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ソラニワ  作者: 緒浜
26/53

026 『神の左手』(後編)

「――残!?」

 驚いたジインが目を見張る。長身を屈めて入口をくぐると、ザンは低い天井すれすれのところからジインを見下ろした。

「久しぶりだな」

 褐色の肌に短い黒髪。こちらを見下ろす小さな双眸は鋭く無愛想だが、そこに冷たさはない。いかつい見た目と長身のせいで気性が荒いと思われがちだが、外見に反して思慮深く和を好む性格の持ち主であることはソラも覚えていた。

 朱世の兄代わりであり、かつて小さな群のリーダーを務めていた残は、『貧困街』で特定の群に属していなかったソラとジインにとって“友人”と呼べる数少ない『ノラ』仲間だ。

 二年と少し前、一頭の竜が『貧困街』を襲った。大市が開催される繁多な時期だったことや、東部巡視隊の到着が大幅に遅れたことなど悪条件が重なり、犠牲者が七十人以上にも及ぶという最悪の被害を出した竜災だ。ソラもジインとともに襲われ、常人であれば命を落とすような重傷を負った。そこへ現れた東部巡視隊によってソラが“ヒトガタ”であることが発覚し、同じく“魔法使い”であることが露見したジインとともに二人は魔法院へと連れ去られたのだ。

 その時の竜災で、残の群はほんの数名を残して壊滅した。その後『ハコ』に捕われたままだったソラはそれ以降の経緯を知らなかったが、それはジインも同じらしい。

 理由はわからないが唯一の肉親である朱世とは意図的に連絡を絶っているらしく、『彩色飴街』で会った朱世は音信不通の兄の身を案じていた。

 消息の知れなかった昔なじみとの予期せぬ邂逅に、ジインが目を丸くする。

「どうしておまえがここに?」

「助けてくれたんだ。オレたちを“ここ”に匿って、医者に診せてくれた」

 降りしきる雨の中から突然現れた影は、大きな上着を二人の上からかぶせると、

 ――ついて来い。

 一言そう言って、くるりと背を向けた。

 廃工場の前でジインを抱え、茫然自失のまま座り込んでいたソラは、目の前に垂らされた蜘蛛の糸にすがるようにその背を追った。黒いフードをすっぽりとかぶり、闇を纏った死神のような姿のその人がかつての『ノラ』仲間だと気づいたのは、オンボロのモーターサイクルに牽引された荷車の上に収まってからだった。

「医者を呼んだのか?」

 不安げに眉をひそめたジインに、残が言う。

「信頼できる医者だ。心配しなくていい」

「でもおれたちには裏懸賞金がかかってる。それも高額の」

「知っている」

 すべてを心得ているように残が小さくうなずく。余計な言葉を省いた低く静かな声音には、細かな説明なしでも相手を安心させるだけの深みがあった。

 落ち着き払った残の態度に、ジインもひとまず安堵した様子で、

「そうか……ならいいけど。いや、でも驚いた。本当に久しぶりだな。元気そうで良かった。ああ、朱世が心配してたぞ。今までどこで何してたんだ?」

 突然のことに戸惑いを残しつつも、ジインはあまり見せることのない人懐っこい笑みを浮かべた。屈託のない心からの笑顔を向けられ、残はほとんど表情を動かさないまま、何かまぶしいものを見るようにほんのわずかに目をすがめた。

