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ソラニワ  作者: 緒浜
27/53

027 誰が為に

「ねえ、ちゃんと食べてよ。お願いだから」

 琥珀色のスープをすくって口元に差し出す。触れるほど近づけても一文字に引き結ばれた唇は頑なに閉ざされたままで、手元に落ちた視線さえぴくりとも動かない。

 食事も水も一切受け付けようとせず、拒絶という名の篭城を決め込むジインに、ソラはもう何度目かわからない深いため息を吐いた。

「点滴もだめ。水分もとらない。このままじゃ体が弱っちゃうよ。変な意地張らないで、お願いだから食べて」

「……ここを出よう、ソラ」

 またか、とソラは半ばうんざりして手元のカップにスプーンを戻した。もう何度聞いたかわからない台詞に、こちらも何度目になるかわからない台詞を返す。

「だからそれは無理だって何回も言ってるだろ? 残と一緒に外を見てきたけど、本当に賞金稼ぎがうようよしてるんだ。ろくに歩けもしない状態で外に出ても、残が言うとおりすぐに捕まっちゃうよ」

 言いながら、ソラはすでに冷めてしまったスープを手持ち無沙汰にぐるぐるとかき混ぜた。具の入っていない簡素なスープだ。ぽつぽつと表面に浮かぶ油分の粒が、ひしゃげた銀色のカップの中で輪を描きながらきらきらと光る。

「検問もどんどん増えてる。『ノラ』の中には昔のオレたちのことを知ってる奴もいるから、廃工場に戻るのも危険だよ。でも、ここなら……このアジトなら院にも賞金稼ぎにも絶対に見つからない。裏切る心配のない医者もいるし、薬もある。電気も水も通ってるし、もしもの時には武器を持って戦うこともできる。二人で廃工場にいるよりずっと安全だよ」

 『彩色飴街』の奥深く、決して人目につくことのないデッドスペースを蟻の巣のように繋げて作られたこのアジトは、実際身を隠すにはこの上ない場所だった。

 念入りに隠された出入り口には常に見張りが立ち、砲撃にも耐え得る分厚い鉄の扉で固く閉ざされている。迷路のように入り組んだ通路は薄暗く凹凸だらけで、初めて踏み込んだ者を容赦なく迷わせる。行き慣れた者でさえ時折闇に足をとられて足早に進むことは難しいという。

 音も気配も、何層にもなる鉄板で遮断され外界には届かない。

 万が一の時には、いくつもある抜け道から逃げることもできる。

 確かにジインの言うとおりテロリストは信頼できる相手ではないかもしれないが、二人にとってこのアジトが廃工場よりずっと安全な場所であることは間違いなかった。

 ただ、ジインが条件を受け入れさえすれば。

「ねえ……どうしても情報を渡せないの?」

 手元を見つめたまま動かない人形のような横顔に、そっと言葉をかける。

 『神の左手』が要求しているのは、ジインの持つ『ハコ』のセキュリティー情報。

 魔法院第三研究所、通称『ハコ』にジインはたった一人で侵入し、ソラを助け出した。

 その際に使ったセキュリティー情報を渡すことが、二人を匿う引き換えに『神の左手』が提示した条件だ。

 けれどそれは逆に、取引を拒否をすれば命の保証はないということだ。

 無反応な横顔に、ソラはさらに訴えた。

「テロリストに手を貸したくないって気持ちはわかるよ。オレだって誰かの命を奪ったり、無闇に傷つけたりしたくない。でも今はジインの命がかかってる。なり振りかまってる場合じゃないんだ」

 わかるだろ? と訴えかけるように、端正な横顔を見つめる。

 橙の灯りに照らされた白い頬は、昨日から笑顔を失ったままだ。

 頑なに引き結ばれていた唇が、ゆっくりと動いた。

「……踏み越えてはいけない一線ってものがある」

 起伏のない、静かな声音。けれどそこに恐ろしいほど強固な意思が潜んでいるのを、ソラはありありと感じた。

「モラルもルールもないこの街で、おれたちがどうにか守ってきた一線だ。一度越えてしまったら、もう元には戻れない。ただでさえ希薄な秩序が、今度こそ本当になくなってしまう」

「……この街の秩序なんて、もともと無いようなもんだろ」

「この街の秩序じゃない。“おれたちの”秩序がなくなる」

 夜色の瞳がこちらを向く。昔から少しも変わらない、凛とした声音と眼差し。

「飢えをしのぐ為に金を盗む。食料を守る為に相手を傷つける。必要悪だなんて言い訳はしないけど、そういう悪いことはたくさんしてきたよ。でもな、ソラ。自分の都合で大勢の人間を死に至らしめるような行為をおれはしたことがないし、これからもするつもりはない。だからどんな取引を持ちかけられてもテロに加担することはできない。何があっても、絶対にだ」

