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ソラニワ  作者: 緒浜
43/53

043 影

「おまえ、またソファーで寝たのか?」

 夕方近くになってようやく目覚めたジインがぼんやりと言う。

 地上ではまだ陽が残っている時刻だが、『彩色飴街』の東三十七楼五層はすでに薄やみの中に沈みはじめていた。

 明かりが必要になる直前の青い闇の中で、ジインの白いシャツがぼんやりと光って見える。

「ソファーじゃ体が休まらないだろ? 一緒にベッド使おうって何度も言ってるのに」

 窓枠に腰掛け、外側に足をぶらぶらさせながらぼやくジインを、ソラは洗濯物を畳みながら振り返った。

「そのベッドに二人はさすがに狭いだろ。寝てる間にジインのこと蹴り落としちゃいそうで、心配で安眠できないんだよね」

「じゃあ今夜はおれがソファーで寝るから、おまえがベッド使えよ」

「まさか」

 病人をソファーで寝かせるわけにいかないだろ、という台詞が喉まで出かかり、わずかな逡巡の後に他の言葉にすり替える。

「ほら、オレはジインとは比べ物にならないくらい頑丈だからさ。床でも椅子でもどこでも寝れるし、本当は毎日睡眠をとる必要もないくらいなんだ。30分くらいの仮眠でも充分一日動けるし」

「へえ、眠らなくても動けるってのは便利だな。でも睡眠で休めるのは体だけじゃないぞ。心も休息するんだから、やっぱりちゃんと横になって寝たほうがいい。“ヒトガタ”だからって、心まで不死身なわけじゃないんだから」

 ここ最近ジインの眠る時間が増え続けているのは、心の休息を求めているせいなのだろうか。

 そんな考えを頭の隅に追いやって、ソラは言った。

「ジインは昔からよく眠るよね。放っておくといつまででも寝てるし」

「だって気持ちいいだろ、眠るの。とくに布団が干したばかりでふわふわだったり、シーツが洗い立てでサラサラだったりするともう起きたくなくなるというか、そのままいつまでも寝ていたくなるというか」

 窓枠に寄りかかりうっとりと言うジインを見て、ソラはあっと声を上げた。

「もしかして、ジインの寝起きが昔から最悪なのは眠るのが好き過ぎるせいか?!」

「あー……その可能性は否定できないな」

 のんびりとジインが笑い、他愛無い会話がそこでなんとなく途切れる。

 いまだに畳み方がよくわからない襟付きのシャツをいい加減に畳み終えると、ソラは深呼吸を一つした。

「ねえ、ジイン。これからのことだけど」

 揺れるカーテンの向こうに見え隠れするシャツの背に向き直り、思いきって切り出す。

「もし……もし体の状態が安定してるなら、空を渡って外国へ治療法を探しに行こう」

 もしも“終わり”が今日や明日に訪れるのであれば、このままここで穏やかに過ごすという選択肢もあるだろう。

 けれど、この小康状態がしばらく続くのであれば。

 この隙に、外国へ渡ることができるかもしれない。

 そして、外国で治療法を探すことができれば――。

 もしかしたら、もしかしたらと、根拠のない期待がソラを急かす。

「あの日、求紅が手配してくれた船には結局乗れなかったから、求紅との取引はまだ有効だよね? だから、もう一度求紅に頼めば――」

「嫌だ」

「え?」

「このままここにいたい」

 こちらに背を向けたままのジインが、先ほどの会話と変わらない明るい声音で言う。

「屋根もある。ベッドもある。清潔な水もあるし、食料も調達できる。冷蔵庫に洗濯機、おまけにシャワーまでついてるんだぞ? 十分じゃないか。これ以上望むことなんてないだろ」

 だから、このままここにいればいい。

 にこやかに言われ、ソラは困惑した。

 このまま、ここにいればいい?

