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ソラニワ  作者: 緒浜
28/53

028 Black Pain

「では、おまえが作戦に加勢すると?」

 紅を差さずとも十分に赤い唇が、にいっと大きな笑みを作る。笑みを浮かべていても決して鋭さを失わない双眸を見据えて、ソラは言った。

「その代わり、ジインをこのままここで匿って下さい」

 電灯の下を細かな埃が過っては消える。十分な明りの届かない部屋の隅に腰を据えている暗がりは、黒く深くどこか剣呑だ。

 無言のまま、レインネインは手元の銃に視線を戻した。かしゃん、かしゃんと小気味いい音を立てながら驚くような速さで銃が組み上がっていく様子は、まるで魔法のようだ。

 鮮やかな手さばきで組み立て終えた銃を、レインネインは優雅な動作で構えてみせた。

「あまりいい案とは思えんな」

 銃身に顔を寄せその出来を確かめながら、レインネインが呟く。

「そもそもおまえに何ができる? 『ハコ』の情報の代わりと言うのなら、それなりに役に立ってもらわねば割が合わない」

 壁を向いていた銃口がつい、と逸れる。銃口とともに向けられた視線が、ソラのつま先から頭までゆっくりと舐め上げて、

「見たところ、あまり役に立ちそうには見えないが」

 顔の中心に照準が定まるのを感じながら、ソラは臙脂色の瞳をまっすぐに見据えて言った。

「オレは死にません。ケガをしてもすぐに治るし、目も耳も鼻もいい。あまりそう見えないかもしれないけど、力も強い」

 テーブルの端を掴むと、ソラは片手でひょいと持ち上げてみせた。並べられた複雑な形の部品類を一つも揺らすことなく、きれいに水平を保ったまま浮き上がったテーブルを見て、レインネインが片眉を跳ね上げる。

「なるほど」

「匂いをたどって追跡したり、遠くの会話を盗み聞くこともできます。先頭に立てば敵の気配をいち早く察知して回避できるし、弾丸が飛び交う中だって恐れずに進める。戦い方さえ教えてもらえれば、どんな相手にも負けません。“ヒトガタ”の身体能力は本当に普通の人間と比べ物にならない。何日も寝ずに過ごせるし、飲まず食わずでも平気です。三日三晩休みなしでも動けます。絶対に役に立つ。どんな危険な役でも何でもします、だからオレを使って下さい」

 その代わり、と間を置いて、眼差しを強くする。

「その代わり、ジインをこのままここで匿って下さい。何かを強要したりせず、ただ安静に」

「魔法士を匿う対価を、“院の情報”ではなく“おまえ自身”にしろと?」

「そうです。何をどうしようとジインは絶対にしゃべらない。だから代わりにオレが対価を」

「兄を助けるために『ハコ』のデータが欲しいと言っていたな」

 射抜くような眼差しが、すうっと細められる。

「院の情報は渡さないまま兄を匿わせて、その対価と称して作戦に参加しデータも手に入れる。ずいぶんと都合のいい話だと思わないか?」

 ほっそりとした指先が引き金にかかる。

「我々が欲しいのは『ハコ』のセキュリティーデータで、“ヒトガタ”ではない」

 銃身の先にぽっかりと空いた黒い穴が、こちらを凝視する。

 弾は入っていないと分かっていても、臓腑のあたりがぎゅっと縮こまる。

 かすかな怖じ気を押し殺して、ソラはわざとゆっくり言葉を紡いだ。

「セキュリティーデータはジイン以外の人間からでも手に入れられると言っていましたよね? だったらそちらのルートで入手すればいい。でもテロに手を貸すなんて申し出る“ヒトガタ”は国中を探してもオレしかいません」

