051 fall down(前編)
その日は突然やってきた。
「買い出しに行くけど、なにか必要なものある?」
上着に袖を通しながらいつものようにソラが言う。
「いや、とくにない」
テーブルの上に広げた地図から目を離さないまま、ジインはうわのそらで返事をした。
ソラが仕入れて来た最新の情報と、ジインが過去に調べ上げた『彩色飴街』の詳細な情報を書き込んだ地図とを睨むように見比べながら、ああでもないこうでもないと思案に耽る。
外国へ渡るための手段と手順を一から練り直すため、ジインはここ数日寝る間も惜しんで地図やら情報やらと格闘していた。
カチリとドアの鍵を開ける音でふと我に返り、顔を上げる。
「ああ、そうだ。このあいだ買っておいたはずだったトイレットペーパー、やっぱり戸棚の奥に転がってたから――」
買ってくる必要ないぞと、椅子に座ったまま身を乗り出してドアへ向かって声をかける。
すでにドアの外に一歩出ていたソラが振り返った。
その口が何か言おうと開きかける。
次の瞬間、鋭い破裂音とともにソラの体が横に吹き飛んだ。
古びた鉄の塗装に赤い色が散り、開ききって壁にバウンドしたドアが鈍い音を立てる。
何もかもが凍りついたような数秒の静寂。
そして、
「――ソラ!」
椅子を蹴立てて駆け寄る。表へ姿を見せないよう注意しながら、ジインは辛うじて部屋の中へ入っていたソラの片足を掴んで、その体を引きずり込んだ。
ぐったりと重い体が血だまりの上を滑る。
おびただしい量の血に、ジインは思わずうめいた。
開ききったドアのノブを見えない力で掴んで、意識だけでそれを引く。
勢いよく閉まったドアの真ん中には、小型の爆弾でも破裂させたかのような穴が空いていた。
「ソラ……大丈夫か、しっかりしろ……!」
傷を押さえる手指の隙間からごぼごぼと溢れる血が、狭い廊下を瞬く間に赤く染めていく。
むせ返るような血のにおい。冷えた手指を汚す赤色は驚くほどに熱い。
銃弾はソラの胴のど真ん中を貫通していた。触った感触からして背中側はぐちゃぐちゃだ。普通の人間なら即死だろう。たちどころに傷の治る“ヒトガタ”といえど、これほどひどく内蔵をやられてしまっては動けるようになるまでしばらくかかりそうだ。
強力な銃器。きっと、一人では扱えないほどの。
それなのに、ソラが気配に気づかなかった。それほど遠くからの狙撃か。
――まさか、谷の対岸から?
トンネルのような造りになっているアパートメントの外廊下は、薄汚れたトタン壁の他は『虹ノ谷』の奈落にしか面していない。撃たれた方向からしても、谷の対岸から狙撃したとしか考えられない。
それほどの距離から狙撃できる高性能な銃器を所有している組織は限られている。国軍、あるいは、この国の暗部を取り仕切る『裏』の三大勢力――『BogSob』『観月屋』『鈴麗公司』の三社くらいだろう。そこらの賞金稼ぎが持つレベルの武器ではない。
国軍にせよ『裏』の元締めにせよ、魔法院が絡んでいるのは間違いないだろう。
にたりと嗤う薄い唇が脳裏を過る。
背筋を冷たい汗が流れた。
なぜ。どうして、居場所がバレた?
