039 skyout
流れる雲の向こうに、ヘリの小さな影が消える。
ふっと意識を失いかけて、ジインはかろうじて踏みとどまった。
背後のドアに体を預け、まぶたを閉じてゆっくりと深呼吸する。
まだだ。まだ倒れるわけにはいかない。
頭は内側から鈍器で殴られるようにずんずんと痛み、心臓はさっきからおかしなリズムで脈打っている。
鼻孔から、つうっと何かが流れ出る。拭った手の甲が赤く濡れた。
魔法の使い過ぎだ。
右胸の竜毒を押しとどめ、『神の左手』アジトから脱出し、『彩色飴街』からここまで空を飛んで、さらに魔法士団と全力で衝突した。
気術神経はとっくに限界を超えている。
脳内に響く警告を無視して、これ以上魔法を使い続ければ――。
「――よかった」
唇の端に安堵の笑みが浮かぶ。
そうだ、これでいい。
ソラの毒に冒されて死ぬよりも、ソラを守って死ぬ方がいい。ずっと、いい。
とっくに弾を使い果たしていた銃を足下に放ると、ジインは使えそうな術式を頭の中で思い描きながら、ゆらりと足を踏み出した。
術式を描くためのピアナ水溶液がないので大したことはできないが、何もしないよりはマシだろう。
カラカラと音を立てて『支柱晶』を引きずりながら、ジインは魔法士団との戦いに備えるべく思考を巡らせた。
――オレが死ねばよかったのに。
体が、熱い。
右脚からしゅうしゅうと湯気が上がる。
傷ついた体を修復しようと、再生力がフル稼働しているのがわかる。
けれど、もう遅い。
なにもかも、手遅れだ。
プロペラがばりばりと風を切る音を聞きながら、ソラは深く頭を垂れ、ただ呆然と床を見つめていた。
開け放たれたままのドアから流れ込む風が汚れた髪を揺らす。
ヘリの床板の冷たさが、両手を焼くよう。
呼吸と鼓動の音が、やけに耳障りだ。
「……どう、して……」
どうしてオレは、まだ息をしているのだろう。
この心臓が未だ止まらずに脈打っているのは、なぜなのか。
それが不思議で仕方がない。
だって、もう意味がない。
呼吸をして、脈を打って、この体を生かす意味が、もう。
無い。
「は……、」
何一つおかしくないのに、唇が笑みの形に歪む。
バカみたいだ。いや、“みたいな”じゃなくて、バカだ。
必ず助けてみせる、とか。
絶対に守ってみせる、とか。
大見えきって、突っ走って。
結局、何一つ守れなかった。
約束もジインも、何もかも。
誰のものとも知れない血で汚れた両手を見下ろす。
オレはいったい何だ?
ジインにとって、オレは。
――死だ。災厄だ。
ジインを毒で冒し、苦しめ苛んだ挙げ句、死地に追いやった。
悪魔だ。死神だ。最低最悪の、疫病神だ。
オレさえいなければ、ジインは。
ジインは――……。
「――っ、」
低く呻きながら、自分の顔に爪を立てる。
己に対するどうしようもないほどの憎悪と悔恨で、体が震えた。
消えたい。
死にたい。
殺したい。
もう、自分を、殺したい。
この手で、この爪で、この体をむちゃくちゃに引き裂いたなら。
だれか、オレのかわりにジインを生かしてくれないだろうか。
どん、という爆発音に顔を上げる。
ヘリはすでに陸島の側面を下降しており、ソラのいる位置から見える景色はかすんだ岩壁と雲だけだ。
ドアへ這いよる。同じように上空を見上げているメンバーの隙間から、ソラも上を見た。
白んだ空の向こう、雲の合間に、黒煙が見えた。
あそこはおそらく、竜の収容倉庫があるあたり。
「リダ班が収容庫の壁の爆破に成功したようです」
「竜忌避装置の無効化は?」
「第二区の一部と、第三区南部及び東部、第四区の北部を除く全域まで完了しました」
背後から淡々とした会話が聞こえた。
直接収容庫へ向かっていた別働隊が、収容庫を爆破したのか?