「目の前のセキュリティーデータよりも、自分の方が貴重だと?」

「そうです」

 赤い大きな唇が声も無く笑う。

「人を撃ったことは?」

「ありません」

「人を殺したことは?」

「……覚えていませんが、竜化していた時には、もしかしたら」

「人の姿で人を殺したことは?」

「……ありません。でも……」

 言葉を切り、息を吸い込む。

 覚悟を、示さなければいけない。

「殺せと言うのなら、殺します」

 眼差しをまっすぐに保ったまま、良心の悲鳴を悟られぬようはっきりとソラは言った。

 自分の言葉がずしりと臓腑にのしかかる。

 人を殺す。命を奪う。

 絶対に許されるはずのない行為。

 その重みが、体を、心を、奈落の底へと引きずり込もうとする。

 この手を誰かの血で染めたら。

 闇に堕ちた自分を、ジインは決して許してはくれないだろう。

「竜化する可能性は?」

「え?」

「作戦中に突然竜になられても困るだろう。まあ、それはそれで攻撃手段の一つとして使えそうだがな……もう一度竜化する可能性はあるのか?」

 もう一度竜になる可能性。

 その危険について、考えないわけではなかった。

 けれど。

「たぶん……その可能性はほとんど無いと思います」

 自分の体の隅々までに意識を向けてみて、ソラは慎重に言った。

「人の形から竜の姿になることは、何というか……簡単なことではないんです。体中の細胞が一度バラバラになって、まったく別の生き物に再構築される。うまく言えないけれど、肉体が一度死んで、もう一度蘇るような感覚です。そうそう起こることじゃない」

 あれ以来、あの“鈴の音”も聞こえない。

 時折、似たような音を聞きつけてぎくりとする瞬間があるけれど、それは大抵、金属同士がぶつかり合った音だとか、何かを落とした時の音で、頭の中で鳴り響くあの音とはまったく別物だった。

 数年先のことまでははっきりと断言はできないが、少なくとも数日のうちに再び竜化する可能性はないように思えた。

「兄はどうする? あの様子では、おまえが作戦に参加するなどとても承諾しそうにないが」

「ジインには言いません。これはすべて、オレが一人で勝手にすることです」

 一人で、という箇所を強調する。

 何も知らないジインに非はない。

 これから生まれる罪は、すべて自分が負うべきものだ。

「オレはジインさえ助かればそれでいい」

 そう、どこの誰がどうなろうと。

 この命が尽き果てようと。

 ただジインさえ助かれば、それでいい。

「いい目だな」

 赤い唇がにっと笑う。

「狂気に片足を突っ込んだ人間の目だ」

「狂気……」

 誰かが扉を小さく叩く。続いて男の声が控えめに時を告げた。

 面談はこれで終わりだ。

 退出を促すように扉が開かれ、銃を置いたレインネインが立ち上がる。

「待って下さい」

 まだ返事を聞いていない、と眼差しで訴えるソラに、否とも応とも言わないまま、レインネインはただ笑みを深めて部屋を後にした。




「どうだった?」

 角を曲がり、二人きりになった通路で残が訊ねる。

「わからないけど……感触は悪くないと思う」

「そうか」

 残の横顔に安堵が滲む。

「ありがとう、レインネインに掛け合ってくれて」

「いや、俺は繋ぎを付けただけだ」

「色々とごめんね」

「……こっちこそ悪かったな」

 歩きながら、ぶっきらぼうに残が言う。

「おまえたちを苦しめるつもりはなかったんだ。むしろ助けるつもりで連れて来たのに、これほど話がこじれるとはな。まさかあいつがあんなに拒むとは思わなかったから」

 ここ最近二人して癖になってしまったため息を吐いて、残は吐き捨てるように言った。

「まったく、あれほど脅しても聞きやしない。何なんだ、あいつは」

「うん。ジインは昔から変なところですごい頑固だから」

「頑固にも程があるだろう。いつからああなったんだ? 透也の群にいた頃は素直で可愛い奴だったぞ。でっかい目をきらきらさせながら透也の後ろにくっついて歩いて……ああでも、そういえば、俺の群に誘った時も頑なに断ってたな。あの頑固さは生まれつきか?」

「えっ、ジインを群に誘ったの?」

 初めて聞く話に、ソラはくるりと目を丸くした。

「ああ。透也の群があいつを残して全滅したすぐ後にな。俺の群もあの大寒波でリーダーが死んで、俺が代わりに群をまとめることになって……赤ん坊のおまえを抱いて一人きりだったあいつを、おれが直接誘ったんだ」

「それで、ジインは?」

「きっぱり断られたよ。“おれはひとりしか守れない”……そう言われてな。あんなチビに守ってもらおうなんて考えもしなかったから、ものすごく驚いた。その後も、赤ん坊を抱えて一人で生きようとするあいつが何だか放っておけない気がしてな。何度か誘ってみたんだが全部断られた。そのうちに、死にものぐるいで“仕事”をするあいつと縄張り云々で何度か衝突して、疎遠になって……また立ち話をするようになったのは二葉が生まれてからだな。でも今考えると、あいつの言っていたことは正しかったのかもしれない」