「あ……あの時、おれが……」
三週間ほど前、ソラの姿が見えないことに動揺して不用意に外へ出た。
あの時に姿を見られたとしか考えられない。
買い出しなどで頻繁に外へ出ていたのはソラだが、この二ヶ月で急成長したソラは以前とは背丈や体格がだいぶ変わっており、指名手配中の“ソラ”と同一人物だと気づかれる可能性は低い。
――おれのせいだ。
ソラを抱く腕が震え出す。喉に何か詰まったように息が苦しい。
おれは、なんてバカなことを。
取り返しがつかないことをしてしまった。
呼吸が乱れ、視線が泳ぐ。
どうしよう。どうしたら。
ああ、こんなことなら、やはりソラを手放しておくべきだった。
あの時、どこか遠くへ逃げろと蹴り飛ばしてでも追い出していれば、こんなことには――。
がっと手を掴まれる。口から血を流しながら、ソラがこちらを見つめていた。
ヒュウヒュウとすきま風のような息を漏らしながらも爛と光る眼差しに、はっと息を呑む。
そうだ。
一緒に生きると約束した。
二人で一緒にここを出て、生きると。
「――クソ……ッ!」
己の手首に歯を立てる。現実から目を逸らすためではなく、現実を見据えるために、痛みを与えた。
胸の奥まで息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
落ち着け。しっかりしろ。
ここを出て、二人で生きるんだ。
「……簡単に捕まると思うなよ」
窓を見上げて呟く。この街のどこかできっと愉しげに嗤っているであろう男を、ジインは睨みつけた。
「なあ、本当にここでよかったのか?」
たくましい体躯を竜獣駆逐隊の軍服に包んだ男が、モニターから目を離してちらりと横を見る。男の隣で簡易椅子に腰掛けていた桐生は、まるで自室にでもいるような風情でゆったりと足を組んだ。
「ああ、ここでいい」
「目視は難しいだろうが、本当はもっと近くで見たかったんじゃないのか? おまえの“初恋の君”が捕まるところを、さ」
「どうせそう簡単には捕まらないさ」
「この俺が指揮官でもか?」
その冗談めかした声音に、桐生が笑う。
「そうだよ、木刃大佐。あの子は特別なんだ。ところで、その“初恋の君”という呼び方はかなり語弊があるように思うんだが」
「じゃあ他にどう呼べというんだ。竜災現場のスプラッタを眺めて歩くことだけが楽しみの廃人予備軍みたいだったおまえが、あの子を見つけた途端に生き生きし始めた。“恋”じゃなきゃ、何だ。“生き甲斐”か?」
「そこまで大それたものじゃないさ。けれど、そうだね……彼を見ているととても愉しい気分になることは否定しないよ。“愉しい”よりも“気持ちいい”と言うほうが近いかな。とくに苦しんでいる姿がね、とても美しいんだ。そのまま氷付けにでもして飾っておきたいくらいにね」
うっとりと微笑む桐生の隣で、木刃が頬を引きつらせる。
「ははは、相変わらずおまえの嗜好はまったく理解できないな」
椅子の背にもたれると、木刃はううむ、と唸って腕を組んだ。
「しかし、狙撃に失敗したのが痛いな。“ヒトガタ”の頭部をきちんと吹き飛ばしていれば、あのアパートを包囲する時間も稼げたんだが」
質の悪い床の上をバタバタと兵士が行き交う。『彩色飴街』の奈落に面する家屋に設えられた簡易司令室には、作戦開始直後の張りつめた空気が漂っていた。二人の前には数台のモニターが置かれており、その中の何台かには、ここからだいぶ離れた対岸の古びたアパートメントが映し出されている。
「ああ、ほら。始まったようだよ」
モニターに映し出されていた窓からとつぜん白い煙が吹き出して、桐生がわずかに身を乗り出す。
「煙? やけに白いな」
「何か薬品を混ぜてあるんじゃないかな」
「となると、目くらましが目的か? やはり飛空で逃げるつもりか」
「彼の体格からすると、負傷した弟くんを背負って陸路で逃げるのはちょっと無理があるね。本当はそのほうがおもしろいけど」
「何故だ?」
木刃の問いに、桐生の笑みが深まる。
「捨てられない重荷を背負って逃げ惑う獲物を、猟犬で追い立てながら狭い路地へじわじわと追い詰めるほうが愉しそうじゃないか」
「……本当に悪趣味の極みだな。かわいそうに、あの子に同情するよ。あの日、おまえみたいな悪趣味に見初められたのが運の尽きだったな」
やれやれと芝居がかったため息を吐いてから、木刃は通信機のボタンを押して言った。