「そもそも、ここはどこなんだ? 造りからして、地上の建物じゃないような……もしかして『彩色飴街』か? 残、おまえ今ここに住んでいるのか?」

 いったいここはどこなのだと、不思議そうに訊ねるジインの目をまっすぐに見つめて、残は静かに言った。

「ここは『神の左手』のアジトだ」

「――『神の左手』……?」

 ジインの顔が見る見るうちに強張る。それを予見していたように、残はため息を吐いた。

「まずは話を聞いてくれ。俺たちは――」

「ソラ、行くぞ」

 残の言葉を遮ってジインが毛布を蹴立てる。裸足のまま床に降り立つと、左手につけられた点滴の針を動かせない右手の代わりに口でくわえて引き抜いた。

「ちょっ、ジイン!?」

「今すぐここを出る」

「出るって……え、ちょっと!」

 踏み出した途端によろめいたジインを慌てて支えながら、ソラは困惑の表情を浮かべた。

「なに、急にどうしたの? 無理だよ、いま目が覚めたばかりなのに外へ出るなんて」

「無理でも何でもいい。とにかくここを出る」

「え、えっ? なに言って……ちょっと、ジイン!」

 壁を支えにおぼつかない足取りで無理やり入口へ向かおうとするジインの行手を、残の長い腕が遮った。

「ここを出て、どこへ行くつもりだ」

「どこでもいい。吹きさらしの路地裏だってここよりはマシだろう」

「すぐに捕まるぞ」

 低く冷静な声音で言うと、残は溜め息を吐いた。

「お前たちのことはもう町中に知れ渡っている。重傷を負った『オリエンタル』の魔法士と金髪の“ヒトガタ”が院に追われてるってな。『裏懸賞金』もかなりの額だ。容姿の画像も出回っているし、何よりおまえは目立つ。街へ出れば夜が明ける前に賞金稼ぎに捕まって終わりだ」

 事実を淡々と告げる残を睨みつけると、ジインは一歩後じさった。

「目的は何だ? 顔見知りの『ノラ』仲間を親切心だけで助けたわけじゃないんだろう」

 口を開きかけた残を、ジインの手振りが遮る。

「いや、いい。やっぱり言うな。どんな目的があったとしても、それはおれたちに関わり合いのないことだ」

「少しは話を聞いてくれ、俺は……」

「言うな!」

 鋭い声が低い天井にはね返る。つい今しがたまで人なつこい笑みを浮かべていた夜色の双眸が、抜き身の刃のようにぎらりと光った。

「聞きたくない。知りたくない。テロリストと関わり合うなんて、まっぴらごめんだ!」

「――テロリスト?」

「もっともらしい大義名分を掲げて大量虐殺を正当化する、人殺しの集団さ」

 聞き慣れない言葉に首を傾げたソラに、刺々しくジインが吐き捨てる。

 ――人殺しの集団?

 不穏な言葉に、ソラは思わず残を見た。

 残がとある組織に属しているという話は、ここに連れて来られてすぐ聞かされていた。その組織が反政府活動を行っていること、ここがその組織のアジトであること、それ故にこの場所がソラたちにとって“安全”であり、“ある条件”を受け入れさえすれば追手を遠ざけるために協力してくれることも、残を通して聞かされていた。

 政府にとっては危険な存在かもしれないが、そう難しくもないその“条件”さえ呑めばソラたちの敵にはなり得ない。敵の敵は味方と、ソラは判断した。

 けれどジインの声音は、魔法院に対するのと同じくらい敵意に満ちている。

 低すぎる天井から吊るされた橙色の灯より高い位置にある残の表情は、暗がりの中で苦々しさを通り越してどこか苦しげにさえ見えた。

「とにかく話を聞いてくれ。俺は、」

「聞きたくないって言ってるだろう!」

 さらに一歩後じさり、ジインは激しく首を振った。

「聞きたくない、知りたくない……何ひとつ関わり合いたくない!」

「ジイン……」

 困惑して、ソラは残とジインを交互に見つめた。

 こんなに拒絶を剥き出しにしたジインを見るのは初めてだ。

 ジインが頭ごなしに何かを否定したり拒絶することはあまりない。頑固で意志が強く、一度決めたことは最後まで貫き通す気概の持ち主ではあるけれど、同時に人の意見や言い分を受け入れる柔軟さもジインは持ち合わせていた。

