022 宣告
そして、また夜が来る。
――ああ、またか。
瞼を開け、そこが相変わらず薄暗い制御室なのを確認して、ソラは重い息を吐いた。
ガラスの抜け落ちた窓から見える空は、数えることを止めてからもただ無情に朝と夜を繰り返している。
ジインと背中合わせで眠りについた夜など、もう遠い昔のことのようだ。
あの日以来厚い雲に覆われたままの空はすでに暮れて、今は果てない闇の彼方から礫のような雨が降り注いでいる。
世界の終わりを告げるような空模様は、まるで自分の心を映したようで。
――ソラ――。
その雨に混じって自分を呼ぶのは、ここにはいない人の声だ。
部屋の隅で膝を抱えたまま、ソラはただひたすら呼吸を繰り返していた。
まるで手負いの獣のように暗がりから一歩も動けないまま、息を吸い、息を吐き、時々思い出したように瞬きをして、ぼんやりと窓の外に目を向ける。その繰り返しだ。
そうしてうつらうつらと夢みては、ありもしない姿を見て、聞こえもしない声を聞く。
――ソラ――。
誰もいない闇の向こうに、もう何度その声を聞いただろう。遠く優しい呼び声を耳にするたびに、夢だとわかっていてもまぶたを開けてその姿を探さずにはいられない。
無事だろうか。
苦しんだり、痛がったりしていないだろうか。
何か酷いことはされていないだろうか。
――生きて、いるだろうか。
おびただしい血の色が頭をかすめ、ソラは思わず目をつむった。
散らばる髪。虚ろな瞳。広がっていく赤い染み。
「……ッ、」
網膜に焼きついた凄惨な光景はふとした隙を突いて鮮やかによみがえり、繰り返しソラを襲った。
呼吸が喉にからまる。鼓動が乱れて、額に脂汗が滲んだ。
まるで同じところを何度も斬りつけられているようだ。
刃となるのは、愛する人の血で染まった最低最悪のおぞましい光景。
けれどそれを引き起こしたのは、まぎれもない自分だ。
鉄臭さの消えない手で膝を抱え、強く額を押しつける。
――ジインを、傷つけた。
深く深く肩をえぐって。
あんなにたくさん血を流させた。
オレが、ジインを――……!
痛いほど唇を噛み締める。固く小さく縮こまる体がみしりと音を立てた。
のしかかる罪の重さに肺が潰れ、背骨が軋む。
ああ、これが自分に与えられた罰なのだろうか。
冷たい雨の檻に籠められ、重い闇の枷に捕われて。
飢えでも病でも死ぬことのない体で、いつ終わるとも知れない時間を生かされながら。
自分の犯した罪の記憶に苛まれ続けるのだろうか。
このまま、ずっと。
――ひとりぼっちで。
「……それでもいい」
これがジインを傷つけた事への報いだというのなら、喜んでこの身を差し出そう。
会いたいと願うことさえ罪だというのなら、その望みもすべて捨てよう。
一生会えなくてもかまわない。
夢も希望も温もりも、何一つこの手に残らなくていいから。
だから、どうか。
「無事でいて……」
他には何も望まないから。
どんな姿でもいい、どんな形でもいいから、どうかどうか生きていて。
心の底から、ただそれだけを願った。
――ソラ――。
ああ、まただ。またジインの声が聞こえる。
今はもう懐かしいとさえ感じるその声が、夢の淵で自分を呼ぶ。
何一つ望むまい、欲すまいと誓った矢先から、心が、体が、魂がその存在を求めてしまう。
誰もいない空虚に、こんな幻聴を作り出すほどに。
――ソラ――。
いつにも増して遠く儚げなその声に、意識が吸い寄せられていく。
どこか苦しげな呼び声は、降り続く雨音に埋もれて今にも消え入りそうで――……。
「!」
はっとして飛び起きる。息を止めて、ソラはじっと耳をすました。
夜空から落ちてくる幾千幾万の水滴。
その合間をすり抜けて届く、かすかな声は――……。
「……――!!」
窓へ飛びつくようにして、闇の先に目を凝らす。
皿のように目を見開いたまま、ソラは息を呑んだ。
――まさか。
部屋を飛び出す。高鳴る鼓動に急かされるように階段を駆け下り、ガラスのない窓をすり抜けて裸足のまま二階から飛び降りた。途端に強烈な雨つぶてが全身を叩く。視界を遮るほどの雨も構わずに、ソラは目を見開いた。
豪雨に煙る闇の向こう。降りしきる雨に打たれて、輪郭の形に飛沫を散らす人影が二つ。
まさか、そんな――。
「――ジイン!?」
駆け寄って体を支える。深く被ったフードとゴーグルで顔はよく見えないけれど、懐かしい匂いは確かにジインのものだ。細い肩を抱き、確かな重みを両腕に受け止めながらも、ソラは目の前で起きていることが信じられずにいた。
ジイン……ジインだ。本当に?
