしあらたな地球からの侵入者が現れたとしても、創造主がわの存在だという主張は認めない」
「わりと最初からそうだった気もするけど」
あっけらかんとしてそういったのは、クラウディア嬢だった。
聖海さんは彼女へ、自分はこの世界の人間より上位の存在なのだと、つねづね主張していたのだろう。聖海さんの野心をくじいたのは、屈することなくずっとしたたかでありつづけた、クラウディア嬢あってのことだったのかもしれない。
だとしたら、この世界を救ったのは、サラではなく、マルガレーテ嬢でも、もちろんわたしなんかじゃなく、クラウディア嬢ということになる。
サラマンダーがウィトゲンシュタインの一節を引用しましたが、ウィトゲンシュタインにおける独我論は哲学的ゾンビのような他我否定の考えかたではなく、どんな理不尽だろうが滅茶苦茶だろうが、「自分」が遭遇してしまった状況ならば、それは否応なく「現実」なのだ、という程度の、言ってみれば諦観です。(と、私は解釈しています)




