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ソラニワ  作者: 緒浜
25/53

025 『神の左手』(前編)

 あなたのために、ぼくは何ができるだろう。




 手を握る。白くほっそりした手だ。均整のとれたまっすぐな指に、貝殻のような爪。女の人ほどやわらかではないけれど、男のように骨張ってはいない。よくできた彫像のように美しい手はどこか中性的で、ジインその人をよく表しているように思う。

 乳白の肌に透ける青い血管を、親指の先でそっとなぞる。そこに流れているはずの熱は指先を温めるには不十分なようで、白い手指はひんやりと冷たいままだ。

 シーツの上に力なく横たわるその手を少しでも温めたくて、ソラは指先をそっと両手で包み込んだ。点滴針の差し込まれた細い腕をあまり動かさないように気をつけながら、重ねた手に額を押しつける。

 ひざまずき頭を垂れる己の姿は、まるで祭壇で許しを請う哀れな懺悔者のようだ。

 ――どれほど悔やみ、祈りを捧げても、この罪が許されることはないけれど。

 そうだそうだと同調するように、剥き出しの配管が頭の上でごうごうと唸る。その度に滴る雫が、鉄板を重ねただけの床に黒い染みを作っていく。

 古びたトタンと薄汚れた布、配管が這う低い天井とに囲われた小さな一角。陽の光の届かない、複雑に入り組んだ『彩色飴街』の奥の奥に二人はいた。

 橙色の小さな灯が生み出す影は、深い奈落をそのまま写し取ったように濃い。

 何重にも蓋をされ、あらゆるものから隠されるように設えられた小さな空間だ。時計も窓もないため、今が昼か夜かさえわからない。時間とともに移ろう街の喧噪も、ソラの超人的な聴力でようやく遥か遠くに気配を感じるだけで、この部屋で時を知る術は何もなかった。

 ここにいると、世界の何もかもから切り離され、時間からも取り残されたような気分になる。

 ――このまま、止めどない時間の流れからジインを隠し通すことができたらいいのに。

 叶うはずもない幻想を抱いては、自分の愚かしさに嫌気が差す。どんなに逃げ隠れようとも、時間は圧倒的な力をもって無慈悲にすべてを押し流していくのだ。

 時から逃げる術はない。

 今この瞬間にも、時間はじわじわと、そして確実に、ジインの命を蝕んでいるのだ。

 ぎりりと歯を食いしばる。きつくまぶたを閉じて、握る手に力を込めた。

 時の流れは止められない。

 それなら、いったいどうすればいい?

 あなたのために、オレは何ができる?

「……――、」

 手の中の指がぴくりと動く。呼吸の音がかすかに変わった。

 薄いまぶたが小さく震えて、うっすらと開く。

「ジイン……!」

 立ち上がり、顔をのぞき込む。虚ろに天井を彷徨った眼差しが、ゆっくりとソラを捉えた。

「気がついた? オレがわかる?」

 ぼんやりとこちらを見る双眸が、応えるようにゆっくりと一度まばたきした。

「どこか痛む? 苦しくはない? 水は、喉は渇いてる?」

 用意してあった器の水をガーゼに浸して口元に運ぶ。そっと唇を湿らしてやると、白い首がこくんと上下した。

 ぼんやりしていた眼差しが、わずかに鮮明さを取り戻す。

「……ソラ……」

 掠れた声がこぼれる。久々に聞くジインの声だ。

 廃工場を出てからずっと、ジインは昏睡に近い状態にあった。時折目を覚ましはするけれど意識が朦朧としていて、言葉を交わすこともままならなかったのだ。

 こんなに意識がはっきりしているのは、ここへ来てから初めてのことだ。

「具合はどう? 食事……お腹は空いてない? もしなにか食べられるなら、スープとか持ってくるよ」

 まだ食事をとれるような状態でないことはわかっていたが、ここしばらくジインは点滴でしか栄養を摂っていない。もし何か口にできるならと、望みを込める気持ちでソラは訊ねた。

