とある女学生の咄
灰色の石畳。
メイアリアにとって、初めて見た色は其処にとめどなく流れ続ける真っ赤な液体だった。
確かあれは自宅の目の前だったような記憶があり、身体を少しでも動かすと全身を裂けるような痛みが駆け抜けた。
彼女の人生で一番古い記憶は、彼女の父が彼女の母を殺す光景であった。
彼女の父は酒飲みで暴力を振るう人間で、母はそんな父に逆らえず言いなりになり続けるだけだった。
メイアリア自身も父に逆らえば痛い事をされることを知っていた為に何も出来ずに恐怖に怯えるのみだった。
それが変わったのはある晩のこと。
父が酔った勢いで突き飛ばした母が、石畳に頭を打ち死んだのだ。
驚いたメイアリアは母に駆け寄ったが既に母は死に絶えており、泥酔していた父は母が死んでいることに気付いておらず、メイアリアを思い切り蹴り飛ばした。
少し離れた所で落下の痛みに身体を軋ませながら母を見つめるメイアリア。
その母の上に馬乗りになり、首を絞める父。
その光景にメイアリアは、「この人は私の父親ではない」と思い込むことで痛む身体を動かす事が出来た。
側にあった母のお気に入りの簪を手に取り、振り返る直前にその男の首へ思い切り。
彼女の人生で初めて殺した人間は、彼女の父であった。
その後、民の目を避けるように姿を潜めていたメイアリアは、自身が生き長らえる事が出来ると思っていなかった。
警察の手から逃げる為に潜り込んだ森の中で、偶然国王に出会うまでは。
国王は自身直属の犯罪集団を編成する為に、その素質がある民を見て回る最中であった。
そして、その民の中でも一際メイアリアに固執をしており、国内の何処かに潜んでいるであろう彼女を探し続けていたのだ。
森内でメイアリアに出会った国王は大層喜んで彼女を城へ招待し、その身を清潔にさせ、綺麗な部屋を与えて言ったのだ。
「君は必ず英雄になる。国の為に存在する少女なんだ」
国王のその言葉を信じるのにそう時間はかからなかった。
そして彼女は王族の元、何年も飼い慣らされ、従順な殺戮集団のリーダーに君臨する事になった。
何人もの人間を殺した事で染まったと言われている髪と瞳は鮮血の様な綺麗な赤だった。
彼女は何よりも赤を好み、また誰よりも赤が嫌いだった。
赤い帽子がついたジャケットを考案したのも彼女であり、王族の一部や同じチームのメンバーには彼女には服を作る才能があると褒められるほどであった。
しかし、彼女はその才能を活かさぬままに彼女の世界は終わることとなる。
彼女は元から、この人生は短命なものだと分かっていたのだ。
彼女はずっと前から思っていた。
この国はもう長くは持たない。死と恐怖で抑えつけていた民はいつの日か爆薬のように弾け、その炎で王族は倒れ、自分達の存在が明るみに出る頃には確実に処刑されるものだと。
血で血は贖えないと、母の敵を殺した彼女自身が分かっていた。
それならば、誰かが誰かの敵にならないように、誰かがこれ以上泣いてしまわないように、誰もが苦しまずにいられるように。
誰かが誰かを憎まず、嫌いにならず、笑っていられるように。
それが彼女が心から願う事であり、また最初に国王が言った「国の為の自分」に課せられた命であると思っていた。
それは、とても深く暗く、月が明るく照っていた満月の日の事だった。
彼女は自身の愛用しているナイフを幾つか腰に刺し、この日の為に自分で縫っていた異国ではセーラー服と呼ばれる服に袖を通し、いつもの赤い服を着て部屋をゆっくりと出た。
向かうは自身の愛してやまない仲間達の部屋へ。
仲間達は全員で九人おり、自身も含めて10人だった。
夜も更けていたことからぐっすりと眠っていた者、眠れずに空を見上げていた者、夜中の来訪者に敵意を向けた者、多種多様だったが皆等しく静かにベッドで眠らせた。
その後自身が何年も過ごしたこの城の者達を確かめる様に眠らせていく。
気付けば赤く滴る血の道が出来ていたが、彼女にはそれが輝かしい軌跡に見えていた。
そうして踏み締める様に続く廊下を歩き、辿り着いた先には大きく重厚な扉。
自身を生命の危機から救った一人の男が此処に居ることを彼女は知っていた。
そして、彼を自身の手で殺すことも、彼女は知っていた。