 通路の先をまっすぐに見据えながら、残が言う。

「仲間になれば情が移る。情が移れば、失いたくないと思う。失いたくないから、守ろうとする。守るべきものが多ければ多いほど身動きがとれなくなって、結局多くを失うことになりかねない。失うってのは本当に辛い。それをわかっているからこそ、他のことをすべて切り捨ててもただ一人だけを守ろうと決めたんだろう」

 寂しさの過る横顔に、そっと問いかける。

「朱世には連絡しないの?」

「……もう関われない」

 ぼそりと残が言う。

 足の下でがちり、と金属音が鳴った。

 壁と壁の狭間に横たわる奈落に梯子を渡しただけの小さな橋だ。

 光の届かない奈落の底は、ソラの尋常でない視力をもってしても見ることはできない。

 こんな隙間が、このアジトには数えきれないくらいある。

 かんかんと甲高く響いていた靴音が突然鈍くなる。トタンや鉄板、様々な素材を寄せ集めて作られた廊下は、一足ごとに足音が変わった。

 一番遠い部屋から部屋までは数キロもあるというアジトは南北に長く伸びており、その構造は蟻の巣のように複雑で難解だ。すぐ上に部屋があるとわかっても、そこへたどり着く道順がすぐには見つからない。

 隙間から入り込む風が匂いを押し流し、音や声も複雑な構造に跳ね返り響き合うため、どちらも道標としては使いにくかった。

 いくつもの角を曲がり、数えきれない小さな橋と段差を越えてようやく戻った部屋の手前で、ソラはふと違和感を覚えた。

 部屋の前でいつもだらだらと暇を持て余している見張りがいないのだ。

 おかしいなと思いつつ、

「……ジイン? 入るよ」

 寝ているかもしれないと思い控えめに声をかけてから、そっと仕切り布の向こうをのぞく。

 簡易ベッドは、空っぽだった。

「あれ……?」

「どうした?」

「ジインがいない」

 手洗いかなと言いかけて、ソラは視線を止めた。

 床に何かが落ちている。

「あれは……」

 どくんと心臓が跳ねる。

 銀色のケースとパッキングされた注射器。

 例の薬だ。

 とっさに拾い上げ、封が切られていないことに安堵する。

 でも、どうしてこんなところに?