 昏睡から覚めたばかりで思考が動き出すのに時間がかかるのだろう、しばし考える素振りを見せてから、ジインはほんのわずかに首を振った。

「大丈夫……おまえこそ、ちゃんと……食べてる、のか?」

 何だかやつれてるぞ、と切れ切れに言いながら、小さくジインが笑う。

「だめだろう……おれがいなくても、ちゃんと、食べなくちゃ」

 ああ、この人は。

 こんな体になってまで、どうしてオレのことなんか気遣ってくれるのだろう。

 ――こんな体にした張本人は、オレだというのに。

 黒々とくまの浮かんだその顔を見ることに耐えきれず、ソラは視線を手元へ落とした。

「……ご、」

 ごめんなさいという言葉が喉まで出かかって、止まる。

 謝ることなんてできない。

 許しを請うなんて、そんなこと。

 できるわけがない。

 それでも。

「――ごめん、なさい」

 塞がりかけた喉を裂くようにして、痛みとともに言葉を絞り出す。

「ごめん……ごめんなさい……オレのせいで、こんな……っ!」

 一度栓の外れた感情は後から後から止めどなく溢れ出して、喉を詰まらせた。

 伝えたい想いは山ほどあるのに、言葉になるのは謝罪の念だけだ。

「ごめんなさい……っ!」

 それすらも、こんな言葉では表しきれないけれど。

「大丈夫……」

 冷たい手にわずかだが力がこもる。無理に微笑んで、ジインは言った。

「心配するな……こんな傷、すぐに治るから」

「っ、」

 どこまでも優しくて、悲しい嘘。

 そんな嘘、ついてくれなくていいのに。

 唇を噛み黙り込むソラを見て、ジインの視線が天井へと逸れた。

「なんだ……知ってるのか」

 深く息を吐き、目を閉じる。

「それならなおさら、そんな顔しないでくれ。おまえにそんな顔をさせるために……ここまで来たわけじゃ、ないんだ」

「……ごめんなさい」

「謝るなよ……おまえは何も悪くない」

 ――“おまえは何も悪くない”?

「悪いに決まってるじゃないか……!」

 爪が食い込むほどに己の手を握りしめる。行き場のない感情が滞って、顔が歪んだ。

「オレがやったんだ。オレがジインをこんなふうにした。オレがこの手で……こんなに、酷いことを!」

 見下ろす拳が震える。食い込む爪先に赤い色が滲んだ。

「一緒にいちゃいけなかったんだ。オレなんかが、ジインのそばにいちゃいけなかった。オレみたいな、化け物が……!」

「ソラ、」

「オレが……オレさえいなければ、ジインは……っ!」

「六年前に、とっくに死んでただろうな……」

 何でもないことのようにさらりと言うと、ジインは体を起こそうとした。

 痛みに顔を歪めるジインを慌てて手伝い、壁と背の間に枕を立ててやる。

 苦労して上体を起こすと、ジインは額にうっすらと汗を浮かべながら深いため息を吐いた。

「大丈夫? まだ起きないほうがいいんじゃないの?」

「大丈夫だよ。このほうがしゃべりやすいし」

 静かに息を整えると、ジインはまっすぐにこちらを見据えた。

「昔、一度話したことがあるだろ? おまえを拾った日のこと」

 あまり大きくはない、けれどはっきりとした声で、ジインは一言一言を確かめるように話した。先ほどまでのぼんやりとした様子は消え、その眼差しはクリアだ。

「六年前の雪の夜、おまえを拾わなければ、おれは確実に死んでた。“ヒトガタ”のおまえがヒトにはない能力で体温調節してくれたから、おれは凍死せずに済んだんだ。おまえに出会えなければ、おれは今ここにいなかった」

「でも、それは」

「おれは気づいてたんだ。おまえが“ヒトガタ”だってこと。いつかおまえが竜になって、人を襲うかも知れないってことを。知っていて、それでも一緒にいた。本当なら監視塔に通報して引き渡さなくちゃいけないのに、それをしなかった。だからこれは、おれの自業自得だ」