「遅かったじゃないか」
「分かっていたんですか」
開け放った扉の向こうでは、一人の男がベッドに腰掛け窓の外を眺めていた。
其処に広がるのは藍色の闇とその中に幾つか灯る温かい光達だということをメイアリアは知っていた。
「君を拾った時から知っていた。君はこうすると、ね」
ベッドから降り、窓の淵に腰掛けながら側のワイングラスを手繰り寄せる様は美しいな、とメイアリアは何度も思い続けたことをまた思い、肩を竦める。
「何故自身が殺されると分かっていながら、アタシを拾ったりしたんですか?」
「逆だよ。僕は元から殺される事を望んで君を拾ったんだ」
「では貴方は元から死にたかったと?」
「それは違うな。僕は君に殺されたかった」
「……アタシに? どうして、」
「君を愛していたからだよ、メイアリア」
かたん、と小さな音なのにやけに部屋に響いた気がして、メイアリアは現実逃避にも似た意識を少し取り戻した。
「……アタシを愛していた?」
「愛には形があるけれどね。君に寄せるのは恋慕だ。もしくは焦がれてると言ってもいい。嫉妬にも似ているし、毒薬にも似ている。そう思うのは君だけだとも」
「何故、アタシなんか、」
「さあ……どうしてだろうね。それは僕にも分からないし、多分君にも分からないよ」
微笑みを浮かべながら自身に近付いてくる男に怯え後ずさると、その行動にほんの少しだけ目を丸くして、また更に笑みを深め、彼はやはり窓淵に腰掛けた。
「ただ一つ言えるのは、この感情は君を知った時から今まで、ずっと抱き続けているということさ。そして、僕の命が……今ここで尽きるまてまね」
その時メイアリアはゆっくりと窓外へ身体を傾けていく男に反応が遅れてしまった。
「愛しているよ、メイアリア! 君の人生に僕が花となり添えられる事を!」
何かが叩き付けられるような音を、メイアリアは確認もせず苦虫を噛み潰したような表情で窓を見つめていた。
結局彼女の手にかかる事のなかった国の人間は彼だけであり、その後彼女は一晩のうちで国の全員を惨殺する所業にまで至った。
何処かの国のお姫様と名乗るドレス姿の少女をこの手で殺したのは、もう日が高く上るお昼時であった。
街の中は静かで喧騒もなく、響くのは自身の靴の音だけだった。
彼女は噴水のある教会前まで場所を移動すると、ゆっくりとその場に膝を抱える形で座り込んだ。
その瞳にはきらきらと光り落ちる噴水の水の中に映った沢山の人々の顔が映って見えていたが、メイアリアには正直もうそんなものはどうでも良かった。
彼女に残された選択肢は一つしかなかったからだ。
膝を抱えていた体制から少し身体をずらし、膝を立てて前のめりになる。
その右手には愛用のナイフが握られていた。
未だ彼女の目の奥には水面の煌めきに映る人々の顔が見え、それにどうでもいいと感じている筈の心が何故かメイアリアは痛かった。
それでも自身の罪は懺悔では贖えなかった。
「……王様。アタシの人生は赤そのもの。生まれてから、こうして死ぬまで。だから、アタシは赤に帰るだけ。なのに、最後に映る色は沢山の色で溢れている。貴方があんなことを言わなければ、アタシの世界は赤のままだった。アタシの世界は花なんかとは無縁のはずだった…貴方は最後まで、本当に狡いね。」
右手は確実に狙った腹部に刺さった感触がした。
ぬるりとした血の温かさと感触、倒れる身体と体温が抜けていく感覚。
しかし、メイアリアは不思議と何処も痛くなく、また苦しくも悲しくもなかった。
どうしてか、今までの人生は全て、両親が生きていたあの幼少期の夢の様な気分だったからだ。
何故そう思ってしまうのか彼女には分からなかったが、彼女は死の最後の最後まで、自身が今までで一度も言われた事のない、寄せられた事の無い愛情に浮かされていたことに気付かなかった。
そうして、彼女自身も、自身の気持ちを殺意でかき消していた事を知らなかった。
殺戮者メイアリアは、その掌を他人の血で汚し続けていた事以外は何処にでもいた普通の女学生であったことを、未来永劫誰も知らないままだろう。
そして本人すらも、自身が笑って死んでいったことを気付かないままで、その生涯を閉じていった。