いや、自分はまた夢を見ているのかもしれない。
まぶたを開いたら、ここは薄暗い制御室で――……。
「ソラ……」
声が聞こえた。弱々しい、かすかな声音。けれどそれは、雨の粒子が混じる空気を震わせて確かにソラの鼓膜に伝わり、電流のように全身を駆け巡った。
世界を埋め尽くしていた黒い霧が一瞬にして吹き飛ぶ。
現実だ。
夢なんかじゃない。幻なんかじゃ、ない。
ジインがいる。ジインが生きて、ここにいる。
ああ、神さま……!
「早く中へ」
傍らに立つ固い声が言う。ああそうだ、そうだった。
「こっちへ」
裏口から工場内へ移動して一階の隅へジインを運び込む。元は作業場だったらしい広い空間には、打ち捨てられ錆び付いた機器の残骸が点在している。
ビニルカバーで覆われたその中の一つにジインを寄りかからせ、震える手でフードを払いゴーグルを外す。
頬に貼り付く漆黒の髪。陶器のような白い肌。薄いまぶたの下から現れた夜色の瞳は記憶にあるよりもずっと深く澄んで鮮やかだ。
こんなに美しい色の瞳を持つ人間は他にいない。
ああ、本当にジインだ。ジインが、ちゃんと生きている。
「ソラ……やっぱり、ここにいたんだな……」
会えてよかったと、絶え絶えに呟く唇が安堵の笑みを浮かべる。冷たい手のひらがソラの頬に触れた。
濡れそぼった肌の奥に感じるかすかな温もりに、胸が熱くなる。
生きている、命の感触。
恋しくて恋しくてたまらなかった、ジインの温もりだ。
ああ、生きていた。生きていてくれた。
「ジイン……無事でよかった……本当に、よかった……っ!」
声が詰まり、目の奥が熱くなる。喉がぎゅっと締めつけられる感じがして、視界がゆらゆらと歪んだ。
「泣くなよ、ばか」
呆れたようにジインが笑う。
「泣いてないよ……全っ然、泣いてない」
目に涙を溜めたまま、無理やり口角を上げる。おそらくおかしな顔になったのだろう、こちらを見ておかしそうにふわりと微笑むと、ジインは深く息を吐いて静かにまぶたを閉じた。
頬に触れていた手が、ずるりと滑り落ちる。
「ジイン……?」
ぐったりとうつむくその顔を凝視する。よく見ると、蒼白の額には雨ではない雫が浮かんでいた。震える体。苦しげな呼吸。唇は暗闇でもそうとわかるほどに真っ青だ。
それにこの、かすかに鼻を突く錆びた匂いは……。
「一体いつまでそうしているつもりだ」
声を見上げる。長身の少年が冷たくこちらを見下ろしていた。
ジインより二、三歳年上だろうか。少年と呼ぶには大人びた、けれど青年と呼ぶには少し幼いその人は、濡れたフードを外しながら工場内を素早く観察した。
「もっと暖かい場所はないのか? 何か暖房機器は」
「あ……ストーブなら、上の部屋に」
「燃料は?」
「え? ええと、確か二年前の固形燃料が残っているはず……です」
年上とおぼしき相手に一応敬語を使いつつ、わずかに警戒しながらソラは目の前の少年を観察した。
この人はいったいジインとどういう関係なのか。
「ベッドは?」
「一応あるけど、使えるかどうか」
錆びたスプリンクが飛び出た埃だらけのマットレスを思い出して、ソラは首を傾げた。
「寝袋も持って来るべきだったか」
ため息まじりに独りごちて、少年が背負っていたデイバッグを下ろす。
「着替えが入っている。早く着替えさせて、暖かいところに寝かせてやれ」
「は、はい」
「これは水と食料だ。どちらも濃縮固形で七日分ある。こっちはライトとブランケット」
ライトは手動発電式、水は足りなければこの小型浄水器で雨水を、などと短い説明を加えながら、少年が手際よくバッグの中身を改めていく。
「これが医療品。このケースが薬だ。鎮痛剤、抗生物質、炎症止め、解熱剤、催眠剤、消毒液、一通り揃っている。薬の打ち方は?」
わかるかと問われて首を振る。苛立たしげに短く息を吐くと、少年はペンに似た筒を取り出して見せた。
「このシリンジに薬の入ったカプセルをセットして打つ。薬によって打つ箇所が違ったり、次に打つまで空ける時間の間隔が違うから、注意書をよく読むように」
「わかりました。ありがとうございます」
