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ソラニワ  作者: 緒浜
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007 視線

 薄暗い角を曲がり、不揃いな階段を過ぎて、ひしゃげた梯子を降りたさらに先。

 点々と続く電球は頼りない光で薄汚れた壁と床を照らし出し、それはまるで冥府の底へと誘う鬼火のようだ。闇を進むほどに人の気配は希薄になり、時折壁を隔てたどこか遠くを人の声が行き過ぎるけれど、いまこの通路に響くのは二人分の靴音だけだ。

 安っぽい光の下を通過する度に、ジインの背中が闇の中に浮かび上がっては、また闇に吸い込まれていく。

 気まずい空気を引きずったまま、ソラはただ黙ってジインの後ろを歩いていた。

 怒ったかな。怒ったよね。

 あれから一度も振り返らないコートの背中を見ながら、ソラは密かにため息を吐いた。

 “嫌だ”と言ったのは失敗だった。

 そんなことを言われて、怒らない人などいない。

 でも、嫌だった。ジインらしくない、というのが、たとえ自分の勘違いだったとしても。

 暗闇から救い出してくれたジイン。優しく頭を撫でてくれたジイン。

 その手が誰かを傷つけるところなんて、見たくない。

「――ごめん」

「え?」

 小さな呟きに、前を行く背中を見つめる。わずかに歩を緩めたジインが、足音でかき消えそうなほどの声音でぼそぼそと呟いた。

「さっきは……ちょっと言い過ぎた。記憶をなくしたのはおまえのせいじゃないのに」

 ごめん、と小さく謝る背中に、ソラは安堵で胸がいっぱいになった。

 よかった。そんなに怒ってなかったみたいだ。

 自分も言い過ぎたことを謝ろうと口を開きかけた瞬間、ジインがぼんやりと言った。

「やり過ぎ……だったのかなあ。何だか最近、そのへんの加減がよくわからないんだ」

 独り言のように言って、ジインが闇に手をかざす。

 白い手が、通り過ぎる照明の下で淡く光っては闇に消える。

「もしかしたら、痛みに鈍くなったのかもしれないな。相手の痛みにも……自分の痛みにも。

そうしないと――……」

 静かな声が闇に沈む。

 相手の痛みにも自分の痛みにも鈍くならなければいけない状況とは、いったいどういうものだったのだろう。

 脇腹に走る赤い傷跡が脳裏をよぎる。

 歩を速めて距離を詰めると、ソラはその顔を覗き込むようにしてジインを見上げた。

「ぼくも言い過ぎた。ごめんね」

 袖を引いて、どこか深くへ沈みかけたジインの意識を引き戻す。

 こちらを向いた夜色の瞳が、ふわりと微笑んだ。

「じゃあ、仲直り」

 差し出された手を握る。

 ほっそりとした指。透き通るような肌。

 こんなにきれいな手を、血で汚したくない。

 ジインにやらせるくらいなら、オレが――……。

「あれ……?」

 なんだ、今の。

 いま、なんて思った?

 “ジインにやらせるくらいなら”。

 “オレが”――……?

「ほら、置いていくぞ」

「えっ? あ、うん」

 いつの間にか歩き出していたジインを慌てて追いながら、ソラは考える。

 今の感情は何だろう。

 さっきから胸につかえていたものに、とても近い感情だ。

 心の奥底から自然とわき上がったその思いは、自分にとってとても“正しい”ように思えた。

 通路が途切れ、黄色みがかった光が二人を包む。少し開けた場所に出た。いくつかの通路が合流する、薄暗い部屋のような空間だ。白っぽいコンクリートの壁に目立たない色の扉が三つ並び、扉の前には屈強な男が二人、来訪者を威圧するように立っている。

 用心棒というやつだろうか。向けられた視線の鋭さにソラは思わず身を縮めた。二人ともジインの太ももくらいありそうな腕をしている。ぶん殴られたらただでは済まないだろう。男たちの腰には拳銃と大型のナイフもぶら下がっていて、どう見ても穏やかでない雰囲気だ。