 きっぱりと言い切るジインに気圧されて、ソラは押し黙った。

 幼い頃から憧れて止まなかったその思慮深さと潔癖さが、今は二人を隔てる厚い刃のよう。

 吸い込まれそうなほどに深い夜色の瞳には、わずかな迷いも感じられない。

 まるで鉱物の結晶が、自らの“美しく正しい形”を永遠に崩さないように。

 ああ、そうだ。そうだった。

 どんなに言葉を尽くそうと。たとえ拳を振るおうと。

 ジインの言葉を、眼差しを、外から曲げることは不可能なのだ。

「……わかったよ」

 溜め息を吐く。かすかな期待に輝いたジインの瞳を見据えて、ソラは言った。

「ジインは何もしなくていい。それで『神の左手』が納得するかわからないけど、情報を渡さなくてもこのまま匿ってくれるよう頼んでみるよ。その代わり――」

 眼差しを強くする。

「その代わり、オレがテロに加わる。ジインを匿ってもらうのと引き換えに、オレの能力を生かして残たちを手助けするよ。そしてテロに便乗して『ハコ』からオレの生体データを盗んでくる。だからその間ジインはここで安静に――」

「ダメだ!!」

 鋭い声が天井ではね返る。薄暗い灯りの下で、ジインの双眸がぎらりと光った。

「テロに加わるなんて絶対にダメだ。そんなこと、許さないからな!!」

「でもこのままじゃジインが、」

「おれのことはどうでもいいんだよ!」

 簡易ベッドがぎしりと軋む。シーツを掴んで身を乗り出し、今にも飛びかかりそうな勢いでジインは言った。

「おれのことなんかどうでもいい。どうせもう長くないんだ。院でも見つけられない治療法を、数日の間におれたちが探し出せるわけがないだろう? だから『ハコ』のデータを盗んでも無駄だと、何度言わせたら気が済むんだ。もういい加減に現実を受け入れてくれ!」

「受け入れてるよ!!」

 思わず声を荒げて立ち上がる。手の中で金属製のカップがぱきりと音を立てた。

 竜の牙で負傷した人間は、傷口から竜毒が広がって死に至る。

 あの夜に沢木の口から告げられた受け入れ難い現実は、以来ソラを絶え間なく打ちのめし、焼き焦がし、苛み続けてきた。

 じくりと疼く胸の痛みを押し殺して、ソラは静かに言った。

「……現実なんて、とっくに受け入れてる。ただオレは、現実を受け入れたままのジインと違って、その先に進もうとしてるだけだ」

「……“その先”なんて、無いんだ」

 苦々しく呟いて、ジインは右肩をそっと押さえた。

「ソラ、おれにはもう時間がない。竜創患者の最長存命記録は四十一日だけど、それは特異な例だ。大体の人間は、竜創を受けてから数日の間に毒の進行が始まる。ナチュラル・バース……天然の魔法使いだからか、おれの場合だいぶ遅れているけれど、進行はもういつ始まってもおかしくないんだ。竜毒の進行が始まれば、もって二週間が限度。たとえ治療法が見つかる可能性があるとしても……『ハコ』からデータを盗み出してどこかの研究施設へ持ち込み、さらにその結果を待つなんて……とても間に合わない」

 語尾がかすかに震える。忍び寄る終わりの気配を振り払うようにぱっと顔を上げると、ジインは声を和らげ、無理矢理に微笑んでみせた。

「なあ、ソラ。おれはおまえとただ静かに過ごせればそれだけで十分なんだ。それ以上は望まない。だからこんなところはさっさと逃げ出して、おれたちの廃工場へ帰ろう。おまえが協力してくれればきっとうまく逃げ出せる。院にも賞金稼ぎにも捕まったりしないさ。ああ、廃工場が危険だと言うのなら他の場所でもいい。誰かに何かを強要されるようなところじゃなければどこだっていいよ」

 どこか誰も知らない場所で、残された時間を楽しく過ごそう。

 だから『ハコ』を襲撃するなんて無謀なことは止めてくれ。

「頼むよ、ソラ……!」

 無理やり作った微笑みが苦しげな表情に変わった。

 お願いだからと、喘ぐようにジインが言う。

 すがる眼差しとかき口説く声音に、心が揺れた。

 けれど。

「……できないよ」

 掠れた声でささやいて、目を伏せる。

「何もせず、傍にいるだけなんて……黙って見ているなんて、できない」

「ソラ、」

「オレはあきらめないよ」

 まぶたを開いて、ソラは夜色の瞳を強く見つめた。

 可能性はゼロじゃない。自分には、まだできることがある。

「テロリストの目的なんてどうでもいい。どこの誰が犠牲になったってかまわない。オレはただジインを助けたい、それだけだ! そのために利用できるものは何でも利用する。それがたとえ……テロであっても」

