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ソラニワ  作者: 緒浜
23/53

023 闇惑う

 竜ノ牙デ負傷シタ人間ハ、傷口カラ竜毒ガ広ガッテ――……。




「……――え?」

 なに?

 この人は、今なんて?

 告げられたたった二文字の言葉がうまく脳に届かない。

 理解できない。

 竜の牙で負傷した人間は。

 ジインが、何だって?




 ジインが――しぬ?




 足元で砕けた雨粒が小さな雫を散らす。素足に凍みるコンクリートの冷たさが、骨を打ち臓腑まで響くよう。闇の向こうで降り続く雨は弱まる気配もなく、ノイズに似た雨音が世界を満たしている。

 目の前には、凍てつく眼差しの中に燃える怒りをたぎらせた鋼色の双眸。

 背に当たる壁の向こう、廃工場の奥にあるジインの気配は静かにそこにあるままだ。

 取りまく景色は数秒前となにも変わらない。

 けれど、決定的な何がが変わった気がした。

 視界の端の暗闇がずしりと重みを増したような。

 あるいは、世界のどこかが抜け落ちたような。

 言葉にならない吐息が白く散らばっては、二人の間を過って消えていく。

「――竜毒による細胞の浸食が始まれば早くて数時間。もって二週間が限度だ。黒瀬にはまだ浸食活動の症状が出ていないが、もう時間の問題だろう。竜毒の進行はかなりの苦痛を伴う。ほとんどの場合その激痛に耐えきれずに、」

「うそだ……」

 掠れた声で言葉を遮る。

 “竜毒” “浸食” “もって二週間” “時間の問題” “苦痛” 。

 受け入れ難い言葉たちは思考の表面をかすめるだけで、理解されないまま通り過ぎていく。

 ほとんど麻痺したような頭を無理矢理動かして絞り出した結論は、

「嘘、だ……」

 そうだ、そんなの嘘に決まっている。

 でなければ、何かの間違いだ。

 ああ、こんな時に悪い冗談はやめてくれ。

 ――頼むから、どうか嘘だと言って。

 縋るように見上げた先の鋼色の眼差しは、重く沈みきっているけれど強くまっすぐで、嘘を吐いている人間のそれではない。

 ひたひたと恐怖が胸を満たしていく。

「――ち、治療は、」

 声が震えた。舌先が強張ってうまく言葉が出ない。

「何か治療法は? 薬とか手術とか……何かあるだろ!?」

 濡れた上着に取りすがる。そうだ、きっと何か方法があるはずだ。竜に関する研究を何十年も続けている魔法院が治療法を知らないはずがない。

 きっと何か方法が――……。

「そうだ……オレが負わせた毒なら、オレの体を調べれば薬が作れるんじゃないのか!?」

 竜と“ヒトガタ”、体の仕組みの違いはわからない。けれどもしこの体のどこかにジインを冒した毒が隠れていて、自分がその影響を受けていないのなら……。

「オレを、オレを使って下さい! オレの体を調べてジインに薬を作ればいい……お願いします、オレを魔法院へ連れていって下さい!」

 細い細い希望の糸に取りすがるように、目の前の少年を仰ぐ。

 暗視ゴーグルの奥の双眸が、すっと細められた。

「……院に戻れば、もう二度と生きては出られないぞ」

「かまわない!」

 考えるより先に答えていた。

 そうだ、オレなんかどうなったっていい。

 解剖でバラバラにされても、命を落としてもかまわないから。

 この得体の知れない体を隅々まで調べて。

 そしてどうか、ジインに薬を――。

 何かを見定めるようにじっとこちらを凝視していた視線が、静かに伏せられた。

「……それができるなら、とっくにおまえを捕まえて院に引き渡している」

 力なく肩を落とした沢木が、重い溜め息を吐いた。

「世界最高峰と言われるこの国の最新医療技術でも、人体から竜毒を取り除くことは不可能だ。“毒”という名称がついてはいるが、竜毒は毒虫や毒蛇が持つ一般的な毒素とはまったく性質が異なる。細胞そのものを変質させて浸食していく、むしろ悪性腫瘍や病素に近い存在だ。浸食部分を摘出してもすぐにまた別の箇所で浸食が始まる。薬でも手術でもその進行を止めることはできない。症状の進行速度に多少の個人差はあるにせよ、記録にある限り竜毒を受けた者は百パーセントの確率で――、」