「あ……」

 足元で何か光った。

 鈍色の鍵。ジインと揃いの、廃工場の鍵だ。

 胸に手をやる。自分の鍵は服の下にぶら下がっている。

 簡易ベッドの下、手洗い場まで立ち歩く用にと借りた壊れかけのサンダルは床に転がったままだ。

 ざわり、と胸が騒ぐ。

 通路に飛び出すと、ソラは目を閉じて感覚を広げた。

 音。匂い。振動。空気の流れ。

 ジインの声は。匂いは。

 ジインは、どこ。



 ……――、



「!!」

 感覚の端に何かが引っかかる。

 途端に、電流のようなものが体を駆け抜けた。

「おい、ソラ!?」

 残をその場に残し、ソラは駆け出していた。




「おい、起きろ」

 頬を叩かれ、ジインは無理やり覚醒させられた。

 意識は目を覚ましたものの、まぶたが開かない。粘着テープのようなものが両目を覆って貼り付き、視界を遮っている。

 座らされている椅子は背もたれがあり堅く頑丈で、部屋に置いてあったものとは明らかに別物だった。そこにベルトか何かで体を固定されていて、身動きが取れない。

 まだぼんやりと痺れたままの頭で、ジインは状況を把握しようとした。

「……いったい何の真似だ」

 声を出してみる。その響きで、ここが元いた部屋ではないことがわかった。もっと広く、壁や天井がしっかりした空間だ。

 周りを取り囲む気配は、少なくても三人かそれ以上。

「質問は一つだ」

 すぐ横に立つ気配が言葉を発する。聞き覚えのある声だ。

 これは確か、レインネインの後ろで一番敵意を剥き出しにしていた……。

「端末のパスワードを言え」

「端末……?」

「おまえの携帯端末だ」

 ――携帯端末のパスワード。

 ジインは一瞬で状況を理解した。

 いったいどこでその存在を知ったのか。おそらくはソラのいない間、自分が眠っている隙にでも荷物を物色したのだろう。

 院に没収される前に沢木が隠しておいてくれたジインの携帯端末。この連中は、そこに保存されているであろう『ハコ』の内部情報を狙っているのだ。

 背に冷たい汗が流れる。

「何を勘違いしているのか知らないが、おれの端末は院に没収されたま、ま……ッ!!」

 全身が激痛に呑み込まれた。筋という筋が硬直し、全身が激しく痙攣する。

 悲鳴は出ない。出せない。肺が針で縫い止められて、息すらできなかった。

 幾千幾万という切っ先が、外から内から体中をめった刺しにしているようだ。

 痛い。苦しい。誰か――……。

「が……は、ッ」

 ふいに激痛の呪縛から解放され、ジインはがっくりと頭を足れた。筋の硬直は解けたが、痛みの余韻は全身に滞り、体を細かく震わせている。

「傷つけるなと言われている。だから、“傷”はつけない」

 両足の親指に、何かが取り付けられている。おそらくそれが電極で、そこから電流が……。

「ぐゥ……ッ!!」

 呼吸を整える間も与えられないまま、再び電流を送り込まれる。

 全身に火をつけられたような激痛に、頭が仰け反った。

 痛い。苦しい。止めて、やめてくれ――……。

 再び痛みが止む。

 肩で息をしながら力なく傾いだ頭のすぐ上で、男の声がした。

「もう一度訊く。端末のパスワードは?」

「は……、」

 肩で息をしながら、ジインは必死で考えを廻らせた。

 視界を塞がれた今の状態では、魔法はまともに使えない。

 触れているものになら多少使うことはできるが、両手足を拘束しているベルトはおそらくカーボンファイバー製だ。焼き切ったり、断ち切ったりするには、かなりの時間がかかる。

