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ソラニワ  作者: 緒浜
35/53

035 運命の輪は回りだした

 電動ドアが音もなくスライドする。

 視界が一瞬白で埋め尽くされたあと、水色が一面に広がった。

 強い風が頬を叩き、制服の裾をはためかせる。

 視界に存在するのは、明灰色の床と柵、雲のたなびく青空と、濃紺の制服がただ一人だ。

 その姿を探し歩くこと数十分。空とこちら側を隔てる柵の前にその姿をようやく見つけ、瑞彦はため息を吐いた。

「探したぞ」

 言いながら歩み寄り、濃紺の制服近くの柵に寄りかかる。

「端末、何度も鳴らしたんだが」

 無反応な相手の頭上から嫌みのこもった声を降らせる。柵に背中を預けて座り込み、立てた片膝に顔を埋めていた少年が、そこでようやく顔を上げた。緩慢な動きで腕の端末をちらりと見ると、黒瀬はかけらも興味がなさそうに言った。

「気づかなかった」

「……だろうと思ったよ」

 空からの強風が髪をなぶる。ここは防護ドームの外だ。竜の襲来や悪天候から区域を守るため、魔法院はそのほとんどが合成強化アクリルの防護ドームで囲われている。しかし緊急避難用ヘリポートとして使うために、防護ドームから突き出た箇所がいくつか存在する。

 その中の一つであるテラスは、今日も閑散としていた。それもそのはずだ。ただ広いだけでベンチの一つもなく、院生の講義室からも離れているこの場所を、貴重な休憩時間を費やしてまでわざわざ訪れる人間などいない。

 隣に座る黒髪の少年と、それを度々探しにくる自分以外は。

 今日は特に風が強いらしく、空気の固まりがひっきりなしに顔を叩いて呼吸がしづらい。

 確かに爽快感はあるかもしれないが、見晴らしがいいだけでこれと言って面白みもないテラスに足しげく通う黒瀬の気が知れない。

 目に入りそうな前髪をかき上げ、裏返る上着の裾を払い落としながら、瑞彦は呆れ顔でぼやいた。

「まったく、物好きだな。そんなにソラが好きなのか?」

 黒瀬がはじかれたように顔を上げる。かすかに見開かれた瞳と、少し開いた唇。感情を表すことが極端に少ないその顔に、驚愕の表情がありありと浮かんでいた。

 何かおかしなことを言っただろうか。滅多に見ることのないその表情に逆に困惑して、瑞彦は言い訳するように言った。

「いや……いつも見てるだろう? ここにもよく来てるし、好きなんじゃないのか?」

「……ああ、“空”か」

 こちらを見上げる夜空色の瞳が、見る見るうちに興味を失う。

 不可解な反応のわけを問いただそうと口を開きかけて、瑞彦はふと動きを止めた。

「どうしたんだ、その唇」

 右の唇の端、ほとんど口の内側に近い場所に、赤い傷がちらりと見えた。

「……べつにどうもしませんけど」

 不機嫌そうに言って、黒瀬がそっぽを向く。

「どうもしないわけないだろう。そんな傷、いったいどこで」

「どこだっていいでしょう」

 片頬を隠すように顔を背けながら、黒瀬が立ち上がる。そのまま立ち去ろうとする肩を掴むと、瑞彦は無理やりこちらへ振り向かせた。

「おまえな、ひとが心配してるのにそういう態度は、」

 ひときわ強い風が吹く。黒瀬の頬にかかっていた黒髪が、ふわりと舞い上がった。

 思わず息を呑む。

「黒瀬……」

 青く腫れ上がったまぶた。赤い色のにじむこめかみ。

 顔の左側に集中しているそれらの傷は、明らかに誰かに殴られた痕だった。

「おまえ……どうしたんだ、それ」

「べつに。ちょっとぶつけただけです」

「うそつけ。ぶつけたくらいでそんなふうになるはずないだろう。見せてみろ」

 髪を払いのけようと伸ばした手は、届く前に勢いよく払われた。

「放っておいて下さい」

 突き放すような眼差しが、双眸を射る。

 行き場のなくなった手を握り込むと、締め付けられるように胸がぎゅっと痛んだ。

 気まずい沈黙の合間を、風が吹き抜けていく。

「……すみません」

 きまり悪げに視線をそらした黒瀬が、ぽつりと呟く。

「寝ぼけて、ベッドから落ちたんです。見た目ほど痛まないし、大した傷じゃない。気にしないで下さい」

「でも、」

「それより、何か急ぎの用があったんじゃないんですか」

 この話はこれで終わり。これ以上は訊くなという言外の態度と、騙されてやる気も失せるようなあからさまな嘘に、ふざけるなという言葉が喉まで出かかる。

 なぜ、どうしてそんな傷が?