 続く言葉を呑み込んで、沢木が固く目を閉じる。

「――だからたとえおまえを院に連れて行っても、黒瀬を助けることはできない。もし仮に、おまえを院に差し出すことで黒瀬を助けることができたとしても……あいつは絶対にそれを許さないだろうしな」

 掴まれたままだった胸ぐらが解放される。

 だらりと腕を下げたまま、独り言つように沢木は言った。

「“ソラに会いたい”……それが黒瀬の最後の願いだ。死ぬ前にどうしてもソラに会いたい。けれど苦しむ姿は見せられないからと……それを」

 眼差しで銀色のケースを示した沢木の口元に苦笑いが浮かぶ。

「本当にあいつは、最後の最後までおまえのことしか頭にないんだな」

 “ソラに会いたい”。

 それがジインの、“最後の”願い。

 最後。

 最後?

 最後って、なに。

 ――最後、だなんて。

「……うそだ……」

 ゆらゆらと視線が彷徨う。無意識にゆるく首を振っていた。呼吸の感覚が乱れ、まっすぐに前が見れない。

 だって、ジインが ――ぬ、なんて。

 死ぬなんて、そんなこと。

 信じられるはずがないじゃないか。

 こんなこと、何かの間違いに違いない。

 そうだ、きっとオレはまた悪い夢を見ているんだ。

 ほら、目を覚ませば、ここは薄暗い制御室で――……。

「目を逸らすな」

 頭を両手で掴まれる。眼球を貫くような強烈な視線が双眸をのぞき込んできた。

 強靭なナイフの切っ先を思わせる色の瞳に、視線が捕われる。

 感情を必死に抑えた声音で、一言一言刻み込むように沢木が言う。

「これから起こることから絶対に目を逸らすな。いいか、これはおまえの咎だ! おまえのせいで黒瀬は死ぬ。傷から毒が回って……苦しみながら」

「うそだ……」

「嘘じゃない! これはもう動かしようのない事実だ、現実だ! ちゃんと見ろ、しっかり認めろ! いいか、絶対に目を逸らさずに……最後まであいつの傍にいろ。それだけが、おまえが黒瀬にしてやれる唯一の、」