 それなら――……。

「ぐ、ゥウ……ッ!」

 三たびの激痛に、思考が吹き飛ぶ。

 痛い。いたい。体が燃える。

 やめて。もう止めてくれ――……。

「ぅ……」

 がっくりと頭を垂れる。

 頭の中が真っ白だ。

 何一つまともに考えられない。

 次の痛みに対する恐怖だけが、ただ頭を占めていく。

 傍らで男が動く気配に、体がびくりと情けなく跳ねた。

「端末のパスワードを」

 ――言ってしまえばいい。

 恐怖に侵され始めた頭の中で、冷たい声が囁く。

 どこの誰がどうなろうと、関係ない。

 痛いのはもう嫌だ。

 おれがこんな目に遭う謂れなどない。

 ――言ってしまえ。

「……パス、ワード……は……」

 栗色の髪をした少女の笑顔が脳裏をよぎる。

 ――小雪。

 唇が震えた。

「……e……」

 掠れた声で、一息一息囁くようにジインは言った。

「……c、l……i……p、s……e、……」

 ――eclipse。

 告げたアルファベットの羅列を、端末に打ち込む気配がする。

 ごくりと唾を呑み込むと、ジインは深くゆっくり息をしながら背もたれに頭を預け“その時”を待った。

 しんと静まり返った部屋に、突如として耳障りな電子音が鳴り響く。

「データが……!」

 狼狽した声に、思わず口角を上げる。

 それを見咎めたのであろう男の声に怒りが滲んだ。

「貴様……何をした?」

「別に、なにも。言われたとおり、パスワードを言っただけだ」

 口元の笑みを広げて、ジインは見えない男を見上げた。

「端末内のデータを……すべて消去するパスワードを」

 精一杯の余裕をかき集めて、残念だったな、と嗤ってやる。

「もう少しで、おまえらが欲しがっていた情報の……すべてが手に入ったのに」

 憤怒の気配が滲む靴音が、こつ、と近づく。

 胸ぐらを掴まれ、縛り付けられた椅子ごとすぐ後ろの壁に叩き付けられた。

 背中を強かに打ち、息が詰まる。

「それなら、直接おまえの口から聞き出すまでだ」

 腕が離れる。ごほ、と咳き込みながら、ジインは意識を集中した。

「電圧を上げろ!」

 密かに繋げていた“道”へ向けて、強く念じる。

 ――切れろ。

 ぱちん、と小さな音がした。

 激痛の来襲に身構え強張った体に、痛みは襲って来ない。

「おい、何をしている!?」

「いや……導線が切れた」

「何だと?」

「わからんが、いきなり真っ二つに……」

 傍らの男が舌打ちする。

「気味の悪い力を使いやがって」

 しゃり、と金属が擦れる音がして、頬に冷たいものが触れる。

「傷はつけるなと言われているが……」

 ナイフの切っ先が肌の上をなぞり、襟元へと滑り込む。悲鳴のような音を立ててシャツが裂けた。断ち切られた包帯がはらりと膝の上へ落ち、右胸の傷口が露になる。

「元々あった傷口が少し裂けるくらいなら、問題ないだろう」

 傷口にナイフの切っ先が触れる。

 ひやりとした感触にジインは戦慄した。

「や……やめろ……!」

 切っ先がゆっくりと押しつけられる。

 電流の痛みに比べたら、少し傷が開くくらい大した苦痛ではないのかもしれない。

 けれど一度塞がった傷口を無理矢理裂くという残忍な行為が、事実以上に恐怖を煽った。

 塞がれた視界の向こうに、にたりと笑う顔を見た気がした。

 眼鏡の奥の、決して笑わない双眸。

 心と体に消えない傷を刻んでいった男の顔だ。

 胸の奥底で固く閉ざされていた扉がわずかに開き、押し隠していた恐怖が漏れ出す。

 すでに塞がったはずの脇腹の傷が、じくりと痛んだ。

「や……やめ……っ!」

 がん、と部屋が揺れる。

「ジイン! そこに居るの!?」

 壁を突き抜けるような、強い声。

「ソラ……!」

 安堵が胸に広がった。

 がん、と再び部屋が揺れ、天井が軋む。

「ソラ、ここだ! 気をつけろ、こいつらたぶん銃を……っ!」

 手の甲で頬を打たれ、言葉が途切れる。

「黙ってろ! おい、外の連中はどうしたんだ!?」

 三たび部屋が揺れ、今度はめきりと何かが剥がれる音がした。

「扉を押さえろ!」

 にわかに慌ただしくなった靴音の中で、角張った手が首を締めつける。

「う……」

 血管と気道が狭まり、じわりと思考が鈍る。

「さっさと話せ、魔法士。見張りの人数、交代時間、監視カメラの位置と数、セキュリティーの形態、各ポイントのパス! 知っていることをすべて話せ、すべてだ! あと十秒のうちに話し始めないと肩を裂いて腕を切り落とすぞ!」

 扉の向こうで数発の銃声が響き、壁に何かがぶつかる。

「ソラ……!!」

 ぞくりと背筋が冷えた。

「あと七秒だ」

「この……放せ!!」

 がたがたと椅子を揺らし、腕を振り払おうともがく。窒息しない程度に首を締め上げられたままの状態で、ジインは可能な限り声を張った。

「ソラ……ソラッ!! 大丈夫か、返事をしろ!!」

「うるさい、黙れ!」

 鋭い痛みとともに、切っ先が傷に食い込む。

 締め上げられた喉の奥から、掠れた悲鳴がこぼれた。

 ばりばり、と何かが裂ける音がして、目の前からナイフと気配が消え失せる。

 荒々しい靴音と怒号、数発の銃声、肉を打つ音があたりを飛び交う。

 何か重いものがいくつか壁や床に激突し、

「ジイン!!」

 目の前に飛び込んできた気配が拘束を解き始める。無事らしいその声にジインは安堵した。

「ソラ、大丈夫か? ケガはないのか?」

 ようやく自由になった左手で顔に貼り付いた目隠しを苦労して剥がす。粘着テープで痛んだ肌を摩りながらまぶたを開けると、ジインはそのままぎくりと凍りついた。

 目の前にいる、金髪の少年。

 それをソラだと認識するのに、数秒かかった。

 一切の感情が消えた、冷たい双眸。

 見たことのないその表情に、ざわりと胸が騒ぐ。

 その視線が注がれている先に目をやる。

 右肩の傷がわずかに開き、鮮やかな血が幾筋か流れ出している。

 その赤を凝視するソラの眼差しに、ぞくりと背筋が寒くなる。

「ソ……」

 次の瞬間、ソラが消えた。

 同時に響き渡る、悲鳴と咆哮。

 わずかに遅れて視線を巡らせる。

 倒れ込んだ男の手を掴んだソラが、ナイフを振りかざしていた。

「やめろ!!」

 ジインが止めるより早く、ソラがナイフを振り下ろす。

「ぐあぁああっ!!」

 濁った悲鳴が上がり、手のひらを差し貫かれた男が床をのたうち回る。

「どれだ」

 低く冷たい声がした。

 動いたのはソラの唇。けれどそれはまるで、見ず知らずの誰かの声で。

「どの腕が、ジインに触った?」

 らんらんと光る双眸が、辺りをぐるりと見回す。

 ばくばくと鼓動が暴れ、呼吸が早くなる。

 これは、なに?