「でも、このままじゃジインは……」

「このままでいい」

 静かな声がソラを遮る。

「このままが、いい」

 窓枠からするりと降りたジインが、立ち尽くすソラのかたわらを音も無く通り過ぎる。

 穏やかな、けれど何の感情も読み取れない横顔は、まるでよくできた人形のようで。

 背後で、ぱたん、と浴室の扉が閉じる。

「ジ……イン……?」

 穏やかな、けれどどこか不自然なその様子に、ソラは一歩も動けないまま、心だけがざわざわと波打つのを感じた。




「………」

 スプーンを口に含みながら、ソラは向かいに座るジインをちらりと盗み見た。

 重苦しい空気も知らぬ顔で、ジインは黙々と食事を進めている。

 ――このままが、いい――。

 そんなジインの台詞に、ソラはひどく違和感を覚えていた。

 “治療法なんて存在しない、探すだけ時間の無駄だ”と、治療法を探すことに反対されるのなら、まだわかる。

 けれど、“このままここにいたい”という言い方が、妙に引っかかった。

 空を渡って外国へ行くのは、二人の昔からの夢だ。

 ――空へ出よう。飛空船を買ってさ。世界中を飛びまわって、だれも知らない場所を探しに行こう――。

 そんな約束を交わした日の輝くような笑顔を思い出して、喉のあたりがぎゅっと詰まる。

 塩加減を間違えたチャーハンをスープで無理やり流し込むと、ソラは意を決して顔を上げた。

「ジイン、さっきの話だけど」

 案の定わずかに眉をひそめたジインが、小さくため息を吐く。

「もういいよ、その話は」

「よくないよ! どうしてそうやって話をはぐらかすの? ねえ、本当のことを教えてよ。竜毒の具合はどうなの? もし、まだ少しでも時間があるのなら、今のうちに国外へ出れば、もしかしたら――」