「求紅に用がある」

 ジインが言い終わらないうちに、男たちは目配せし扉を数回叩いた。

 どうやらここが目的地らしい。

 ほっと息を吐いたのもつかの間、扉の向こうから現れたのは二人の男よりさらに大柄な壁のような男だった。

 お世辞にも友好的とは言えない双眸が二人を見下ろす。珈琲色の肌は暗がりに溶け込み、まるで闇そのものが立ちはだかっているようだ。

 壁男の後ろで鉄の扉が再び固く閉ざされる。その音で、ソラは自分たちが歓迎されていないことを悟った。

「求紅は不在だ。お引き取り願おう」

 低く響く遠雷のような声で、男は短くそう言った。

 ジインが苦笑する。

「は……門前払いとは冷たいな。泥熊、おまえいつからそんな情なしになったんだ?」

 ジインの軽口にも、泥熊は眉一つ動かさない。

 重苦しい沈黙が流れる。

 先にしびれを切らしたジインが、苛立たしげに舌打ちした。

「おい、嘘ならもっとマシな嘘を吐け。居るんだろ? すぐに済ませるから、さっさと取り次いでくれ」

「不在だと言っているだろう」

「なあ、ふざけるなよ」

 ジインの声色が変わる。凄んでも荒げてもいない静かな声だ。唇には薄く笑みさえ浮かべているというのに、その声は凍てついた刃のような剣呑さを帯びていた。

 体の横にだらりと垂らされた腕には、見えない凶器が握られているような気さえする。

 血だらけの男の顔が脳裏をよぎり、ソラはハラハラした。

「おまえらと遊んでいられるほど、こっちはヒマじゃないんだ……そこをどけ」

 ジインの腕がゆらりと動く。男たちがそれぞれ身構えた。男の手が腰の銃に伸びるのを見て、ソラは慌ててジインの腕に飛びついた。

 銃と魔法。どちらが強いかわからないが、このままでは血を見ることは避けられない。

「ジイン、ちょっと待っ……!」

「あっれえ、ジインじゃないか」

 場違いにのんびりとした声が通路に反響した。振り返ると、ソラと同じ年頃の少年が紙袋を抱えてこちらに歩んでくる。

「鳶広」

「生きてたんだ。もうとっくに捕まったかと思ったのに」

 小動物に似た愛嬌のある顔がにやりと笑う。その背後から小さな影が飛び出し、止める間もなくジインの足に飛びついた。

「ジイン!」

「ああ、二葉か」

 相好を崩し、ジインが女の子を抱き上げた。小さな腕をジインの首にまわして、女の子がきゃらきゃらと明るい笑い声を立てる。

 その場の空気が一気に和らぎ、ソラはほっと胸を撫で下ろした。

 鳶広が顔をしかめる。

「なんだよ二葉。オレに抱っこされると嫌がるくせに」

「へえ、そうなのか。男を見る目があるな、二葉は」

「おまえがタラシなだけだろ。気をつけろよ二葉、そいつは女だけじゃなく、オトコもババアもチビッコも見境なくたらし込むんだぞ」

「なんだよそれ、人聞きが悪いな」

「はっ! 本当のことだろ?」

 眉をひそめるジインを鼻で嗤ってから、鳶広はソラに目を向けた。

「で、こいつが例の“ヒトガタ”?」

「な、なんだよ」

 無遠慮な視線が注がれる。なんだかすごく嫌な感じだ。

 鳶広はゆっくりとソラの背後にまわると、わざとらしく、ふーん、と呟いた。

「なるほどね。見た目はやっぱ、普通の人間と変わらないんだ」

 普通の人間と変わらない?

「それって、どういう……」

「あっ、ママ!」

 二葉が嬉しそうな声を上げる。視線の先に目をやると、鳶広たちが来たほうから今度は褐色の肌の少女が現れた。

 母親にしては随分と若い、ジインとさして変わらない年頃の少女だ。

 ジインに気がついた少女が息を呑み、足を止める。驚きの表情はすぐに喜びと安堵に変わり、少女は大きな紙袋を抱えたまま、軽い靴音を響かせて駆け寄ってきた。

「ジイン!」

 二葉を降ろしたジインが少女を荷物ごと抱きとめる。

「久しぶりだな、朱世」

「久しぶりだな、じゃないわ! どれだけ心配したと思ってるの? ここしばらく音沙汰もなくて、いきなり昨日の騒ぎだもの……ああ、でもよかった。無事だったのね」

 大きな二重の瞳が、まぶしそうに何度もまたたく。

 好きなんだな、とソラは思った。

 誰に言われなくてもわかる。この人は、ジインのことが好きなんだ。

 殺伐としたこの街で日だまりのように輝くその横顔は、なんだかとても尊いもののように見えた。

 この二人は、いったいどういう関係なのだろう。

「ソラくんも無事に救い出せたのね」

「え?」

 ふわりと空気が動き、しなやかな腕が体を包む。

 何の前触れもなく抱きすくめられて、ソラは硬直した。

 頬をくすぐる髪の感触。石けんのいい香りがした。厚く服を重ねても伝わる胸の膨らみにばくばくと心臓が暴れ、耳が熱くなる。

 朱世の体が離れて、止めていた息をソラはようやく吐き出した。

「全然変わってないわ……二年前のままなのね」

 感心しているようにも、不審がっているようにも聞こえる声音で呟いた朱世の体が、背後へぐいっと引っぱられた。

「“ヒトガタ”に近づくな」

 ソラから朱世を庇うように泥熊が立ちはだかる。今にもぎりぎりと音が聞こえてきそうなほど睨みつけられて、ソラは思わず身をすくませた。

 相手を射殺さんばかりの眼光だ。それは単に睨みつけるというより、なにか許容しがたいものを見るような目で、そこには警戒心や敵意だけではない他の“何か”が見え隠れしていた。