「やめてくれ……」

 くぐもった声を上げ、ジインは頭を抱えた。

「テロに加担するなんて、そんなこと……頼むから止めてくれ。おれはおまえをテロリストにしたくない。人を傷つけることを生業とするなんて……おまえがそんな人間になるなんて、とても耐えられない。おれのためだというなら、なおさらだ。おまえには日の当たる道を歩いて欲しい。まっとうな、明るい人生を歩んで欲しいんだ……おれの、分まで」

 お願いだ、どうか、と訴える瞳に耐えきれず、ソラは目を逸らした。

 悲痛な落胆の気配が、ひしひしと肌を刺す。

 ぎゅう、と喉の奥が締めつけられ、うまく息ができなかった。

 できるなら、今すぐこの場から逃げ出してしまいたい。

 ジインが自分に失望する様は、何より堪え難かった。

 それでも、オレは――……。

「こんなこと……おれは望んでない」

 絞り出すように呟かれた言葉がぐさりと突き刺さる。

 鼓動とともに脈打つ胸の痛みに、ソラは思わずまぶたを閉ざした。

 助かる見込みのない自分のために、何かを犠牲にしたくないというジイン。

 ほんのわずかでも可能性があるのなら、何を犠牲にしても手に入れたいと願うソラ。

 二人の想いは完全な平行線だった。

「おい、入るぞ」

 仕切り布を揺らして残が姿を現す。ジインの纏う空気が途端に刺々しいものに変わった。その存在を拒絶するようにふいと視線を逸らし、眉間に深くしわを刻む。

 あからさまなジインの態度をちらりと見、次いで量の減っていないスープに気づいて残は眉をひそめた。

「なんだ、食わないのか?」

「そうなんだ。朝から一口も」

 固く口を引き結んだままのジインの代わりにソラが答え、残は呆れたように言った。

「いったい何のつもりだ? こんなことをしても体が弱るだけだぞ」

 ソラの傍らに立った残が、腰に手を当てジインを見下ろす。おおぶりなその手のすぐ横には、当然のような顔で黒い銃が光っていた。

「計画を知られた以上、事が済むまではおまえたちを解放できない。自分の命を質に取っているつもりなら、言っておくが、おまえがこのまま飢え死にしても『神の左手』は困らないぞ。単におまえが口を割れば手っ取り早いというだけで、『ハコ』の情報を手に入れる方法は他にもあるからな。これ以上交渉が長引くのなら、問題を起こされる前にさっさと始末した方がいいという意見もあるくらいだ」

「だったら、殺せばいいだろう」

 投げやりなジインの台詞に、残の眼差しがすうっと冷える。

「……本気で言ってるのか」

 天井をこするほどの長身が灯りを遮って反り立ち、ぎろりとジインをねめつける。太い腕が盛り上がり、残の姿がぐっと大きくなった気がした。

「おまえの意識がない間、ソラがどうしてたか知っているのか? 汗を拭い、水を含ませ、どんな小さな変化も見逃さないようつきっきりで看病してたんだぞ。脈を測り、呼吸を何度も確かめて……目の前でおまえが息絶えるかもしれない恐怖で震えながら、何日もの間、一睡もせずに、飲まず食わずでだ! 吐くものもないだろうに、便所で嘔吐いているのを何度も聞いたぞ。普通の人間だったらとっくにぶっ倒れてるところだ」

 むしろそのほうが楽だったかもな、という残の言葉に、そっぽを向いたままのジインの眼差しがわずかに揺れた。

「それを何だ。殺せばいい、だと? 散々心配かけておいて、ふざけるのもいい加減にしろ」

 残の大きな手がソラから銀色のマグカップをひったくる。ジインの腕を掴むと、その手にカップをぐいと押しつけた。

「食え。おまえがどうなろうと知ったこっちゃないが、ソラの前で生きることを放棄するような真似は許さない。これ以上くだらない駄々をこねるなら、手足を縛り付けて無理矢理口に流し込んでやる……食え!」

 凄みの利いた低い声がジインにぶつかる。カップの中で揺れるスープをちらりと見て、ジインは黙り込んだ。

 長い長い沈黙の後、深い溜め息をひとつして、ジインはのろのろとカップを持ち上げた。

 やっと食べてくれる気になったようだ。

 ほっとして、ソラは胸を撫で下ろした。

「あ。飲みにくいよね、それ」

 口を付けて飲むには邪魔になるスプーンを取り除いてやる。

「ゆっくりでいいからね」

 しゃがみ込み、自分でもそうとわかるくらい期待に満ちた目でジインを見上げる。居心地悪そうに眉をひそめながら、ジインはほんの少しだけカップに口を付けた。

 シャツからのぞく白い喉が、こくんと小さく動く。

「どう? 飲めそう?」

「……めちゃくちゃ味が薄い。ただの色水みたいだ」

「院の贅沢な食事に慣れた舌には粗末すぎる代物だろうな」

 からかうような残の言葉に、ジインの顔が曇る。

「おれだって好きで院にいたわけじゃない」

「知っている。だからこそ、ここへ連れて来たんだ」

 言いながら、残はベッドの端に腰かけた。ジインとは比べ物にならないがっしりした体躯に、頼りない簡易ベッドがぎしりと傾ぐ。

「おまえから院の情報を聞き出せるかも知れないと提案したのは俺なんだ。傍受した軍の通信でおまえが院の医療施設から逃げ出したと知って、もしかしたらと思って廃工場を調べに行った。予想は見事的中、ちょうど廃工場から出てきたおまえとソラを見つけたというわけだ」