「おれがいつ死ぬのか、そんなに知りたいのか?」

 どきりと心臓が跳ね上がる。

 口調だけはやわらかな、けれど刃のような言葉に、ソラは身をこわばらせた。

 ジインが、いつ死ぬのか。命の期限は、いつまでなのか。

「そ……そんな、こと……」

「知りたくないなら、訊かないでくれ」

 どこまでも穏やかな、けれど地の果てまで突き放すような言葉に、体がすくむ。

 命の期限なんて、そんなもの知りたくない。

 けれど。

「……知りたいよ」

 今度はジインの手が止まる。

 スプーンを握りしめ、全身に嫌な汗をかきながら、ソラは硬い声で言った。

「ジインがいつ死ぬのか知りたい。竜毒がどこまで進んでるのか、あとどれくらい時間があるのか……ちゃんと知りたい」

 ジインのことを助けたいから、と、まっすぐにジインを見て言う。

「だから、教えてよ」

 皿に視線を落としたまま、ジインが黙り込む。

 その顔は一見穏やかで、特別な感情は読み取れない。

 ソラはからからに乾いた喉で無理やり唾を飲み込んだ。

 己の発した言葉の残酷さに、体が内側から焼けるようだ。

 けれどここで引き下がれば、ジインは真実を話してはくれない。

 辛辣な言葉で、ジインはわざと突き放しているのだ。

 瞬きも忘れて返答を待つソラを一度も見ないまま、ジインは最後の一口を食べ終えてスプーンを置いた。

「……ごちそうさまでした」

 自分の皿を重ねたジインがさっさと立ち上がる。

「ジイン!」

「一緒に洗うから、早く食べちゃえよ」

 すべてをなかったことにするようなその素振りに、ソラは思わず椅子を蹴立てるようにして立ち上がった。

「待てよ、まだ話が途中だろ!?」

「食事中に立ち上がるなよ、行儀が悪いぞ」

「ッ! ジインだって立ってるじゃん!」

「おれはもう食べ終わった」

 おどけた調子でジインが、べえ、と舌を出す。

「そうやって、わざとちゃかして煙に巻いて――……!」

 喉元まで込み上げた怒りをぐっと呑み込むと、ソラはどかりと腰を下ろして残りのチャーハンをかっ込んだ。

 このままではらちがあかない。

 まずはさっさとこれを食べ終える。

 それから曖昧な言葉で逃げ回るジインを捕まえて、きちんと膝を突き合わせて話をしなければ――……。

「そうそう、素直で大変よろしい」

 からかうような声音に、苛立ちが募る。

 いくら赤ん坊の頃から育ててもらったとはいえ、このジインの子ども扱いもそろそろ止めてもらわないと。

「ちゃんとよく噛んで食べろよ? でないと、喉に詰まらせて……っと、」

 水音のし始めた台所で、がしゃんと派手な音が立つ。

 ジインが食器を洗う手を滑らせたらしい。

「だいじょうぶ?」

 残りのチャーハンを急いでかき込むと、ソラは自分の食器を運びがてらジインの手元を覗き込んだ。

「――なにこれ、どうしたの?!」

 ぎょっとしてジインの腕を掴む。

 食器を洗うためにシャツをまくってあらわになった手首に、奇妙な傷が並んでいた。

 流しの食器に目をやる。どれも割れたりはしていない。いま負った傷ではないようだ。

 では、いったいいつ負ったのか。

 点々と並ぶ赤はまだ真新しく痛々しい。

 そういえば、このところジインはシャツの袖をいつも下ろしたままだった。

「ねえ、この傷どうしたの?! いったい、いつどこでこんなもの……」

 不可解な傷を無表情で見つめていたジインが、ぼそりと言う。

「ぶつけた」

「うそつけ、ぶつけてこんなふうになるわけないだろ! ちょっと、よく見せて」

「べつに大した傷じゃない」

 だいじょうぶだからと逃げる腕を捕らえて、明かりの下へ引っぱり出す。円弧を描きながら点々と並ぶ小さな傷をよくよく観察して、ソラはさらに驚愕した。

「こ、これ……もしかして、自分で噛んだの? どうして?!」

「べつに。ちょっと寝ぼけただけだよ」

 ちょうどオムライスを食べる夢を見てたんだ。そんな見え透いた嘘を言って、ジインが笑う。

 場違いなその笑顔に、抑え込んでいた何かがソラの中で弾けた。

「なんで、笑うんだ……」

 声が震える。

「なんで、どうして笑うんだよ!!」

 爆発寸前の感情を懸命に抑える。それでも抑えきれない想いが、溢れて顔を歪ませた。

「なんで、どうしてジインはそうなんだよ! いつもいつも、全部隠してひとりで抱え込んで……どうしてオレに何も言ってくれないんだ!!」

 悲しさと悔しさと怒りがぐちゃぐちゃに混ざって、喉を詰まらせる。

 なんで、どうしてと問い詰めそうになるのを、ソラは必死で堪えた。

 違う。本当に責めたいのは、ジインではなく――……。

「……どうして何もかもおまえに言わなきゃいけないんだ」

 ため息まじりに言いながら、ジインがふいと顔を背ける。