 その傷の向こうに、いったい何を隠している?

 目の前の少年に関して知りたいことは山ほどあるが、いくら問い詰めても黒瀬は決して答えないであろうことを、瑞彦はこの数ヶ月で学んでいた。

 ともに過ごした時間と比例するように増えていく、“なぜ”、“どうして”。

 一歩近づくたびに、あいだに横たわる溝の深さを思い知らされるばかりだ。

 ほんの少しでいい。その痩身に抱え込んだ暗く冷たいなにかを、ともに背負わせて欲しい。

 その願いが叶う日は、果たして来るのだろうか。

「……縞野導師から晩餐のお誘いがあった。この間の課研の発表を気に入って下さったらしい。今夜なんだが、おまえも一緒に来ないか」

「遠慮しておきます」

 いっそ清々しいほどの、すげない一言。予想どおりの答えだ。

 覚悟していたはずなのに心のどこかで気落ちする自分を嗤いながら、瑞彦は一応食い下がってみた。

「おまえ、あの縞野導師だぞ? 古代資料から新たな構築式を考案した複合式術研究の第一人者だ。導師だけじゃない、今夜の晩餐には廉堂範師もご同席なさるらしい。エミハユラ定理の新解釈についての話も聞けるかもしれないんだ。こんな機会は滅多に……」