 残が肩をすくめる。

「でも、そこから先は大誤算だったな。院に恨みを持ってるおまえなら二つ返事で快諾すると思ったんだが……なあ、本当に協力する気はないのか?」

 残の問いかけに、ジインが鋭い視線を返す。その無言の拒絶に、残は顔をしかめた。

「話が穏便に済むうちに条件を呑んだほうが身のためだぞ。あの人は怖い。目的のためには手段を選ばない人だ」

「ジインに何かしたら、オレが許さない」

 すかさず言うソラに、残が切り返す。

「いくら不死身でも、頭を吹っ飛ばされたらしばらくは動けないだろう」

 思わず黙り込むソラに、残は続けて言った。

「確かに“ヒトガタ”は強力な抑止力だ。怪力で不死身の“ヒトガタ”が暴れたらどれだけの被害が出るのか見当もつかないし、計画を控えた大事な時期に騒ぎを起こされても面倒だ。おまえがいるおかげで、強硬派の連中がジインに手出しできずにいるのも事実だよ。けれど、完全に方法がないわけじゃない。おまえを殺すことは魔法士にしかできなくても、動きを封じるくらいなら武器があれば俺たちにもできる。不意打ちでおまえを行動不能にして、回復する間を与えないよう攻撃し続ける。その間に、ジインを痛めつけて情報を吐かせればいい。簡単ではないが、不可能でもない」

「……ほらみろ。だからこんなところさっさと出ようと言ったんだ」

 うんざりと言いながら、ジインがちびちびとスープをすする。

 確かに、ここにいることでジインに害が及ぶのならばそれは本末転倒だ。連中がジインに何らかの危害を加えるつもりならば、ここにこれ以上留まるわけにはいかない。

 けれど、外は追手で溢れ返っている。まだ体の自由が利かないジインを、自分一人で守りきれるかどうか。

 そして何より、ここを出てしまったら『ハコ』へ侵入する術がなくなってしまう。

 それはそのまま、ジインを救う手だてを失うことだった。

 ようやく空になったカップをソラに渡しながら、ジインがこの上なく不機嫌な声でぼやく。

「ここに居たっていいことなんか一つもない。利用されるだけ利用されて、都合が悪くなれば切り捨てられるだけだ。まったく、はじめからそう言ってるのに」

「『ハコ』の情報さえ渡せば危害は加えない。そもそも、すべてはおまえが口を割りさえすればいい話なんだがな。駄々をこねて話をややこしくしているのはおまえだぞ」

「まだ言わせる気か?」

 ジインがまなじりを吊り上げる。

「テロリストに協力はできないと、何度言わせたら気が済むんだ。もういっそタトゥーでも彫ってやろうか? “テロリストには死んでも協力できません”ってな」

 訊かれるたびにシャツをまくって見せてやるよ、と嘲るような笑みを滲ませるジインをじっと見つめ、残が低く呟く。

「……両目をえぐられても、口を割らないと言い切れるか?」

 ジインの嘲笑が消える。大きな弦楽器を思わせる重低音の声が氷のような冷たさを纏った。

「爪を剥がれ、手足を砕かれ、肌を焼き焦がされても口を割らないと言い切れるのか? ……その自信がないのなら、四の五の言わずにさっさと情報を渡したほうが賢明だ。さもなければ……無駄な傷が増えることになるぞ」

 あからさまな脅しに、場の空気が重く冷える。

 黙り込んでいたジインが、ふいに口を開いた。

「残……おまえ、大丈夫か?」

 嫌悪に顔を歪めながらも、憤りではなくむしろ憐れみに近い色を瞳に滲ませたジインに、今度は残が怪訝な顔をした。

「どういう意味だ」

「辛くないか?」

 残の動きが止まる。ジインはわずかに首を傾げると、残の小さな漆黒の瞳をのぞき込むように目をすがめた。

「おれはおまえのことを一から十まで知っているわけじゃない。でも、おまえが平然と人の爪を剥がせるような人間じゃないことは知っている。それでもこんなところにいる以上、組織の一員として、上からやれと言われたらやらざるを得ない時もあるんだろう? 人を脅したり、傷つけたり……あるいはそれ以上のことも」