 その横顔はソラと反比例して、急速に温度を下げていくようだった。

「幼子と母親じゃあるまいし、何もかも報告する義務なんてない。言いたくないことは言わない、べつにそれでいいだろ?」

 煩わしそうに言われ、ぐっと言葉に詰まる。

 そう、昔からそうだった。

 ジインは負の感情を押し隠し、他人に見せようとしない。

 痛みも憂いもすべて隠して抱え込み、共に分かつことを許してくれないのだ。

 何もかもをさらして欲しいと思うのは、単なる自分のわがままなのだろうか。

 けれど、竜毒は。

 この傷の痛みだけは、オレが共に背負うべきものだ。

「……ジイン」

 感情の見えない横顔を睨んだまま、その距離を詰める。

「竜毒の傷を見せて」

「……嫌だ」

「どうして」

「理由なんてない。嫌なものは嫌だ」

「嫌でも何でも、竜毒の具合がわからなくちゃこれから先のことが決められないだろ!」

 ジインが弾かれたように顔を上げる。

「“これから先”なんて……ッ!」

 わずかに声を荒げたジインが、続く言葉をぐっとのみ込む。

 一瞬見えた本音のしっぽを捕まえようと、ソラは掴んだ腕に力を込めた。

「“これから先なんて”、何?」

 続きを促すソラを無視して、ジインが目を伏せる。心を落ち着かせるように深呼吸をひとつして、ジインは静かに言った。

「……おまえが竜毒の具合を知ったところで何も変わらない。おれの体のことは、おまえには関係ないよ」

「はあ?! 何言ってんだ、関係ないわけないだろ?!」

 あまりの言いように掴んだ腕を思わず引き寄せる。傷のあたりは無意識に避けつつ、もう片方の腕でジインの右の二の腕を捕らえた。

「これはオレが負わせた傷だ! 関係ないわけ――」

「でもおまえは死なない!!」

 叫ぶようにジインが言う。どこか苦しげな夜色の双眸がソラを見上げた。

「おれと違って、おまえは死なない! おれがいなくなっても、おまえは生きていくんだ――“これから先”も。だから……」

 ジインが言いよどみ、沈黙が流れる。揺れる眼差しがきまり悪げにふいと逸れた。

「なあ、ソラ……おれと、おまえは、もう――、」

 華奢な肩をびくりと震わせて、ジインが口元を押さえた。

「ジイン?」

「……ちょっと、トイレ」

 会話を不自然にとぎらせてジインが顔を背ける。ソラの腕を振り払うと、そのまま足早に洗面所へ向かった。

「ジイン?!」

 後を追うソラから逃れるように、ほとんど駆け込むようにしてジインが洗面所の扉を閉める。鍵をかけられそうになるのを、ソラは力づくで阻んだ。

 薄暗い洗面所の隅で、ジインが洗面台にすがりながら倒れるようにしゃがみ込む。

「く、るな……ッ!」

 口を押さえた指の合間から押し出すような声が漏れる。背けたままの横顔が見る間に朱に染まった。

 口元に空気の動きを感じない。

 ――息を、止めている?

「ジイン、どうしたの?! どこか苦しいの、息ができないの?!」

 急いでしゃがみ込み、その顔を覗き込む。

 何を訊いても答えずにジインは首を振るばかりだ。

 呼吸を止めたままの横顔が、どんどん色を変えていく。

 そして、

「!!」

 唐突に、ジインが自分の手首に噛み付いた。

「な、何してるの……ダメだよ、ジイン!」

 慌てて腕を離そうとするが、ジインは自分の手首に深く歯を立てて離そうとしない。

 額に汗を滲ませながら手首を強く噛んだジインが、ほんのわずかに息を吸う。

 途端に、顔が苦痛に歪み、声にならない呻きが漏れた。

 それを何度か繰り返し、どうやら少しずつ肺に空気を入れているようだ。

「ジイン……」

 ひどく困惑したまま、ソラは苦痛に呻くジインの背中を慣れない手つきでさすった。

 どうしよう。いったいどうしたらいいんだ。

「……う、」

 数秒か、あるいは数分か。自傷行為と苦しげな呼吸を何度か繰り返した後、ぶつりと糸が切れたかのようにジインの体から力が抜けた。肩を上下させながらぜえぜえと激しく息をつき、ぐったりと壁に寄りかかる。

 ようやく解放されたその手首には新たな傷が刻まれ、血がにじんでいた。

 ばくばくと鼓動が鳴る。

 胸の奥で閉ざしていた箱のふたが開き、不安がどろどろと溢れ出す。

「ジイン……傷、見るよ?」

 答えを待たずに、汗ばんだ指で白い襟をくつろげる。

 シャツの下から現れたものに、ソラはうめき声を漏らした。

 大輪の、黒い花。

 以前より明らかに濃くなったその痣は、鎖骨、首の付け根、肩へと散らばり、すでに腕まで広がりはじめていた。

 美しい花のように見えるその影が、まるであざ笑うかのように目の前でじわりと広がった気がした。



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