「おれの代わりに沢木さんが聞いておいて下さい」

 式術研究の権威である導師の誘いをにべもなく断って、黒瀬が歩き出す。

 肩が触れる距離ですれ違う瞬間、ふいに衝動が突き上げた。

「っ、」

 とっさにその腕を掴む。

 わずかに驚いた顔が、振り向いてこちらを仰ぎ見た。

 青と緑の層を幾千幾万と重ねたような深い色の瞳が、ゆっくりと瞬いて瑞彦を映す。

「まだ、何か?」

「あ……いや、べつに」

 瑞彦自身も、自分の唐突な行為に戸惑っていた。

 何でもないと首を振り、きつく掴んでいた腕を放そうとする。

 けれど、指が動かない。

 どうしてだろう。理由はわからないけれど。

 この手を、放してはいけない気がした。

「――沢木さん?」

 瑞彦の不可解な行動に、黒瀬が怪訝そうに首を傾げる。

 無理やり引きはがすようにして、瑞彦はゆっくりとその手を放した。

 しばらくの間いぶかしげにこちらを見ていた黒瀬が、すいと視線を逸らして歩き出す。

 裾がはためく後ろ姿を眺めながら、瑞彦はざわつく胸を押さえた。

 この不安は何だろう。

 この胸騒ぎは、何だろう。

 胸から離した右手を、そっと見下ろす。

 この手で確かに掴んだはずの感触は、強い風にさらわれてすでに消え失せていた。




「手が止まってるわよ、瑞彦」

 言われて我に返る。かき消えたテラスの代わりに視界に飛び込んで来たのは、暖かみのある照明と白く輝くテーブルクロス、そして宝石のように並べられた料理だ。

「ああ……すまない」

 握ったままだったナイフとフォークを一度置くと、瑞彦は込み上げるため息を目の前の少女に悟られぬようそっとかみ殺した。

 グラスを手に取って、水を含む。外国産の、かすかに甘みのある軟水だ。

 喉元を落ちていく無色透明の液体とともに、胸のわだかまりも綺麗さっぱり消え去ってくれればいいのにと、瑞彦は願った。

 第二区の北部――企業家や有力者の巨大な邸宅が集まる高級住宅地に建つ沢木家本宅の一室は、ただただ静かだった。

 窓の外に目をやる。片側の壁一面に広がる窓ガラスには、群青に浮かぶ新市街の夜景が煌めいている。

 人工の明かりに照らされて滲む夜空の色を誰かの瞳と重ねかけて、瑞彦は窓から目をそらした。

「ぼんやりするのはかまわないけど、食事の手を止めるのはやめて。せっかくの料理が冷めたらもったいないわ」

 瑞彦がグラスを置くのを待ってから、少女は始終うわの空の相手をとがめるふうでもなくさらりと明るい声で言った。 

 すっと通った鼻筋に、一重の瞳。きりりと涼やかな目元にぽつりと浮かぶ泣きぼくろが、さっぱりとした顔立ちに一雫の色香を与えている。

 まっすぐな黒髪をかっちりとしたシニョンにまとめ、深い紺色のシンプルなワンピースに身を包んだ律子は、幼い頃から教え込まれた気品と落ち着きを指先まで漂わせながら、皿の上の料理をわずかな音も立てずに切り分けた。

「それと、私の前では無理しないで。ため息ぐらい好きなだけ吐いてちょうだい」

 さらりと言われた言葉に苦笑いする。やはり見抜かれていたらしい。

 鋭い洞察力と、感情に流されない冷静な分析。幼い頃から、人間観察に関して律子の右に出るものはいなかった。

「苦悩する男性の姿って結構魅力的なのよねえ」

 かと思いきや、今度は旧家の令嬢とは思えない笑い方で、うふふ、と笑う。時折おかしな言動が飛び出るところも、昔から変わらない律子の特徴だ。

 黒瀬の逃亡を手助けするという背反行為によって、魔法院長老会より厳重注意及び無期限謹慎を言い渡されてからというもの、瑞彦の周囲は劇的に変化した。とばっちりはごめんだとばかりに離れていく者、取り入る好機と見て逆に近づいてくる者。絵に描いたように品行方正であったはずの沢木家長子の乱心を嘆く者、逆にその不祥事を影で喜び祝う者。瑞彦の身を心から案じて親身に諭してくれる者もいれば、かたや己の保身のために必死で見当違いの助言をしてくる者もいる。その反応は実に様々で、今まで見せなかった一面をさらけ出して皆々が右往左往するその様を、瑞彦は興味深く静観した。

 今まで友人だと思っていた人間が手のひらを返したように冷たくなったり、その反対に今まであまり付き合いのなかった人間が損得に拘らない人間味のある反応を示してくれたりもして、瑞彦は人という生き物の多様性とその深みにある種の感動すら覚えていた。

 赤ん坊の頃からの付き合いである律子は以前と少しも変わらないままでいてくれた数少ない人間の一人だ。

 二人の間に流れる穏やかな空気に安らぎを覚えつつ、瑞彦は皿の上の料理を切り分けて口へと運んだ。ふわりと香る香草と、胡椒のぴりりとした辛み。やわらかな食感と温かな肉汁が口中に広がる。

「美味い」

 思わず漏れた呟きに、律子が満足げに微笑む。

「でしょ? このまえ見つけたお店のシェフに無理を言ってわざわざ来てもらったの。この家のお料理ももちろんおいしいけど、たまにはこういう趣向もいいわよね」

「こんなに優雅に食事をしていていいんだろうか。一応謹慎中なんだが」

「あら。謹慎中だからこそ、よ。気が鬱ぎがちな時こそ、おいしいものを食べて気分転換しなくちゃ。無理に元気になろうとするのはよくないことだけど、いつもと違うことをしたり美味しいものを食べたりして気分を変えるのはいいことだと思うの。ふふっ、まあ本当は、私がただあなたと美味しいものを食べたかっただけなんだけどね」

 もってまわった言い方や真実を包み隠すことを好まず思ったことを何でも口にする性格は、損得勘定の計略が交錯する魔法院では貴重な存在だ。魔法院一の大家の長男としてその計略のまっただ中で生きている瑞彦は、彼女の存在に何度救われたかわからない。一歩間違えれば差別的で狭量な人間に成長してしまいがちの魔法院で、瑞彦が人として最低限の誠実さを保ったまま育つことができたのも、幼い頃から婚約者と定められ共に過ごしてきた律子の人格によるところが大きかった。