 心の奥まで見通すようなまっすぐな眼差しを避けて、漆黒の双眸がついとそれる。黙り込んだ褐色の横顔に、ジインがわずかに身を乗り出した。

「なあ、残。おまえどうしてこんなところにいるんだ。こんなことをしても世の中は何も変わらない。やり方が間違ってるんだ。東でいくら犠牲者を出したって、西の中枢は痛くも痒くもない。その証拠に、院の中ではテロの話なんかひとつも聞こえてこなかった。第四区あたりが少し吹き飛ばされたくらいじゃ話題にも上らないんだ」

「……だから今回は中枢を叩く」

「そんなにうまくいくとは思えない。どうせ今までだって似たようなことを何度も計画してきたんだろ? でも、一度も成功しなかった。中枢のセキュリティーが強固だからだ。おれが『ハコ』へ入れたのは、おれが内部の人間でなおかつ魔法士だったから。たとえおれが使ったセキュリティーデータを手に入れたとしても、魔法が使えなければ『ハコ』へ侵入するのは不可能だよ。万に一つ『ハコ』への侵入が成功しても、魔法士団が駆けつけたらそこで終わりだ。対竜戦用に備えて『ハコ』にはピアナクロセイドが充満している。常人では魔法士に太刀打ちできないぞ。その時はおまえの命だって――」

「それでも、何かしなくちゃいけない」

 残の固い声がジインを遮る。

「ジイン、俺とおまえは違う。おまえには魔法士の力がある。人を動かす才も能力も、人を惹きつける魅力もある。おまえみたいな人間ならうまく世の中を動かすことができるかもしれない。だが俺みたいなちっぽけな人間が世の中を動かそうとしたら、大きな力に頼るしかない」

「それが『神の左手』だと?」

「そうだ。右手が織り上げた宿命をねじ曲げ、奇跡を起こす“神の左手”……」

「朱世と二葉はどうなる?」

 ジインの言葉に、ぴくりと残の頬が動く。

「あの二人に、自分がやっていることを胸を張って言えるのか?」

「……胸を張って言う必要なんて、無い」

 苦々しく絞り出すように残が言う。

「この手が血で汚れようと、テロリストだ人殺しだと後ろ指をさされようと、俺はかまわない。ただ、二葉が大人になる頃には、世界が今より少しでもましになってくれれば」

「ましになるどころか、テロがまかり通るようになれば世の中はますます荒れる一方だ」

「それでも、何もしないよりましだろう」

「テロリズムに傾倒するぐらいなら何もしないほうがましだ」

 鋭い言葉に二人の視線がぶつかる。重苦しい睨み合いがしばし続いた後、残が先に沈黙を破った。

「――おまえだって、俺のことをとやかく言える立場じゃないだろう」

「どういう意味だ」

「『ハコ』からソラを逃がした」

 ジインの顔が強張るのを見て、残は嘲るような薄ら笑いを浮かべた。

「おまえはソラが“ヒトガタ”だと知った上で、『ハコ』から連れ出した。いや……ソラが『ハコ』へ収容される前からもう気づいていたんだろう? それなのにそばに置いていた。いつか竜に化けるとわかっていたのに」

「それは……」

「竜化したらどうするつもりだったんだ? 周りの人間を囮にして、自分はさっさと逃げるつもりだったのか?」

「そんなこと、するわけないだろう」

「じゃあ自分の手でソラを始末するつもりだったのか? できないよな、おまえにそんなこと」

 自分を虐げた院の人間を見捨てることすらできないんだからと、残がせせら嗤う。

 答えに詰まるジインを追い込むように、らしくない嗤いを顔に貼付けたまま残は言った。

「おまえの考えを当ててやろうか。“魔法使いの自分はどうせ真っ先に殺される。だから自分が死んだ後のことなんか知ったこっちゃない。”……そう思っていたんじゃないのか?」

「そんな、こと……」

 夜色の瞳がわずかに揺らぐ。残はさらに言葉を続けた。

「自分の都合のために他人を犠牲にする。おまえがやったことと、『神の左手』がやろうとしていること。それのどこが違うんだ?」

「おれをテロリストと一緒にするな……!」

 シーツを掴み、ジインが言葉を絞り出す。

「おれは誰かを犠牲にするためにソラを連れ出したんじゃない。ただ、ソラを……助けたくて」

「結果は同じことだろう。竜化したソラが暴れた一件で、一人も犠牲者が出なかったと思っているのか?」

「ちょっと待ってよ、それはオレの問題だろ!?」

 思わず声を上げ、ソラは一歩進み出た。ジインを説得するためと思い敢えて口を出さずに見守っていたが、自分のしでかしたことでジインが責められるのは我慢ならない。

「あれはオレが引き起こしたことだ。ジインはひとつも悪くない!」

「いつか爆発するとわかっていて持ち歩いていた爆弾が人ごみの中で爆発した時、悪いのは爆弾か? それとも持ち歩いていた奴か?」

「……爆発した爆弾が悪いに決まってる」

「違うな。爆弾に罪はない。そうと知りながら持ち歩いていた奴にこそ、すべての責があるんだよ」

「でも……、」

 食い下がろうとするソラを凄みのこもった一瞥で黙らせて、残はジインに向き直った。

「ソラのため、自分のために他人を犠牲にした。おまえの手はとっくに汚れてるんだよ。今さらお綺麗な顔したって無駄なんだ。だからテロは嫌だの何だのと駄々をこねずに協力しろ」