竜が個体別に収容されている捕獲機のロックは、直接捕獲機を操作しなければ解除できない。別働隊がどれほどの数の竜を解放できるかはわからないが、爆破の影響を受けた捕獲機から自力で脱出する竜もいるだろう。
竜は魔法士を狙って襲う。
解放された竜は、魔法士たちが集まっているヘリポートへ真っ先に飛んでいくだろう。
――あそこにはまだジインがいるのに。
これから起こるであろう惨劇が脳裏を過り、息が止まりそうになる。
瞬きも忘れて空を見上げながら、ソラはヘリの縁に強く爪を立てた。
行き場のない衝動が、肌の内で滞る。
何をどうあがいても、この手はもう、ジインへは届かないのだ。
もう、二度と――。
――……。
「!!」
聞き覚えのある音に、全身がぞくりと粟立つ。
頭の中に響く、美しい鈴の音。
この音は、あの時の――!!
とっさに耳を塞ぐ。こわばった体を恐怖が駆け抜けた。
細胞がざわつく気配に、心臓がばくばくと鳴る。
なんで。どうして、また。
また、竜になるのか。
吐き出す炎で人を焼き、牙で貫くあの化け物に――。
無意識に、防弾衣の上から廃工場の鍵を押さえる。
けれど、いくら待っても変化は現れなかった。
あの時と違い、鈴の音は薄布を一枚隔てたようにわずかに鈍い。
次第に静まっていく恐怖の代わりに、煮えたぎる憤りが臓腑の奥からわき上がる。
あの時、頭の中から突然響いたこの鈴の音が、自分を竜化させ、ジインを襲わせた。
この音のせいで、なにもかもが狂いだしたのだ。
この音は、いったい何。
不安と怒りとがない交ぜになった感情を腹の底に押しやると、意識を乗っ取られないよう可能な限り心を固くして、ソラはその音に耳を澄ました。
頭の中に響く、美しい音色。脳の奥底から発せられる、自分にしか聞こえない音。
これは――これは、“呼応”だ。
空から降ってくる“なにか”に、脳が反応している。
まぶたを開けると、ソラは身を乗り出して頭上を見上げた。
空から降る、目には見えない“なにか”。
その出所とおぼしき遥か上空にあるものは、
「……『神ノ庭』」
神が住まうとされる場所。竜しか立ち入ることの許されない、前人未到の領域だ。
そこから降ってくる“なにか”が、“ヒトガタ”を竜化させている?
――竜とは、何だ。
なぜ人にとり憑いて生まれ、なぜ魔法士を選んで襲う?
なぜ神の領域に守られて、何のために存在しているのか?
その答えが、そこにはあるのか。
竜となって、『神ノ庭』へ行けば――。
「――!」
はっとして、ソラは細胞がざわつく両手を見下ろした。
いま聞こえている鈴の音にはあの時ほどの強さはなく、体は人の姿を保つことができている。
けれど、もし、自分自身が強く望めば――?