「それに、あなたの謹慎はもうすぐとけるわ。だからこの食事はその前祝いってことで」

「上に働きかけてくれたのか」

「働きかけたってほどでもないわ。“瑞彦には院に逆らうつもりなんてこれっぽっちもありません。彼はただ、余命わずかな友人を見捨てられなかっただけなんです”……って、おじいさまに直接訴えてみただけ」

 直前に目薬さしてね、とあっけらかんと付け加える律子に、瑞彦はあきれ半分感心半分で、

「安城のおじいさまは相変わらず孫娘に弱いんだな。でも、助かった。ありがとう」

「うふふ、涙の代金はスターレット・タワーのアップル・シナモン・クレープでいいわ」

「涙じゃなくて目薬だろう?」

「あら、少しは本物も混ざってるわよ? おじいさまの話が長過ぎて、途中で何度もあくびをかみ殺したもの」

「なるほど。本物の涙なら、クレープだけじゃ安すぎるな」

「婚約者割引の特別価格よ。本当はもっと高いんだから」

 このくらいの真珠のピアス程度にはね、と言いながら、律子が人差し指と親指で円を作ってみせる。

「ピンポン玉? 国宝級だな」

「そうよ。滅多に泣かない私の涙には値千金の価値があるの」

 おどける律子に、瑞彦は胸に手を当て慇懃に頭を下げてみせた。

「それでは、大粒の真珠の代わりに、クレープには大きなバニラアイスをお付けいたしましょう」

 律子の瞳がきらりと光る。

「キャラメル・ティーも?」

「ミルクたっぷり、何杯でも飲み放題で」

 顔を見合わせて、二人は笑った。心地よい、明るい笑いだ。

 スターレット・タワーへ行く時は真珠のピアスを用意していこう。国宝級のピンポン玉はちょっと無理だけど、少し小さめな律子の耳に似合う、シンプルで可愛らしい真珠のピアスを。

 “あんなの、ただの冗談だったのに”

 あきれ顔で、律子はそう言うだろう。

 “これじゃあ、私がおねだりしたみたいじゃない”

 そんなふうに言って、少し怒るかもしれない。

「……できるだけ小さめの粒にしておいたほうがよさそうだ」

「え? いまなんて言ったの?」

 首を傾げる律子に、なんでもないと頭を振りかけて、瑞彦はふいにわき上がった別の言葉を口にした。

「ありがとう」

 ここにいてくれたのが律子でよかったと、心から思う。

 胸の奥からわき上がった言葉を、ぐっと噛みしめるように瑞彦は言った。

「律子が側にいてくれて助かった。本当に感謝している。小雪のことも、北見のことも」

「お礼を言われるようなことはしてないわ」

 小雪と北見、二人の名を聞いた途端、律子は小さく肩を落とした。

「二人に関しては本当に力になれなくて……北見くんなんて、沢木の家の人たちが彼に全責任をなすり付けようとするのを回避させるのが精一杯だったわ」

「面倒なことを押し付けて、本当にすまない」

「謝らないで。あなたのせいじゃないわ。そもそも院の人たちの頭が固すぎるのよ。排他的で狂信的。頭にあるのは出世と保身のことばかり。いつだって自分の利益しか考えないんだから」

 苛立たしげにぼやきながら、律子がため息を吐く。

「小雪ちゃんには笹原長老がついているから、処遇の心配はあまりしてないの。それよりも、問題は小雪ちゃんの気持ちね」

「気持ち……」

「付き合っていたんでしょう? あの彼と。初めて聞いた時は私も驚いたわ。二、三度しか顔を合わせたことがないけれど、なんというか、彼は……誰かと楽しく恋愛できるような人に見えなかったから」

 蓄積されたデータを分析する科学者のような顔つきで、律子は言った。

「実際、彼は小雪ちゃんに一言の断りもなく魔法院から出て行った。突発的なことが原因でしかたなく背を向けたんじゃない。長い時間をかけて準備して、これから起こることをすべて覚悟した上で出て行ったのよ。元々ここを去るつもりだった彼がいったいどういうつもりで小雪ちゃんと付き合っていたのか、私にはわからない。でも、少なくとも小雪ちゃんは彼を愛していた。心が通じ合っていると信じていた人が、何も告げずに突然いなくなって……しかも、今まさに命を落としかけているなんて……そんなの、とても受け入れられる話じゃないわ」