 なのに今は、残の話を聞こうともせずに全身で拒絶している。

 『神の左手』と関わることをジインがそこまで拒む理由が、ソラにはわからなかった。

「人殺しの集団って、どういう意味?」

「そのままの意味だよ。奴らは自分たちの主張を宣伝するためにパフォーマンスとして人を殺す。人の命を何とも思っちゃいない、下衆の集まりだ」

「でも、そんなふうには見えなかったよ」

「連中と会ったのか?」

 ジインのまなじりが吊り上がる。ソラの肩をぐいと掴んで、ジインは詰め寄った。

「何を話した……何を訊かれた? まさか勧誘でもされたんじゃないだろうな……! いいか、連中とは関わるな! 何があっても、絶対……っ!」

 言葉が途切れる。顔をわずかに歪ませて、ジインが右肩を押さえた。呼吸が荒い。とっさに頬に触れると、さっきよりも熱が上がっていた。

「ジイン、熱が……もうベッドに戻ったほうがいい」

「だめだ。今すぐここを出る。こんなところ、一秒でもいたくない」

 頬に添えられたソラの手を掴むと、ジインは戸口へ引っぱって行こうとした。その足取りは不確かで、今にも倒れてしまいそうだ。

「無理だよ、ジイン……!」

「騒々しいな、何事だ」

 廊下と部屋とを隔てる仕切り布の向こうから涼やかな女の声が響く。凛とよく通る、銀の刃のような声だ。

「レインネイン」

 現れた人物に場所を譲って、残が壁際へと控えた。数人の靴音とともに、安定の悪い床の鉄板ががたがたと揺れる。

「目が覚めたのか、魔法士」

 すらりと背高い体躯を暗色の服で包み、その細身に似あわぬ大ぶりの銃を太ももに履いた女が、数名の若者を従えて部屋の入口に立っていた。

 纏う空気が、鋭く研いだ刃のよう。耳にも額にもかからないほどに短く切られた髪は、燃えるような赤だ。見る者の動きを射止めるような眼光と、人を使役することに手慣れた態度とが、彼女がただ者ではないことを窺わせた。

 双眸に剣呑な光をたたえて後ろに控える男たちの手には、当たり前のように黒い銃が握られている。

 その不穏な空気にソラは眉をひそめた。

「おまえが、レインネイン……」

「ジイン、知ってるの?」

「名前だけは。まさか『神の左手』の若き指導者がこんな美女だとは思わなかったけど」

「その顔で世辞を言われても、嫌みにしか聞こえんな」

 きつく吊った眼を細め、レインネインはまるで値踏みするようにジインを頭からつま先まで眺めた。

「なるほど、さすが観月屋に目をかけられていただけのことはある。『裏』に連れて行けば『裏懸賞金』以上の額がつきそうだ」

「は……売り飛ばして活動資金でも稼ぐつもりか?」

「それもいい案だが」

 本気とも冗談ともつかないやり取りにぎょっとしたソラの目前で、二人の視線がぶつかる。

 相手の腹を探り合うような睨み合いの後、レインネインが口を開いた。

「おまえは我々にとって大変価値のあるものを持っている。希少な『オリエンタル』を売り飛ばして手に入る大金よりも、遥かに貴重なものを」

「――情報か」

「察しがいいな。話が早くて助かる」

 双眸の鋭さはそのままに、レインネインは唇の片端だけを上げて形だけの笑みを作った。

「単刀直入に言おう。我々は院の内部情報が欲しい。とくに『ハコ』のセキュリティーに関してだ。我々が望む情報を提供してくれるのなら、おまえたちの身の安全は保障しよう。院の追手から匿い、賞金稼ぎからも守ってやる。食事の世話はもちろん、必要ならば専属の医師も手配しよう。どうだ、互いに十分な利益を得られる取引だと思うが」