 苦笑いしながら、ジインは右肩にそっと触れた。

「だからさ、この傷に関しておまえが苦しむ必要は一つもないんだ。おまえは何も悪くない。おまえは何も知らずに生まれて育っただけだ。命あるものがその生をまっとうするのに、何の罪がある?」

「でも、」

「いいからさ、もう止めよう。正直、おまえに負い目を感じさせるのが一番辛いんだ。誰が悪いとか悪くないとか、そんなことはどうでもいいだろう?」

「でも、ジインはオレのせいで……っ!」

「だからいいんだよ、もう。自分の意志でどうにもならないことを、おまえが気に病む必要はない」

「でも……っ!」

「あと一回謝ったら、もう一生許さない」

「――……、」

 思わず黙り込んだソラに、ジインが笑いかける。

「笑えよ。せっかくもう一度会えたんだ。おまえの笑顔、ちゃんと覚えておきたい」

 ――こんな状況で笑うなんて。

 しかも、さよならのために笑うなんて。

「笑えないよ……」

「いいから、笑えって。記憶、戻ったんだろ? 昔はよくくだらないことで大笑いしただろ――ああ、ほら。屋上にシーソーを作ってさ、プラスおまえのジャンプ力でものすごい高さまで跳んで、飛んでる鳥に噛みついて捕れないかっていうおまえの発案におれが大笑いして、三日間笑いが抜けなかったこととかあったよな」

 バカだよなあ、と笑うジインの顔を、ソラはまじまじと見つめた。 

「どうして……」

「え?」

「どうして、記憶が戻ったってわかったの?」

 きょとんと目を瞬いて、ジインが首を傾げる。

「どうしてと聞かれても……まあ、ただ何となく? 話し方が違うし、自分のこと“オレ”って呼んでるし」

 言葉を失う。代わりに、別の何かが胸の奥から溢れ出した。

 こんな状況で、そんな小さなことに気がつくなんて。

「うわ、何。なんで急に泣くんだよ」

 そんなこと、どうだっていい。

 オレのことなんて、もうどうでもいいから。

 ――いかないで。

 ジインの手を握りしめる。その上にぱたぱたと透明な雫が落ちた。

 行かないで。そばにいて。

 どうかこのまま、この手の届く場所で笑っていてよ。

 口にすれば困らせてしまうであろう想いが、願いが、両の目から溢れて落ちる。

「ああ、ほら鼻水。もう、仕方のない奴だな」

 とりあえずこれで拭いとけ、とかけてある毛布を無理矢理引っぱって差し出すジインに、ソラは思わず泣きながら吹き出した。

「こんな毛布じゃ、拭けないよ」

 ああ、笑ってる。

 一筋の希望も見えないようなどうしようもない状況だというのに、自分はいま心から笑えている。

 こんな状況でも、人は笑えるんだ。

 ――ああ、違う。

 ジインが、笑わせてくれているのだ。

「けばけばで分厚いし、水なんか吸わないよ、これ」

「だよな。でも他に何もないし……」

 ふと気がつく顔になり、ジインは不思議そうに辺りを見回した。

「そういえば、ここは……?」

 壁から壁まで数歩の距離もない手狭な空間を、ジインの視線がゆっくりとなぞる。調度品などは何もない。簡易ベッドと電気ランプ、あとは物を置くテーブル代わりの丸椅子が置かれているだけだ。通路と部屋を仕切るのは薄汚れたボロ布で、よくよく見れば壁もトタンを立てかけただけのような頼りない造りになっている。奥まった場所にあるためすきま風は入ってこないけれど、部屋と呼ぶにはあまりにお粗末な空間だ。

「廃工場じゃないよな……どこだ? ここ」

「ああ、うん。実は――」

 袖口でごしごしと顔を拭いながらソラが言いかけたその時、

「――おい、入るぞ」

 入口の仕切り布が揺れ、現れた人影にジインがあっと声を上げた。



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