 斬りつけるような残の言葉に、唇を噛み、苦しげな顔でジインがうつむく。

 その頼りない痩身を見下ろしながら、ソラはひどい罪悪感に苛まれていた。

 これではまるで、寄ってたかってジインを虐めているようだ。

 無理強いをするつもりはない。苦痛を与えるなんてもってのほかだ。こんな顔だって、できることならさせたくなかった。

 けれど確かに残の言うとおり、ジインが取引を受け入れてくれさえすれば、ことはスムーズに運ぶのだ。

 話がさらにこじれる前に、少し強引ではあるけれど残の説得をジインがこのまま受け入れてくれないだろうか。

 そう期待しつつも、もういい、もうやめようと、両手を広げてジインを庇い込みたくなる衝動にかられる。

 ジインを助けたい、守りたいと心から願っているのに、どうしていつも傷つけてしまうのだろう。

「それでも……」

 ジインの呟きが沈黙を破る。ゆっくりと顔を上げ、ジインは囁くように言った。

「それでも、おれはしゃべらないよ」

 夜色の瞳が残を見つめる。その眼差しに今までのような鋭さはない。

 悲しげで頼りない、幼い子どものような眼差しだ。

 けれどそこには、迷いもためらいもない。

 ただただ、透き通るような意志があるだけだ。

 それはまるで、混じり気のない透明な蒸留水のような。

 あるいは、真冬の夜の澄んだ空気のような。

 どんなに力を加えても変えられない。それどころか、触れることすら叶わない透明な何かが、そこにはあった。

「テロリストと同族だと言われてもいい。誰かを傷つけた責任があるというのなら認めるよ。おれは自分の為に誰かを犠牲にするような、身勝手でどうしようもない、最低な人間だ。でもな、残。一人殺すのと二人殺すのは、全然違う。それこそ天と地ほどの差だ。どちらの罪が軽いとか重いとかの話じゃない。人ひとりの命とその未来を奪うことがどれほどのことか、おまえならわかるだろう?」

 余計なものをすべて削ぎ落とした眼差しで、ジインは残を見つめた。

「だからおれはしゃべらない。何を言われようと、何をされようと……絶対に」

「……わかったよ、もう勝手にしろ」

 吐き捨てるように言うと、残は簡易ベッドを揺らして立ち上がった。

 その横顔はどこか悔しげだ。

 いや、悔しいのとは少し違う。おそらく残は、もどかしいのだ。

 そのもどかしさには、ソラも身に覚えがあった。

 ジインの心には、誰も触れられない領域がある。時折垣間みる“それ”に触れることは、一番近しい存在であるソラでさえ不可能だった。

 ジインが触れさせないのではない。透明すぎて、誰も触れられないのだ。

 その形を変えよう、なにか色を染めよう、痕を残そうと試みても、それは澄んだ空気を相手にしているようなもので。

 だから残がどんなに言葉を尽くそうと、たとえ拳を振るおうと、孤高の場所で燦然と輝くジインの清廉さが揺らぐことは決してないだろう。

 どんなに手を伸ばしても、空に輝く星には手が届かないように。

 出入り口の仕切り布を手荒に払った残は、そこで思い出したように立ち止まりソラを振り返った。

「ソラ、ちょっと一緒に来い」

 何気なさを装ったその声音と視線に、はっとする。

 ――“呼ばれた”。

「どこへ連れて行く気だ」

 血相を変えて訊ねるジインを、残が面倒そうに一瞥する。

「少し借りるだけだ。すぐ返す」

「だめだ、行くな! 連中とは関わるな、ここにいろ」

 鋭く言って、ジインがソラの腕を掴む。苛立ちを露にした顔で、残は言った。

「でかい鉄板が倒れて通路を半分塞いでる。ちょっとこいつの怪力を借りたいだけだ」

「テロリストの手伝いはさせない。どんな些細なことであってもだ」

「鉄板を起こすくらい、いいだろう?」

「だめだ!!」

「――いい加減にしろ!!」

 残がまなじりを吊り上げる。数歩でぐいと歩みよると、残はソラの腕からジインを手荒に引き剥がした。

「“いやだ”、“だめだ”、“それはできない”。そんなわがままがすべてまかり通るとでも思っているのか?!」

 掴んだ手首を締め上げると、残はもう片方の手でジインの首を掴んだ。

 褐色の手のひらは大きく、細いジインの喉を容易く覆い尽くす。

「ッ、」

「残!」

「うるさい、おまえは黙ってろ!」

 止めようとしたソラを、残は怒号一つで退けた。

 右腕の上がらないジインは、左腕を封じられると抵抗ができない。

 急所を捕われ、為す術もないまま、ジインは残を睨み上げた。

「あまり調子に乗るなよ。どうせ簡単には手出しできないだろうと高をくくっているんだろうが、あの人の指示が一言でもあれば俺はためらいなくおまえを殺す」

 双眸をぎらつかせて、残がジインに迫る。

「いいか、これが最後の忠告だ。取引に応じないのなら、おまえにもソラにも消えてもらう。これ以上駄々をこねるなら、もう面倒だ。二人まとめて院に送り返してやる……ここのことをしゃべらないよう、口を聞けないような状態にしてからな」