医療品のバッグを受け取りながら礼を言うと、ふいに視線が重なった。暗視ゴーグルの奥からじっとこちらを見据える鋭い眼差しは、まるで眼球を突き抜けて心の奥底を探ろうとしているかのようだ。
思い出すのは、『彩色飴街』で向けられた冷たい視線。
けれど、違う。
少年の眼差しには“ヒトガタ”に対する恐怖がないかわりに、もっと違う何かが込められているようだった。
「あの、」
何か言おうと口を開いた途端、視線がついと逸れる。唇を固く引き結びしばらく何かを思いためらった後、少年は胸のポケットから銀色のケースを取り出した。
「あとは、これを」
手渡されたケースを開くと、先ほどの注射器と似たものが一本だけ入っていた。きっちりとパッキングされて大きな赤い印字の施されたそれは他の薬とどこか雰囲気が異なっている。
「静脈に打てば、数秒で楽になれる」
「え?」
言われた意味がわからず、ソラは思わず首を傾げた。
楽になれるとはどういうことだろう。効果の強い痛み止めか何かだろうか。
「どうしても苦しんで……どうにもならない時が来たら、使え」
「……え?」
どうしても苦しんで。
――どうにもならない時?
「ま、待って下さい。“楽になれる”ってどういう意味ですか? ……まさか、」
視線が重なる。まるで鉛の粒子でも含んでいるかのような重く硬質なその眼差しで、ソラは自分の想像が正しいことを悟った。
楽になれるというのは、つまり――。
「っ!」
弾かれたように手を放す。床に落ちたケースが、かしゃんと耳障りな音を立てた。
「なんで……こんなもの、いらない! どうしてこんな、」
「黒瀬の希望だ」
緩慢な動きで少年がケースを拾い上げる。ソラは耳を疑った。
ジインの、希望?
「な……んで……どうして、ジインが、」
「どうしてこれが必要なのかは――」
腕を掴まれ、引き寄せられる。
「――自分の目で確かめるんだな」
そう言って、少年はソラの胸に叩き付けるようにそれを押しつけた。
暗視ゴーグルの奥の瞳がぎらりと光る。
抜き身のナイフに似た眼光が突きつけるのは、ほとんど憎しみに近い怒りの感情だ。
――どうしても苦しんで、どうにもならない時?
不穏な動悸が胸を打ち始める。一度は消えたはずの黒い不安が、胸の奥底から再び染み出す気配がした。
“苦しむ”って、なに。
“どうにもならない”とは、いったいどういうこと。
胸に抱える銀色のケースがずしりと重みを増す。
命を絶つ薬。
なぜ、どうしてジインがこんなものを。
差し貫くような視線の残滓を網膜に残したまま、少年は目を逸らした。
「――黒瀬」
暗視ゴーグルを外し、少年がジインに呼びかける。薄いまぶたがかすかに震え、ややあってから夜色の瞳が覗いた。
「もう行くよ。荷物と薬類は彼に渡しておいたから、なにかあればすぐに言うように」
ゆっくりと噛み砕くように少年が言う。先ほどとは打って変わった柔らかな口調だ。
うなずく代わりに、ジインはゆっくりと一度瞬いた。
「ありがとうございます……小雪と北見にも、礼を……」
「伝えておく。……他に何かして欲しいことはあるか?」
「ここまでしてくれただけで、もう十分ですよ」
言いながら、ふいにジインが笑った。
「沢木さん……本当にいい人ですね」
「……気づくのが遅すぎるな」
痛みを堪えるような顔つきで、沢木も笑う。
ぎゅっと胸が締めつけられる感じがして、ソラは沢木の笑顔から目を逸らした。
――泣いている。
瞳も頬も少しも濡れていない。でも、わかる。
この人は今、心で涙を流している。
一目でそうとわかるほど、沢木の笑顔は悲しく、そして痛々しかった。
「――ありがとう、沢木さん」
ジインの笑顔が変わる。可笑しそうに笑っていたさっきまでの笑顔とは違う、もっとやわらかで優しい微笑みだ。
それはまるで、心の奥底からふわりと湧き上がり、辺り一帯を美しく透明なもので満たすような。
ソラにすら滅多に見せないその表情に、沢木の笑顔が崩れる。本物の泣き顔へと歪みかけた顔を隠すようにして、沢木は立ち上がった。
暗視ゴーグルをかけ、深呼吸を一つする。