 沈痛な面持ちで、律子が視線を落とす。

「今日もここへ来る前に小雪ちゃんのところへ寄って来たの。私の前では平気なフリをしているけれど、それが逆に痛々しくて……」

 かわいそうにと眉をひそめて、律子はため息まじりに呟いた。

「まったく、あなたも小雪ちゃんも、本当に厄介な人に惚れ込んだものね」

 厄介な人。その表現が妙にぴったりで、瑞彦は思わず苦笑いした。

 惚れ込んだ、という言い方には若干語弊があるような気がしたが、代わりになる言葉が見つからないということは、中らずといえども遠からず、といったところなのかもしれない。

 凛としたまなざしと鮮烈な存在感で誰彼かまわず惹き寄せて、時折見せる心もとない横顔で側にいる者に思わず手を差し伸べさせるくせに、刃のような孤高さで他者の近接を許さない。

 この上なく厄介な人間。

 けれど、もう、いない。

 急に息苦しさを感じて、瑞彦は襟ぐりを緩めた。

 あの時渡した薬は、もう使ったのだろうか。

 あの瞳は、まなざしは。

 透明な笑顔は、まだこの世界に存在しているのだろうか。

 ――ありがとう、沢木さん。

 どこまでも透きとおるような最後の笑顔を思い出しかけて、瑞彦は思わず目をつぶった。

「瑞彦……?」

 ばくばくと脈が乱れ、喉が詰まる。

 込み上げる情動が通り過ぎるのを、瑞彦は静かに待った。

 なあ、黒瀬。

 人の心を掴んだまま消え去るなんて、あまりに始末が悪いと思わないか。

 やわらかな指が手を包み込む。律子の気遣わしげな瞳が、こちらを見つめていた。

「あなたは精一杯やったわ。沢木家の長子という難しい立場でありながら、できる限りのことをした。最後まで、彼に対して誠実さを失わなかった。婚約者として、友人として、私はあなたを誇りに思う。本当によくやったわ。でも、もう終わったの。これ以上、あなたにできることはないのよ。こんな言い方は冷たいかもしれないけれど、あとは彼の運命に任せるしかない」

 手に力を込めて、律子が言う。

「回りだした運命の輪を止めることは、誰にもできないのよ」

 律子の言葉を聞いて、気づく。

 黒瀬の腕を掴んだあの時。

 あの瞬間に、自分が引き止めたかったのは。

 黒瀬ではなく、黒瀬の運命だったのかもしれない。

「運命の輪を止めることは、誰にもできない……」

 その言葉を噛みしめて、飲み下す。

 そう、すべてはもう終わったことだ。

 それでも、この悔いが、想いが、尽きることはないのだろう。

 胸でわだかまる行き場のない感情を奥の奥へと押しやって、瑞彦は窓の外に広がる夜を見た。




 どさり、と重い体が床へと落ちる。

 一撃で気絶させた警邏兵の体からカードキーを探し出すと、ソラはパネルを操作してパスワードを打ち込んだ。

 肩に受けた銃創から、しゅうしゅうと湯気が上がる。

 体が熱い。まるで蒸し風呂の中に放り込まれたみたいだ。

 あごから滴る汗を手の甲で拭うと、カードキーをセキュリティーパネルに通して再びパスワードを入れる。

 定期的に変わるパスワードの組み合わせは、ジインの端末内のデータから算出したものだ。

 ポオン、と丸みのある電子音とともに、モニターに文字が表示される。

 “第一検問所 車体番号WCO3015D4S-0446の通行を許可しますか?”