「断る」

 うるさい虫でも払うように、ジインは申し出を即座に撥ね付けた。

「ほう?」

 取りつく島もないその態度に、レインネインが片眉を跳ね上げる。剣呑さを増す男たちの横で残の表情はますます苦いものとなり、ソラは驚いてジインの横顔を見つめた。

 身の安全は保障する。その代わりに、院の内部情報を渡して欲しい。

 その申し出は、ここに連れてこられてすぐにソラも残から聞かされていた。

 決して悪くない話だ。ジインなら二つ返事で受けると思っていたのに。

「テロリストには協力できない。何があろうと、絶対にだ」

 予想に反して、ジインは首を縦に振らなかった。

「意外だな。今さら院に義理立てするつもりか?」

「そんな気はさらさらない」

「ならば何故断る?」

 レインネインの問いにジインは顔を上げ、挑むようにその瞳を見返した。

「あんたたちのやっていることは虐殺だ。自分たちの主張を通すために大量に人を殺す。決して許されることじゃない。どんな理由があろうと、人殺しに手を貸すことはできない。――行くぞ、ソラ」

 これ以上の話は無駄だとでも言いたげに、ジインが視線を逸らす。熱のある体を引きずるようにして、ジインはレインネインの横をすり抜けた。

「点滴代と宿泊代は支払うよ。世話になったな」

「――一度内部に入れた人間を簡単に外へ出すわけにはいかない」

 部屋を出ようとしたジインの前に、男たちが立ちはだかる。それまで黙って控えていた男たちが、慣れた手つきで一斉に銃のスライドを引き撃鉄を上げた。

「どうしても出たいと言うのなら、二度と口がきけないようにさせてもらうが」

 ――ここを出るのなら、冷たい死体となってもらうしかない。

 そんな言外の言葉とともに銃口が向けられる。庇って前に出ようとしたソラを、ジインの腕が遮った。

「撃てばいい」

「な……っ!」

 驚愕してソラはジインを見た。硬い眼差しは、銃口ではなく男たちの目を見据えている。

「おれはどうせ長くないし、こいつは撃たれたぐらいじゃ死なない。撃てばいい」

「なに言ってんだよ!」

 熱い体を押し退けて、ソラはジインを無理矢理背に庇い込んだ。

「レインネイン、この話はもう少しあとにしてもらえませんか? ジインはいま目が覚めたばかりで、体調も万全じゃない……話は少し時間を置いてから改めて」

「いくら時間が経っても同じだ。おれはこいつらに協力するつもりはない」

「いいからジインも落ち着いてよ! 熱が上がってる、呼吸も辛そうだよ。とにかく一度ベッドに戻って、話はまた後で」

「話なんかしても無駄だ!」

 声を荒げて、ジインがソラを睨みつける。

「何を言われても院の情報は渡せない。ソラ、どうしておまえまでそんなことを? こいつらにいったい何を吹き込まれた?」

 鋭く尖った刃のような視線が両目に突き刺さる。

 本気の怒りが滲む眼差し。この瞳に下手なごまかしはきかない。

「……吹き込まれてなんかない。オレはただ、ジインを助けたいだけだ」

「――“助ける”?」

 いったいどういうことだ、と怪訝な顔をするジインに向き直り、その眼差しをソラは真正面から見据えた。まだ言うつもりはなかったのだが、ジインがこんな状態では仕方がない。

「オレが『ハコ』に捕まってた時の生体データは、まだ『ハコ』にあるんだよね?」

「……いきなり何の話だ」

「それを手に入れてどこかの研究施設に持ち込めば、きっとジインを治す手がかりになる」

 それはこの数日、横たわるジインの傍らで繰り返し考えていたことだった。

「オレは竜から“ヒトガタ”に戻れた。これって普通と違うことだよね? きっとオレには普通の竜となにか違うところがあるんだ。もしかしたら、今までの研究はオレに当てはまらないかもしれない」