 憎しみ……嫌悪? いや、違う。

 つい最近どこかで見た気もするけど、思い出せない。

 けれど、そこに込められているものが何であれ、そんな目で睨まれるようなことをした覚えはなかった。

 そもそも自分の場合、記憶自体がないのだけれど。

「“ヒトガタ”を店に入れることはできない。厄介な手配者もだ。わかったら、さっさとここを去れ」

 ジインがさりげなくソラの前に立つ。大の男でも震え上がるような泥熊の視線を、ジインは虫でも払うようにうんざりと一瞥した。

「用が済めば立ち去るさ。だから早く求紅に会わせろよ」

「ちょっと、泥熊」

 眉をひそめて、朱世が泥熊を見上げた。

「ジインを通さないのは求紅の指示?」

 背丈も歳もずっと下の少女に睨まれて、泥熊がもごりと口を動かす。鼻の頭にしわがより、仏頂面がさらに仏頂面になった。

「違うのね……ううん、どっちでもいいわ。ジインは私の客でもあるのよ。求紅のところがだめなら、私の作業場に通してちょうだい」

「しかし……」

「ジインは私の家族みたいなものよ。少しでもいいから力になりたいの。……お願い、泥熊」

「おねがい、どろくま!」

 朱世を真似て二葉が泥熊をのぞき込む。よく似た二対の瞳に見上げられ、泥熊は渋面のまま押し黙った。しばしの間を置いて、これ以上ないほどに顔をしかめたまま泥熊が渋々顎をしゃくる。それを合図に用心棒の男が鉄の扉を開いた。

「ありがとう」

 泥熊を見上げてにっこり微笑んでから、朱世はソラたちを振り返った。

「さ、入って。昨日仕上げたばかりの新作があるのよ」

「へえ、そいつは楽しみだな」

 ちらりと泥熊を見上げたジインが、すれ違いざまにくすりと笑った。途端にまなじりをつり上げた泥熊の膨れ上がった二の腕あたりを、鳶広が慰めるようにぽんぽんと叩く。

「しかたねえよ。求紅だって朱世には勝てねえんだから」

 低く唸る泥熊の横をすり抜けて、二葉がジインの腕にぶら下がった。

「ジイン、ジイン、ふたばね、チョウチョさん見たい!」

「ああ、いいよ。あとで出してあげようね」

「わぁい!」

 小さな足を揃えて、二葉がぴょんぴょんと飛び跳ねる。

 まるで仲のよい兄妹のようなその様子に、ソラはなんだか居心地が悪くなった。

 胸に疼くかすかな疎外感に気づいて、慌てて首を振る。

 あんな小さな子にやきもちを妬くなんて、どうかしている。

 ちらちらとこちらを振り返る好奇心いっぱいの視線には気づかないフリをして、そんな自分の子どもっぽさにソラは嫌気がさした。

 密かにため息を吐きながらジインの後について扉をくぐろうとしたその時、二葉とは別の視線を感じてソラは思わず振り返った。

 用心棒たちが、あの突き刺すような鋭い目でこちらを見ている。

 一瞬重なった視線は、あからさまに逸らされた。

 けれどその瞬間、ソラはそこに見え隠れしているものが何かをはっきりと思い出した。

 それは市場で殴られていた男や、血だらけの男の目にあったものと同じ。

 まぎれもない“恐怖”だ。

 泥熊と屈強な用心棒たち。彼らは怯えている。

 魔法士のジインではなく、このぼくに。

「どうして……」

 いったいどうして?

 ぼくが“ヒトガタ”だから?

 “ヒトガタ”は、そんなに恐ろしいものなのだろうか。

 “見た目はやっぱ、普通の人間と変わらないんだ”

 何かを含んだ鳶広の言葉が脳裏に蘇る。

 それはいったい、どういう意味。

「ソラ? どうかしたのか?」

「……なんでもない」

 頭をもたげはじめた疑惑から目を逸らすように、ソラは冷たい視線に背を向けた。

 


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