「嘘だ、嘘だ、嘘だ――……ッ!」

 歯を食いしばり、無理やり首を振る。すべてを拒絶するように硬く目を閉じ、両手で耳を塞いだ。

 もういい。もう止めてくれ。

 そんなこと、信じられるはずがない。

 オレのせいでジインが死ぬなんて。

 毒で苦しみながら死ぬなんて。

 そんなの、悪夢だとしてもあまりに惨すぎるじゃないか。

 もういい。もうたくさんだ。

 これ以上は耐えられない。

 だから、どうか消えてくれ。

 もう現実でも幻でもどっちでもいい。

 何でもいいから、どうか目の前から早く消えてくれ。

「……どうしても信じたくないと言うのなら、それでもいい」

 信じたくない気持ちもよくわかるから、と呟く溜め息まじりの言葉が、うつむく頭に静かに落ちる。

「でも、いいか。絶対に逃げるな。どんなに辛い、惨たらしい結末が訪れようと……どうか最後まで、あいつのそばに」

 どうか、と懇願するような響きの声音に、ソラは思わず顔を上げた。酷く悲しげな、けれどどこか諦めたような顔で、かすかに自嘲の笑みを浮かべながら沢木は言った。

「おれではだめだった……おまえじゃなきゃだめなんだよ、“ソラ”」

 足元で、じり、と砂利が鳴る。一足ごとに砂利を踏みしめながら、沢木はゆっくりと後じさっていった。

 そして、

「……黒瀬を頼む」

 静かな呟きが、白い吐息とともに闇に溶ける。

 目深にフードを被り踵を返すと、沢木はそのまま闇の中へと消えていった。

 遠ざかっていく足音と白い吐息とが完全に消え去り、世界が闇と雨だけになる。

 黒い上着の背中が消えていった方角を呆然と眺めながら、ソラはしばらくその場に立ち尽くした。

 手に残された銀色のケースは一息ごとに重みを増して、闇の底へと心を引きずり込んでいく。

 凍りついた思考の中から焼き印のように黒々と浮かび上がるのは、

 ――黒瀬ハ死ヌ。

「うそだ……」

 ――オマエノセイデ、黒瀬ハ。

「嘘だ……!」

 ――傷カラ毒ガ回ッテ。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ!!」

 ――苦シミナガラ!

「嘘だ――……ッ!!」

 両手で顔を覆う。足元に落ちた銀色のケースがかしゃんと甲高い音を立て、途端にぐらりと世界が揺れた。

 凄まじい目眩に襲われ、その場に膝をつく。酷い吐き気が込み上げ、激しくえずいた。何日も空っぽのままの体には吐きだせる物など無く、ただ臓腑が引きつるように軋むだけだ。それでも呑み下し難いなにかを拒絶するように、ソラは何度も嘔吐した。

 唇が震える。涙がにじんだ。耳障りな鼓動が警鐘のようにがんがんと頭を打つ。心臓が破裂しそうだ。うまく息ができない。世界がゆらゆらとまわり、どちらが上か下かもわからなくなる。

 強く地面にしがみつくと、凍てついた砂利が手のひらを傷つけた。

 鋭い痛みがちくりと脳を刺し、感覚がゆっくりと天地を取り戻す。

 震える手のひらに滲む赤色を見て、唐突に理解した。

 ああ、これは夢じゃない。幻じゃ、ない。

 これは、まぎれもない現実。




 ジインが、死ぬ。

 オレのせいで、ジインが。

 傷から毒が広がって。

 ……苦しみながら。




 ――こんなことになるなんて。




 引きずるような足取りで工場の中へ戻る。静かに眠るジインのそばへ、懺悔のようにひざまずいた。暗闇の中でほの光る白い顔を見つめる。青い闇に染まる横顔はよくできた石像かなにかのようで、どこか現実離れした美しさがあった。

 こんな時だというのに、思わず見とれてしまう。

 離ればなれになってから、寝ても覚めても想い続けてきた顔だ。

 そっと手を伸ばす。触れた頬は冷えきっていて、まるで氷のようだ。

 ああ、そうだ、早く着替えさせなくちゃ。

 上の制御室へ運んで、安静にしないと。

 ストーブはちゃんと動くだろうか。

 ベッドを整えて、部屋を暖かくして、それで。

 ……それで?

 その、後は――……?