「モニター4、もっと引いてくれ。白煙全体が見えるように。窓照準の捕獲網は5セットに増やしておけ。他の出入り口と、上下階の出入り口の監視も気を抜くな。初動で捕らえるぞ」
陽の少ない『虹ノ谷』の薄闇の中、煙は風に流されて南側に傾ぐように立ち上っている。まるで巨大な白い柱のようなその煙のちょうど中腹、アパートメントからはずいぶん離れたあたりを見つめていた桐生が、ふいに笑う。
「ほら、逃げたよ」
「は?」
「窓から煙の中を伝って、この辺りから南方向へ飛び出した」
桐生の指がモニターをトン、と叩く。ほぼ同時に、木刃の手の中の通信機から口早に何かを告げる声が漏れる。
「――遅い! 許可なんているか、さっさと行け!」
通信機に向かって怒鳴る木刃のとなりで、桐生は簡易椅子にゆったりと身を預けて腹の上で手を組んだ。
「さあ、愉しい狩りの始まりだ」
「な……んだよ、あのかっこいい乗り物は!」
背後を振り返って、ジインは思わず叫んだ。
煙に身を隠しながら飛空で部屋を脱出した二人の後を追う、小型のヘリコプターのような機体。2、3人乗りだろうか。通常のヘリよりも動きが素早い。
大きなフロントガラス越しに、中の一人が『支柱晶』を手にしているのが見えた。
魔法士。
「第一士団か……!」
舌打ちしそうになるのを堪えて、ジインは肩にぐったりともたれるソラをちらりと見た。転がり落ちないよう、ソラの体は上着をたすきのようにしてジインの背中にくくりつけてある。
しゅうしゅうと湯気を上げるソラの体は燃えるように熱く、驚異的なスピードで再生が進んでいるようだが、ジインの胴に回された手には体温と力がまだ十分に戻っていない。
胸にある上着の結び目をもう一度確認すると、ジインは身を屈めてゴーグル越しに前方の闇を睨んだ。
頭のすぐ上を、太い電線が猛スピードでかすめる。『虹ノ谷』には両岸を結ぶ吊り橋や電線が無数に張り巡らされており、少しでも接触すればバランスを崩して墜落、激突すれば即死だ。
前方に意識を集中する。ゴーグルに暗視機能はついていない。薄闇に溶け込む障害物を避けるには、空気中のピアナクロセイドの微かな感触を頼りに先読みするしかない。
「――行くぞ!」
『支柱晶』を強く掴むと、ジインは重心を思い切りずらして急降下した。
全身を殴りつけるような風。ぼうぼうと耳を塞ぐ風音がその勢いを増す。
体を捻りながらまるで落下するような勢いで吊り橋の下を抜ける。わざと鉄橋すれすれの場所を選んですり抜けながら、速度が落ちない程度に急降下や急上昇を繰り返した。
ちらりと振り返る。『支柱晶』のアクロバティックな軌道を忠実に追いながら、新型ヘリはいつの間にか数を増やしつつ、ぴったりと二人の後をついてくる。
「しつこいな!」
額にうっすらと汗が浮く。
速度だけ比べるなら飛空の方が若干上だが、こちらは二人乗りで、しかも障害物のせいで思うようにスピードを出すことができない。
背後のヘリは、おそらくこちらの体力が尽きてどこかへ不時着するまで延々とつきまとう気だろう。
修練の甲斐あってコントロールは以前より格段に上がっており、効率とともに持久力も上がったはずだが、いくらでも交代要員のいる魔法士団との持久戦となると勝ち目はない。
地上に上がれば、上空には通常のヘリが待ち構えているだろう。このまま陸島の側面へ出るまで『虹ノ谷』を北上して雲に紛れようかとも思ったが、きっとそちらにもヘリが待ち構えているに違いない。
こめかみを汗が流れる。
どうする。
「……が、……ぃ」
苦しげな呼吸の合間、とぎれとぎれにソラが言う。
「え?」
「オ、レの、ほうが……はや、ぃ……から……ッ」
ソラの喉がゴボ、と鳴る。血の塊を奈落の底へと吐き出すと、ソラはのろのろと腕を上げた。
血で汚れた指が、二人の体をくくりつけている上着の結び目に触れる。
かたく結んだはずのそれは、ソラの怪力で容易く解けた。
「おい、ソラ?! なにをするつもりだ」
「すぐ、追いつく、から、……ジイン……先に、行って……!」
言うなり、ソラはジインの背を前へ押すようにして『支柱晶』から滑り降りた。
「――ッ!」
二人を繋いでいた上着がバサリと飛ばされ、踊るように奈落へと落ちていく。
熱源を失い、背中が急激に冷える。軽くなった『支柱晶』のスピードがぐんと上がって、ジインは慌てて『支柱晶』にしがみついた。
「あ……」
思わず覗き込むような形になった後方の闇の中、落下していくソラの体が見る間に遠ざかる。
「――あの、バカ……ッ!」
思わず漏れた呟きは、耳をふさぐ風にさらわれて消えた。