 竜毒は消せない。竜創患者は治らない。竜毒に冒された人間は、確実に死に至る。

 それが、長年に渡り竜の研究をしてきた魔法院が下した診断であり、実際に多くの竜創患者がたどってきた末路だ。

 けれど、その魔法院のデータに自分は含まれていない。

 もし自分に今までの竜と違うところがあるのなら。

 その“末路”を、覆せるかもしれない。

 ――人体から竜毒を取り除くことは不可能だ――。

 よみがえる声に頭を振って、ソラは続けた。

「魔法院は、竜から“ヒトガタ”に戻った後のオレのデータは持っていない。竜になる前と後のデータ……この二つをどこかの、たとえば外国の研究施設に持っていけば」

「無駄だ」

 重い鉄の斧を振り下ろすように話を断ち切ると、ジインはゆるく首を振った。

「おまえが今どうであれ、おれの体はもう竜毒に侵されている。一度体内に入った竜毒を消すことはできない……不可能なんだ。竜の研究と医療、どちらにおいてもこの国の技術は他国より格段に進んでいる。魔法院が無理というのなら、他の国でも同じことだ」

 沢木と同じ台詞を吐くジインに、ソラはなおも食い下がった。

「そんなの、やってみないとわからないだろ」

「受け入れてくれる研究施設があるかどうかもわからない。おれたちは魔法院に追われてるんだぞ? たとえ協力してくれる研究施設を見つけられたとしても、国外へ渡って治療法の開発を待っていられる時間はもう……おれにはない」

 右肩をそっと押さえると、疲れたような面持ちでジインは言葉を続けた。

「そもそも『ハコ』の管理下にある情報を外部から引き出すこと自体が不可能だ。研究所のデータベースはネットワークに繋がっていない。アクセスには研究室内の端末を使うしか――」

「『神の左手』と一緒に、オレが『ハコ』へ侵入する」

「――何だと?」

「『ハコ』を襲撃して、捕まっている竜と“ヒトガタ”を解放する計画があるんだ。その計画に加わって直接データを盗み出せば――」

「貴様、なぜ計画のことを!?」

 レインネインの後ろに控えていた若い男が鋭い声とともに銃口を向ける。

「残、おまえが漏らしたのか!」

 残に疑いの目が向けられたのを見て、ソラは素早く言った。

「聞こえたんだよ。聞き耳を立てなくても普通にね。“ヒトガタ”は耳がいいって知らなかった? 今度から秘密の話をする時はもっと声をひそめたほうがいい」

「この……!」

 化け物めと小さく吐き捨て、若い男が苛立たしげに顔を歪める。そうとは知らないまま極秘計画を部外者に漏らしてしまったことに憤慨しているらしい。

 レインネインは少しも動じることなく、ソラを見る目を興味深げにすがめただけで、黙ったままだ。

 『ハコ』を襲撃して竜と“ヒトガタ”を解放する。その極秘計画を耳にした時から、ソラはそれを利用するしかないと考えていた。ジインを治すためには竜の研究データが不可欠だ。けれど『ハコ』のセキュリティーは固く強大で、ソラ一人ではとても太刀打ちできない。そんな中で『神の左手』の計画は天が恵んでくれた大きなチャンスだ。