 目の前の、この少年は。

「ああ、答えなくていい」

 これは……誰。

「匂いで、わかるから」

 ひゅ、とソラが動く。ナイフが振り下ろされる瞬間、思わず目を閉じていた。

 自ら閉ざした視界の向こうで、立て続けに悲鳴が上がる。

 全身から嫌な汗が噴き出した。

 目の前の現実から逃避しかけた意識を奮い起こしてまぶたを開くと、血に染まったナイフを手にしたソラが別の男に顔を向けたところだった。

「ソラ、もういい。やめろ!!」

 震える声で思わず叫んだジインを、ゆっくりとソラが振り返る。

 全身の血が凍りつくのを感じた。

「――“もう、いい”……?」

 鮮やかな空色の双眸が、ジインを見る。

「いいわけないだろ」

 雲ひとつなく晴れ渡った空の青。

 その色は、赤ん坊の頃から見守り続けてきた瞳と確かに同じなのに。

「許さない……絶対に」

 ――人間じゃない。

 残忍な獣のようにらんらんと光るこの瞳は。

 これは、人を喰らう竜の――……。

「ジインを傷つける奴は……ぜったいに許さない!!」

 冷たい声。冷たい瞳。

 これが、ソラだなんて。

「――何だ、これは!」

 部屋に駆け込んできた残が青ざめる。

「イーザウ、あんた、何をしている!?」

 壁際に座り込み、苦痛に顔を歪めながら腕を押さえていたイーザウが、にやりと笑った。

「別に。そこのお姫さまにちょっとイタズラしたら、番犬に噛みつかれた」

「魔法士には手を出すなと言われたはずだ!」

「“手を出すな”とは言われてない。“今はまだ傷つけるな”とは言われたがな」

「屁理屈を……!」

「屁理屈だと? はっ、言葉の真意を汲み取ってこそ有用な同志と呼べるんじゃないのか?」

 イーザウが忌々しげに唾を吐く。

「まったく、どいつもこいつもビビりやがって。放っといたってどうせ死ぬんだろう? だったら、くたばっちまう前にさっさと情報を聞き出すべきだろうが」

「その結果がこの様か」

「“ヒトガタ”の化け物度数が予想以上でな」

 自嘲の笑みを浮かべながら、イーザウがソラを見る。

「おい“ヒトガタ”、どうやってここまでたどり着いた? 犬みてぇに床をクンクン這いつくばって、文字通り“嗅ぎ付けた”ってか? さすが化け物だな」

 イーザウが立ち上がる。骨をやられたらしい腕がおかしな方向にぶら下がっていた。

「言っておくが、その傷は元々の傷だぞ。てめえがトチ狂った時のな」

 額に脂汗を滲ませながら、イーザウが嗤う。

「てめえで兄貴を死に追いやっておいて、“傷つけるな”? ははっ、笑わせる」

「やめろ、挑発するな!」

 思わず叫ぶ。ゆらりとソラが動いた。

 殺意に満ちた双眸がイーザウを捉える。

 このままでは殺してしまう――……。

「だめだ、ソ……ッ!」

 止めようと立ち上がった瞬間、右胸に何かが突き刺さり、中途半端に言葉が途切れた。

 ――撃たれた?

 いや、銃声はしなかった。

「ぐ……ッ!?」

 右胸で爆ぜた激痛に体が傾ぐ。

 押さえた傷のあたりが燃えるように熱い。

 声が出ない。息すら、できない。

「ジイン……?」

 異変に気づいたソラが振り返る。

 脳髄まで突き刺さる痛みの波は、次第に感覚を狭めていった。

 全身から汗が噴き出す。がくりと膝をつき、自分の体を強く抱いた。

 どろどろに溶かした鉄を、胸に注ぎ込まれているようだ。

 生きたまま肉が焼かれ、体が1ミリずつ抉られていく。

 堪えようと身を屈めるも、食いしばる歯の奥から呻きが漏れた。

 ――始まってしまった。

「ジイン、どうしたの!?」

 痛い。いたい。体が裂ける。

 胸の皮膚を引き裂いて、なにか得体の知れないものが突き出ようとしている。

 痛い。いたい。息が、できない。

 ――こわい。

「ジイン!!」

 こわい。こわい。体が、裂ける。

 ――なんて酷い死に方。

 こんなふうに、終わるなんて。

 ソラ、おれはまだ、おまえになにも――……!!

 めり、と体が軋んだ。

 喉の奥から悲鳴がほとばしる。

 裂ける。裂けてしまう。体が。

 いやだ。こわい。たすけて。




 助けてくれ……ソラ。



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