 褐色の指がわずかに締まる。白い喉が、ひゅうと鳴った。

「残」

 太い腕を掴み、その双眸を睨む。

 ――これ以上は、許さない。

 その意志を込めて掴む腕に力を込めると、残がわずかに顔をしかめた。

 褐色の手指が離れる。喉を押さえて枕にもたれると、ジインは大きく息を吐いた。

「大丈夫?」

 枕に沈み込むジインの代わりに残が答える。

「それほど強くは掴んでいない。まったく、手も首も無駄に細いな……」

 力加減を間違えたらうっかりへし折りそうだと、自分の手を見下ろしながらひとりごちる残を横目に、ソラはジインに言った。

「ジイン、オレちょっと行ってくるよ」

「ソラ……!」

「少しくらいむこうの言うことも聞かないと、本当に殺されちゃうよ。大丈夫、ちょっと鉄板を起こすだけだって。すぐ戻ってくるから、心配しないで待ってて」

 くるりと背を向けると、ソラは残を押すようにして仕切り布の向こうへと追いやった。

 まだ何か言いたげなジインを振り返り、強く微笑んでみせる。

「大丈夫。すぐ戻ってくるよ」

 わざとらしいくらいに明るい声でもう一度告げると、ソラは残とともに部屋を後にした。




「――あいつから目を離すなよ」

 廊下の途中で残が言う。鉄板を継ぎ接ぎした廊下は一足ごとに悲鳴のような軋みを立てて、それをさらに壁や天井がはね返して廊下全体が一つの楽器のようだ。

「あいつはおまえをどうしても俺たちに関わらせたくないらしい。放っておくと、何をしでかすかわからないぞ」

「わかってる」

 赤く錆び付いた廊下を歩きながら、ソラはジインの言葉を反芻した。

 ――踏み越えてはいけない一線ってものがある――。

 ――“その先”なんて、無いんだ――。

 ――おれはこんなこと、望んでいない――。

 悲痛な声が胸を締めつける。

 それでも、オレは――……。

 前を行く残が足を止める。屈強な見張りに守られた重厚な鉄のドアの前だ。見張りに目配せをして、残が鉄のドアを軽く叩いた。

「連れて来ました」

 残がそう告げると、入れ、と短い返答が扉の向こうから聞こえた。

 重い扉が開く。さほど広くはない部屋の四角いテーブルいっぱいに、解体された銃の部品が広げられていた。それらは天井から吊るされた冷たい灯りに照らされて、得体の知れない生き物の臓器のように不気味に光っている。

 ブーツの足を組み、簡素な椅子にもたれたレインネインが手元から視線を上げる。

「来たか、“ヒトガタ”」

 野生の獣に似た鋭い瞳に胸が騒ぐ。部屋へ踏み込む足がわずかにすくみ、ソラは自分を叱咤した。

 しっかりしろ。前を向け。

 言葉に、動作に、全神経を集中するんだ。

 この戦いに、負けるわけにはいかないのだから。

 強大な魔物に戦いを挑む戦士のように、ソラは深く息を吸い込んだ。




 毛布を除けてそっと床に降りる。

 鉄板の冷たさが、まるで素足に刺さるよう。

 両脚に体重を預けた途端、かくんと膝が折れ、危うく転倒しそうになる。

 萎えて震える両脚をどうにか動かし、息をひそめて仕切り布の向こうを窺うと、廊下には見張りらしき気配があった。

 少し体を傾けただけで右肩の傷が引きつる。ベッドから入口へのたった数歩の距離を往復しただけで、うっすらと汗をかいていた。傷つき萎えた体では、気配を殺して足を忍ばせるだけでも重労働のようだ。

 落胆の吐息を吐いて、ジインはベッドに腰かけた。

 こんな体で見張りをかわし、入り組んだ通路を抜けて外へ出るのはやはり困難だ。

 けれどこのままここにいては、ソラが……。

 ふらりと吸い寄せられるように、床に置かれたデイバッグへ向かう。おそらくソラがそうしたのだろう、底板の後ろに隠すようにしまわれていた“それ”を手に取った。

 銀色の小さなケースが、橙の灯りをはね返す。

 再びベッドに腰かけると、ジインはそれを膝に置き目を閉じた。

「……おれは、間違っていたのか」

 あのまま、魔法院に捕われたまま、大人しく死を待つべきだったのだろうか。

 そうすれば、こんなことに巻き込まれずに済んだのに。

 ――オレはただジインを助けたい、それだけだ――。

「無理、なんだよ……」

 右肩にそっと触れる。

 この傷のせいで、ソラを変な連中と関わらせてしまった。

 自分さえいなければ、ソラがここに留まる理由などないのだ。

 ソラひとりなら、ここから抜け出すことはそう難しいことではない。

 足を引っ張っているのは自分。ソラの足枷になっているのは、この自分だ。

 自分さえいなければ、ソラは自由になれる。

 ならば、いっそ。

 潔くここで消えてしまったほうが――……?