 その計画を一刻も早く実行に移すためにも、ジインが持つ院の内部情報が必要だった。

「竜と“ヒトガタ”を……解放するだと?」

 めまいを堪えるように、ジインは額を押さえて目を閉じた。

「それは……それはどう考えてもテロ行為だよな。つまりおまえは、テロに便乗して『ハコ』のデータを盗み出すと言っているのか?」

「それがテロかどうかなんて、オレにはわからないよ。だけどジインだってオレを助けるために『ハコ』に侵入しただろ? オレだって、ジインを治すためなら――」

「そんなことをしたらどうなるか、おまえわかってるのか?」

 ジインが深いため息を吐く。表情にありありと疲労の色が浮かんでいた。うつむき気味の痩身は、今にもその場に崩れ落ちてしまいそうだ。

 それでも傾ぐ体を立て直し、聞き分けのない幼子に辛抱強く言い聞かすように、眼差しを強くしてジインは言った。

「いいか、『ハコ』には二百数十体の竜と“ヒトガタ”がいる。それが一度に解放されたらどうなる? すぐに竜化しない“ヒトガタ”もいるだろうが、それでも百体を越える竜が一斉に解き放たれることになる。計画の狙いは竜に西の人間を襲わせることだろうが、第一区の重要な中枢機関は防護ドームの中だ。第二区や第三区内の主要な建物には忌避音波装置がついている。『ハコ』から解き放たれた竜たちはすぐに西地区を追われて、人のひしめき合う『彩色飴街』や東地区に押し寄せる。結局、犠牲になるのは東の人間だ。竜が大量に出現すれば、軍や魔法士団は西の防護に徹するだろう。取り残された東部巡視隊は壊滅するかもしれないが、そうなれば東地区で竜を止める者は誰もいなくなる。東は地獄になるぞ」

「第二区の忌避音波装置の制御システムを掌握できると言ったら?」

 それまで黙って二人のやり取りを傍観していたレインネインが、涼やかな声を響かせた。

「防護ドームが整備されているのはごく一部の中枢機関だ。その他の施設や建物に設置されている忌避音波装置は、監視塔からの緊急信号を受けて作動するシステムになっている。もし緊急信号が発信されず、忌避音波装置が作動しなければ……さて、どうなるかな」

「……装置は設置された建物内から直接作動させることもできる」

「ぬるま湯のような暮らしの中でふやけきった西区民どもが緊急信号なしで竜の急襲に気がつくには、果たしてどれだけの時間がかかるだろうな? 血に飢えた竜どもがビルの窓を突き破る前に気づくといいが」

 ジインが何かを言いかけて、口をつぐむ。苦しげなその表情をどこか満足そうに見下ろして、レインネインは唇の笑みを広げた。

 一方ソラは、今さらになって気がついていた。

 魔法院は敵。そう思い込んでいたから、見落としていたのだ。

 逃げろと背中を押してくれた、あの女の子は。

 ジインを院から連れ出してくれた、あの“サワキ”という人は。

 もしこの計画が遂行されれば、いったいどうなるのか――。

「――どちらにせよ人が大勢死ぬだけだ。都市機能が麻痺して、今よりさらに国が荒れる。取り返しのつかないことに、」

「我々の活動についておまえと是非を論じるつもりはない」

 ジインの言葉を遮って、レインネインが冷たく見下ろす。

「我々がおまえに望んでいるのはただ一つ、院の情報だけだ。言っておくが、おまえが協力を拒んだとしても計画は遂行される。おまえが口を割らないのなら他の人間に訊ねればいい。少し手間はかかるだろうが、計画に支障はない。ただおまえが素直に情報を渡せば、我々の手間が多少省けて、死ぬ必要のない何人かの人間が命拾いする。それだけだ」

 わずかに声を和らげて、レインネインは続けた。

「そう難しく考える必要はない。おまえはただ院の情報を渡してくれさえすればいいのだ。簡単なことだろう? そして残された時間をここで弟と静かに過ごせばいい。いったい何を迷うことがある?」