 ゆっくりと辺りを見回す。

 深く青い闇の中に点々と置かれた機器は、まるで墓地に立つ墓標のよう。

 そこここに口を開ける空虚な暗闇は、呑み込む死人を待つ墓穴を思い起こさせた。

 ここでただ安静にして、その後は――……。

 ぞくりと背筋が寒くなる。

 ――ここはダメだ。

 立ち上がり、震える手で黒いバッグを漁る。薄いアルミでできた防寒用ブランケットを広げ、震えるジインの体を包み込んだ。

「ソ、ラ……?」

 気づいたジインがうっすらと目を開ける。

「少しだけ我慢して」

 バッグを肩にかけ、朦朧としたままのジインの体を慎重に背負う。

 ここにいてはダメだ。ここに居てはいけない。

 このまま、ここに留まれば。

 このまま、何もできないまま、すべてが終わってしまう。

 なにか恐ろしいものに追われるように驟雨の中へと足を踏み出す。途端に強烈な雨つぶてが全身を叩いた。うつむく目に、口に、冷たい雨水が入り込む。

 凍てついた砂利は素足を突き刺し、一足ごとに傷ついていく両足が悲鳴に似た声音で問うてくる。

 ――どこへ行くつもりだ。

 わからない。

 ――何をするつもりだ。

 わからない。

 見上げる先は明り一つない漆黒の闇だ。

 足元を照らす光はおろか、宛てもしるべも何もない。

 まるで地獄の底へと続く黄泉の道を下っているかのようだ。

 それでも、進むしかなかった。

 ここにいてはダメだ。ここに居てはいけない。

 このままここで終わりを待つなんて。

 なにもせず、ただ見ているだけなんて。

 そんなことできない。できるはずがない。

 きっとなにか、ジインを救う方法があるはずだ。

 ――最新医療技術でも人体から竜毒を取り除くことは――。

 蘇る言葉に首を振る。

 魔法院が治せなくても、他に治せる医者がいるかもしれない。

 広く知られていない民間療法とか。

 秘境の奥地に自生する、万病に効く薬草とか。

 飲むだけで寿命が延びるという泉の水とか。

 この国にはなくても、世界中を探せば、きっとなにか方法があるはずだ。

 でも、いったいどうすれば?

 限られた時間の中で外国へ渡り、治療法を発見するなんて。

 パスポートは? 『身分証』は? 船の手配は、お金はどうする?

 どこへ行けばいい? 何をすればいい?

 どうすれば、ジインを助けることができる?

 わからない。思いつかない。何一つ。

 こんな時にどうすればいいのかを、何一つ自分は知らない。

 今までは、ジインがいてくれた。

 どんな時も、前を行くジインの背中が進む道を示してくれた。

 けれど、今は……。

 背中にジインの震えが伝わる。体温が遠い。頼りない吐息は雨音で今にもかき消されてしまいそうだ。

 支える腕が恐怖で震え出す。歯の根が合わない。

 早く。

 この闇を抜けて、早くどこかへ。

 でも、いったいどこへ……。

 おぼつかない足をぬかるみにとられ、膝をついた拍子にジインの手が垂れ下がる。どこか傷口が開いたのだろうか、白い指先から薄紅に色づいた水滴が滴り落ちた。

「あ……」

 こぼれていく。

 ジインの、命が。

「だ……だめだ!」

 思わず手で受け止める。水滴は、指の間を虚しくすり抜けていった。

 止められない。救えない。

 流れ出る命を留める術も力も、自分は持っていない。

 ――失ってしまうのか。

 このまま、何もできないまま。

 ただ黙って見ているしかないのか。

 ジインが苦しむ姿を。

 腕の中で冷たくなっていくのを。

 なにもできずに、ただ見ているしかないのか。

 ――目を逸らすな――。

「……――ッ、」

 恐怖が突き抜ける。悲鳴に似た呻きが喉元まで出かかった。

 いやだ。だめだ。そんなこと。

 そんなこと、とても耐えられない。

 ああ、なぜ、どうしてこんなことに。

 こんなこと――……。

 ――これはおまえの咎だ――。

「……オレの、咎」

 ジインを傷つけたことが、オレの罪。

 それに対する報いが、ジインを失うことだというのか。




 ――もしこれが、自分に与えられた罰だというのなら。




 空を見上げる。雨粒が容赦なく頬を打った。

 神さま。

 そこにいるならどうか。

 ジインを、助けて下さい。

 これが報いというのなら、他のどんな罰でも受けます。

 地獄の炎で焼かれてもいい。

 体中を切り刻まれたってかまわない。

 でもジインは。

 ジインだけは、どうか。

「――け、て」

 天使でも悪魔でも、誰でもいい。

 もう死神だってかまわないから。

 どうか、この命と引き換えに。

 だれか、どうかジインを。

「誰か……だれか、助けてえぇェッ!!」 




 身を切るような叫びは、虚しく雨に紛れて消えた。




 ――砂利を踏みしめる音がする。

 地面に落としたままの視界に現れる、黒い靴先。

 ゆっくりと顔を上げる。

「……しに、がみ……?」

 影が、見下ろしていた。



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