「……ダメだ」

 頭を振る。そんなことはできない。

 まだ生きられる命を自ら断つなんて、そんなこと。

 この薬を使うのは、竜毒の苦痛に耐えかねた時。正気を失うほどの苦しみから解放されたい、楽になりたいと、心から願うその時だけだ。

「……正気を失うほどの、苦しみ……」

 その真っただ中にいる竜創患者を見たことがある。まだ魔法院に連れて行かれたばかりの頃だ。白い部屋に隔離され、治療台に拘束されたその人は、この世のものとは思えないほどの酷い形相で泣き叫び、狂ったように暴れていた。

 耳をつんざく恐ろしい悲鳴を思い出して、ぞくりと背筋が冷える。

 ……来るのだろうか、本当に。

 近いうちにおれも、あの人のようになるのだろうか。

 どんなふうに始まるのだろう。痛みは突然やってくるのだろうか。なにか予兆はあるのだろうか。それとも、発作のように不意に襲いかかってくるのだろうか。

 右肩には傷の痛みがあるだけで、他の症状は感じられない。

 まだふらつきは残るものの、AR-esの副作用もあらかた引いた。

 もしかしたら、このまま。

 傷が塞がり、体力も回復して、元どおりに暮らしていけるのではないか――。

 死が迫っているという実感のなさに、そんな幻想を抱いてしまいそうになる。

「――そんなはずは、ない」

 甘い夢をかき消すように首を振る。

 期待を持っても、裏切られた時に辛いだけだ。

 現実から目を逸らしてはいけない。

 “その時”は来るのだ。

 いつか必ず。

 その前に、どうしてもソラをここから連れ出さなくてはいけない。

「早く、ここから逃げないと――……」

 戸口の布が破けそうなほど手荒に払われ、三人の若者が断りもなく踏み込んできた。

 レインネインの後ろに侍っていた連中だ。

「何だ、おまえら」

 言い終わる前に腕を掴まれる。ずきんと痛んだ右肩を庇って、動きが遅れた。

 後ろ髪をぐっと掴まれ、鼻と口に布が押し当てられた。

「う……っ?!」

 甘い匂いが鼻先をかすめ、とっさに息を止める。銀色のケースが床に落ち、かしゃんと音を立てた。腕を振り払おうともがくも、無理な体勢で手足を拘束され、自分の体を支えるのがやっとだ。

 傷が痛い。息が苦しい。酸素を求めて肺が動きそうになるのを必死で堪えるが、抵抗すればするほど息苦しさは増していった。

 魔法を――。

 意識を集中しようと試みるも、息苦しさと肩の痛みがそれを邪魔する。

 ばくばくと心臓が暴れ、脳が膨張する。

 苦しい。くるしい。もう、息、が――。

 耐えきれず、ジインはついに息を吸い込んだ。

 肺と鼻腔に重く甘い香りが充満する。

 髪を引かれて仰け反り、さらに深くまで香りを吸い込む。

 じわりじわりと、脳に、肺に、痺れるような甘さが広がっていく。

 喉が熱い。肺が、熱い……。

 ずるりと腕が落ちた。肩からぶら下がるそれは、自分のものではないように重く垂れ下がり、ぴくりとも動かない。次いで膝から力が抜け、がくりと首が仰け反る。芯を抜かれた人形のように、ジインの体はその場に崩れ落ちた。

 思考が、うまく働かない。

 腕に、足に、力が入らない。

「ソ……」

 声を上げようと唇を開いても、出るのは虚しい吐息だけだ。

 すぐ目の前に蓋の開いた銀色のケースが落ちている。パッキングされた簡易注射器とともに床に転がっているのは、見覚えのある鈍色の鍵。ソラと揃いの、廃工場の鍵だ。

 院に没収されたと思っていたのに、どうしてそんなところに。

 沢木さんが隠しておいてくれたのだろうか。

 ああ、でもよかった。

 この鍵があれば、あの部屋へ帰れる。おれたちの廃工場へ。なあ、ソラ――……。

 意思に逆らってまぶたが落ち、意識が遠くなる。

 ああ、ダメだ――。

「ソ……ラ……、」

 甘い香りに引きずられるようにして、ジインの意識は闇へと沈んでいった。



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