ジインがゆっくりと腕を上げた。
「――さようなら、沢木教士」
胸の前に水平に腕を上げ拳を作る動作は、魔法士の敬礼だ。
「……さようなら、黒瀬錬士」
ジインの敬礼に沢木も敬礼で応える。名残惜しげにジインを見つめたままゆっくりと二、三歩後じさり、沢木は背を向けた。鉛の枷を引きずるように重々しく歩き出した靴音は、一歩一歩何かを断ち切るように闇に響き、次第に速度を増しながら戸口へと遠ざかっていく。
「あ……待って、待って下さい!」
はっとして、ソラは慌てて沢木の後を追った。
“苦しむ”とは、いったい何のことか。
“どうにもならない”とは、いったいどういうことなのか。
その答えをまだ聞いていない。
不穏な言葉の意味を図りかねて、疑問符だけが増えていく。
疑念は思考のごく浅いところで滞って渦を巻き、まるでその先の結論へ到達することを恐れているようだった。
扉の外れた戸口を出たところで沢木の腕を掴み、行手を遮るようにしてその顔を見上げる。
ゆっくりとこちらを向いた重く悲しげな眼差しは、まるでたった今誰かを亡くしたような……。
恐ろしい想像にぶるりと頭を振る。不安を煽るその眼差しをはね返すようにまっすぐ見つめて、ソラは訊ねた。
「“苦しんでどうにもならない時”って何ですか? どうしてジインがこんなもの……こんな薬がどうして必要なんですか?」
手に持ったままのケースを強く握り込む。背筋を冷たい汗が流れた。
「教えて下さい……ジインはどうなるんですか? 傷の具合はそんなに悪いんですか? そもそも、あんな状態のジインをこんなところに連れて来て大丈夫なんですか? あんなに震えて、青ざめて……本当はまだ病院で治療を続けなきゃいけないんじゃないんですか!?」
思わず語気が荒くなる。ジインをここまで連れてきてくれた恩人に対して、とっていい態度ではないことはわかっている。
けれど、胸の中で逆巻く不安が言葉と鼓動を荒くさせた。
震える体。苦しげな呼吸。ぐったりと青ざめたあの横顔。
まさか、まさかジインは――。
問いに一つも答えないまま、沢木はただじっとソラを見つめていた。
押し黙っているものの、暗く沈んでいた双眸が次第に鋭さを増していく。
一触即発の気配を感じながらも、鼓動に急かされるままソラは問いを重ねた。
「黙ってないで答えてくれ! ジインは、ジインは治るんですよね!? この辺りにはまともな病院がないんだ、もし何かあったら――」
「もう無理なんだよ!!」
胸ぐらを掴まれ、踵が浮く。壁に背中がぶつかった。
暗視ゴーグルの奥、怒りにたぎる双眸がすぐ目の前だ。
沢木の全身から立ち上る怒りの感情が、まるで肌を刺すよう。
そうだ、この人は会った時から自分を憎んでいるようだった。
なぜ? どうして? オレが“ヒトガタ”だから?
それとも――……。
「おまえが……おまえさえいなければ、黒瀬は……っ!」
憤怒に顔を歪ませて、沢木が低く唸る。
「あいつがどうなるか、だと? ――どうにもならないんだよ、もう。院の最新技術でも竜毒は消せない……進行を止めることはおろか、遅らせることすらできないんだ!」
「――リュウドク?」
リュウドク。りゅうどく。
――竜の、毒?
「毒って、なに……?」
声が掠れる。鼓動がうるさくて耳がよく聞こえない。
溢れ出す嫌な予感が喉に詰まって、息が止まってしまいそうだ。
「なんだよ、“竜毒”って……? “どうにもならない”って、どういうこと? 無理って、“もう無理”って、いったい何が無理なんだよ!? ジインは――、」
「竜毒を受けた者は!」
雨の音が大きくなる。
お互いの息づかいや雫のしたたり、泥の匂いやなんかが、沈黙の中でやけにくっきりと感覚を占めて。
ふいに思い出す、ジインからした錆びたようなあの匂い。
ああ、そうだ。あれは血の匂いだ。
あの時、あの恐ろしい光景に満ちていた、赤い、赤い――。
まるで永遠のような数秒を経て、沢木の唇がゆっくりと動いた。
「竜の牙で負傷した人間は、傷口から竜毒が広がって――……」
――足の下に、ぽっかりと穴が開いた気がした。