 優しげな響きの裏に有無を言わさぬ強さを滲ませて、レインネインは一歩ジインに近づいた。

「さあ、我々に情報を」

 全員の視線がジインに注がれる。眉根を寄せ、唇を噛み、ジインは床に視線を落とした。壁際の暗がりに頼りなく佇むその姿は、まるで狼の群に追いつめられた鹿のようだ。

 重苦しい沈黙の中で頭上の配管がごぼりと鳴り、ぼたぼたと雫が滴る。

「――できない」

 掠れた、けれどはっきりとした声が、静まり返った部屋に響く。

「人殺しの片棒を担がされるくらいなら――」

 ジインが顔を上げる。夜色の双眸が、暗がりの中でぎらりと光った。

「――いっそこの場で殺されたほうがマシだ」

「ジイン!!」

 何を言い出すんだ、と伸ばしたソラの腕を、

「やめてくれ!」

 激しく振り払い、ジインは一歩後じさった。

「もうやめてくれ……どうしておまえまで、そんなことを!」

 ゆるく頭を振りながら壁際まで後じさる。

「こんなこと望んでない……おれはこんな目に遭うために、院から逃げてきたんじゃない!」

 ジインの声が震える。悲しげな眼差しに、ソラの胸がずきんと痛んだ。

「もうたくさんだ……いったいどうしてこんなことに? おれたちはただ静かに過ごしたいだけだ。なのに、どうして放っておいてくれない? 何で、どうしておれたちにかまうんだ! おれにはもう時間がない……それなのに、最期を静かに過ごすことすら許されないのか!」

「情報さえ渡せば、それが実現できる」

「できないと言っているだろう!」

 声を荒げて、ジインは苦しげに顔を歪ませた。荒く不規則な呼吸に細い肩が上下して、額に汗が浮かぶ。橙色の灯りの中でもそうとわかるほどに、顔が蒼白だ。

「自由を奪い、力で押さえつけて、屈服させる。汚いやり方……おまえらも、院と同じ――っ、」

 不自然に言葉が途切れる。ジインの顔がすうっと白くなり、その体が傾いだ。

「危ない!」

 倒れかけた体を、寸でのところでソラの腕が受け止めた。おそらく貧血だろう。血の気が失せてぐったりとしたジインを抱きかかえ、ソラは胸が苦しくなった。

「まだ血が足りてないんだ……無理したら、」

「さわるな」

 囁かれた言葉に、ぎくりと固まる。思わず強ばった腕に、ジインの手がとりすがった。

「触るな……構うな……もうおれたちを、放っておいてくれ……」

 うわ言のように呟きながら、ジインは意識を失った。




「期待外れだったな」

 二人を見下ろし、興ざめしたようにレインネインが言う。

「単身『ハコ』に乗り込んだと聞いてもっと骨のある奴だと思っていたのだが。やはり死病を患うと心も弱るものか」

「やめて下さい」

 露骨な言い回しに、意識のないジインを抱きかかえたままソラはレインネインを睨んだ。

「どうします? このまま処理しますか」

 双眸に侮蔑の色を滲ませながら、部下の一人が銃を構え直した。遮るように残が前に出る。

「待って下さい。このまま殺してしまうのはあまりにも性急すぎる。もう少し時間をかけて聞き出せば……」

「相手は魔法士だ。得体の知れない妙な力を使う。油断ならない。手負いのうちはまだいいが、持ち直して内部から攻撃でもされたらどう対処する? 放っておいてもどうせそのうち死ぬんだろうが、計画の前に騒ぎでも起こされたら面倒だ。殺すなら早いほうが……」

「ジインに手を出すな」

 低く冷たい声が響いて、部屋の空気が固まる。

 それが自分の口から発せられたものだと気がつくのに、数秒かかった。

 聞いたことのない声音。本気の殺意を含んだ、獣の声だ。

「ジインに手を出したら、ただじゃおかない」

 自分の意志とは遠い場所から発せられる、どこまでも本能に近いその声を、ソラは出すままに任せた。

 思わず動きを止めていた部下が、短く息を吐いて忌々しげに毒づく。

「ちっ、化け物め。だから“ヒトガタ”なんて入れなきゃよかったんだ……まったく厄介な奴を連れてきやがって」

 おまえの責任だぞ、と銃先で胸を押され、残は渋面をさらに深くした。

 先ほどよりも敵意の増した視線を背中に感じながら、ソラは意識のない痩身をぐっと抱きしめた。

「……お願いがあります」

 双眸を爛々と光らせて、ソラはレインネインを見上げた。



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