鈴の音に合わせて波打つ胸の奥に、ひとつの可能性が芽生える。
――できるだろうか。
白んだ空を見上げる。巨大な岩壁の上の『ハコ』は、すでに見えない。
これだけ離れていれば、もし暴走しても再びジインを傷つける可能性は低い。
――イチか、バチか。
邪魔な防弾衣を脱ぎ捨てる。血と汗で汚れきった服の上で、ジインと揃いの鍵が揺れた。
「おい、なにをするつもりだ」
肩を掴まれる。すすや汗で汚れた残の顔が、心配そうにこちらを見下ろしていた。
「おかしなことを考えるな。あいつの言ったこと、聞いていただろう? “好きなところへ行って、好きに生きろ”……それが、あいつの望みだ」
「わかってる。だから、行くんだ」
その瞳をまっすぐに見上げて、言う。
“どこでも好きなところへ行って、好きに生きろ”。
そのジインの願いを、言葉通りに叶えるとしたら。
「オレにとって、ジインは世界だ。ジインを失ったら、オレはもう、生きていないのと同じだ」
行きたい場所は、ジインのとなり。
生きたいと思える場所も、ジインのいる世界にしかない。
だから行くのだと、迷いなく言ってソラは残を見上げた。
苦虫をかみつぶしたような顔で、残が低く唸る。
「“行く”って、いったいどうするつもりだ。……まさか、」
「もう、“これ”しか方法がない」
夜明け前の空に目をやる。地面はすでに遥か頭上で、下には空が広がるばかりだ。
「うまくいくかどうかなんてわからない。失敗すればそのまま空の藻くずだ。たとえ成功したとしても……うまく自分を保てるかどうか。それでも、そこに1ミリでも可能性があるのなら、オレは――」
うまくいかないかもしれない。
また暴走するかもしれない。
もしかしたら、最悪の場合、またジインを傷つける可能性だってある。
けれど、そこにたったひと欠片でも希望があるのなら。
その希望へ向かって。
「オレは、行く」
何か言いたげに開いた口を、残が無言のまま再び閉じる。
「愚かだな」
独りごとのように言って、レインネインが笑う。
けれどそれは、辛辣な言葉とは裏腹などこか小気味よい笑顔で、
「でも、愚か者の一途さは嫌いじゃない」
言いながら、レインネインは足下の黒いケースを開けて銃を手に取った。
「行くなら早く行け、“ヒトガタ”。ここももうすぐ騒がしくなりそうだ」
言われて、雲の向こうに数機のヘリの気配があることに気づく。
空の向こうを睨んだ残の大きな手が、ソラの頭をぐしゃりと一度撫で、そして離れた。
メンバーから武器を受け取る残に背を向け、ひざ立ちで空へまっすぐ向き直る。
雲をはらんだ風が、頬をかすめた。
廃工場の鍵を強く握る。
「飛べ、“ヒトガタ”」
深く息を吸うと、ソラは細胞のざわつく体を空へと投げた。
胃の浮くような感覚が襲う。
空気の固まりが口や鼻を塞いで、息ができない。
凍てつく風の刃が、全身をめちゃくちゃに切り裂くようだ。
ごうごうと風を切る音が耳を塞ぎ、体が凄まじい勢いで雲を突き抜けていく。
鼻が、耳が、指先が、もげそうなほどに冷たく、痛い。
かすむ視界の先、遥か下空では、巨大な黒い円のように見える『空ノ底』の東縁がぼんやりと光っていた。
夜明けが間近に迫っているのだ。
このまま落下し続けたら、いつかは『空ノ底』に激突する。
“ヒトガタ”は魔法で“核”を壊されない限り死ぬことはないけれど、すべてを消し去る『空ノ底』に呑み込まれたら、さすがにひとたまりもないだろう。
りん、と高い音がした。
重なりだした鈴の音が旋律となって、頭を占めていく。
覚悟を決めて心を開き、その音に身を委ねると、今まで気づかなかったことが見えてきた。
空から降る目に見えないもの。これは、記号だ。
『神ノ庭』から降る記号の羅列が、脳の奥から鈴の音を引き出している。
ちゃんとした言語ではない、けれど確かな目的を持った“なにか”が脳と共鳴し、体中の細胞をビリビリと震わせる。
これは……これは、命令だ。
シタガエ。従エ。
大イナル意志ニ、従エ。
――ふざけるな。
怒りの思考を、“謎の声”にぶつける。
大いなる意志?
そんなもの、クソくらえだ。
全神経、全細胞で、ソラはそれを拒んだ。
神さまか何か知らないが、得体の知れない奴の命令などに従うものか。
もしも、この世界に神さまがいるとしたら。
オレにとって、それはジインだ。
ジインがオレの神さまで、世界の中心だ。
ジインを失ったその時が、オレの世界の終わり。
だから、行く。
骨がきしみ、内側から体が変わる。細胞がばらけて、“ソラ”の形が失われていく。
――二度と元には戻れないかもしれない。
それでも、いい。
それでもオレは。
最後の、最後まで。
ジインを――……。
ほとばしる咆哮が、夜明け前の空を震わせた。