 銃声とともに背中に衝撃を受け、ソラはパネルの上に突っ伏した。焼けた鉄を押し付けられたかのように、腹部が熱くなる。

 振り返ると、入り口近くで倒した警邏兵の一人が立ち上がり、こちらへ銃口を向けていた。

「う……動くな……!」

 怯えと嫌悪が入り交じった視線にゆらりと向き直ると、ソラは一息でバネのように飛び上がり、デスクを踏み台にして跳躍した。

「ひ……っ!」

 ソラが跳んだ軌跡を、銃弾がむなしく通過する。

 空中で体をひねると、ソラはその勢いで警邏兵の横つらを蹴り付けた。逃げ出そうとしていた体は吹っ飛んで壁に激突し、動かなくなる。

 まずい。死んだかな。

 手加減はしたつもりだったが、警邏兵の首が折れていないことを願いながらソラはずたずたの腹部を押さえて着地した。

 ぱたた、と床に血痕が散る。

「ば……ばけ、もの……」

 数歩離れた床から掠れた声が上がる。声の主の警備兵を一蹴りで黙らせると、ソラはセキュリティーパネルのほうへと向き直った。

 急激に吐き気がこみ上げて、その場に嘔吐する。どす黒い赤と鮮やかな赤が混じり合った液体を床にぶちまけた。鉄臭い、嫌な匂いが鼻を突く。ぜえぜえと肩で息をしながら、ソラは震える手を見下ろした。

 先ほどまでの熱さはきれいさっぱり消え失せて、今は震えるほどに寒い。きっと、血を流し過ぎたせいだろう。

 けれど、まだ動ける。

 口元を拭いながら、ソラは己の体を冷静に観察した。

 銃弾の貫通した穴から、どくどくと流れ出る血。内蔵も確実に傷ついているだろう。もちろん痛みもあるけれど、すぐに塞がる傷とわかっているので耐えられるし、もしかしたら、一般的な人間が感じるそれよりも苦痛は少ないのかもしれない。

 手指を握ったり開いたりしてみる。若干反応が鈍い気もするが、それでも常人よりは俊敏に動けている。

 これほど血を流せば、普通ならショック性なんとかで、とっくに動けなくなっているはずだ。

 きっと普通の人間とは基本的な構造が違うのだろう。

「ほんとうに、ばけもの、だな」

 絞り出すように呟いて、辺りを見回す。『ハコ』の第三棟のセキュリティー、及び地上経由の大型貨物用搬入経路を管理するセキュリティールームには、ソラが倒した警邏兵が累々と転がっていた。

 ジインの端末に保存されていたセキュリティー情報とソラの超人的な身体能力を駆使しながら、燃料倉庫からここまで一気に攻め込んだ。

 多勢にも臆さず、銃口にも怯まず。

 銃弾が体を貫くのも構わずに、突き進み。

 撃たれても撃たれても、決して止まらずに。

 その狂ったような猛進ぶりで、相対するものに恐怖を植え付けながら。

「……化け物なら、化け物らしく、ね」

 腹部からしゅうしゅうと湯気が立つ。

 パネルの前へ戻ると、ソラは血で濡れた指先でキーを押した。

 血痕の散ったモニターの表示が緑色に変わる。

 “第一検問所 車体番号WCO3015D4S-0446の通行を許可します”

 これでレインネインたちの乗った車両は、第一検問所を通過して地雷の埋まる荒野の誘導路を通り、第二検問所へ到達することができる。第二検問所とそこからの経路は、武力行使で強行突破する予定だ。

 気絶した警邏兵の服を剥ぎ取る。どっしりと血を吸った服を脱ぎ捨てると、ソラは警邏兵の制服に身を包んだ。服の下からにじむ血を防弾衣で覆い隠し、足下に転がる銃を拾い上げる。

 ここからが本番だ。

 警備がさらに厳しい第二セキュリティーポイントを抜けて、上階のデータ室へ。

 目の前の巨大なモニターの端には、第二セキュリティーポイントを含む上階の各部屋が映し出されている。人気の少ない施設内はどこも静かで、侵入者の来襲に気づいた様子はない。

 朱世から譲り受けたプログラム・チップは、モニタリング情報をダミーのものにすり替え、ソラの侵入をうまく隠蔽してくれているようだ。

 気絶した警邏兵の一人を担ぎ上げる。この先のエレベーターで、生体認証が必要なのだ。

 この上なく無謀で、力任せな計画。

 果たしてうまくいくだろうか。

 しゅうしゅうと湯気を上げる胸に手を置いて、お守りの鍵に祈る。

「……だいじょうぶ」

 大丈夫。オレは、化け物だ。

 どんなに傷ついても死なない。倒れない。怯まない。

 このまま不死身の体でどこまでも突き進み、望む未来を勝ち取ってみせよう。

 そう、この化け物の力で。

 運命だって、ねじ曲げてみせるよ。



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