021 闇に降る
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
ぼくたちは、いったい何を間違えたんだろうか。
「――ソラ?」
ドアノブに手をかけたジインが振り返る。その腰に抱きついたまま、ソラは小さく呟いた。
「――いかないで」
空には鈍色の雲が厚くたれ込めて、まだ昼前だというのに夕暮れのように薄暗い。歪んで閉まらない窓の隙間から忍び込む雨風は、まるで誰かのすすり泣きのようで。
どうしてだろう。こんな日は、嫌な予感に胸が騒ぐ。
「いかないで。いっちゃ、いやだ」
顔を押しつける。昨日洗ったばかりの上着からは、石けんのいい匂いがした。
「なーに言ってんだ」
笑いを含んだ台詞が頭の上から降ってくる。
「おれが“仕事”に行かないと、ご飯が食べれないだろ?」
「いらないもん」
ジインの上着に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟く。
「ごはんも服も、なんにもいらない。だからここにいて。いっちゃ、いやだ」
「無茶言うなよ」
呆れ声で言いながら、ジインの手がくしゃりと頭を撫でた。
ジインの細い指先が、髪の間をするりと抜けて地肌を滑る。
こごった心がほわりとほどけるような、その感触。
「なるべく早く帰ってくるよ。いい子でお留守番してたら、お土産買ってきてやるからさ。ほら、もう放してくれ」
その優しい声に抗うように、ソラは腕に力を込めた。
行かせてはいけない気がした。
手を離してはいけない気がした。
いま、手放せば。
もう二度と、触れられないような気がして。
「こーら、放せってば、もう」
ぽんぽんと背中を叩かれる。それでも頑なに手を解かずにいると、今度は短いため息が聞こえた。
「だめだよ、ソラ。おれはもう行かなくちゃいけないんだ……だって」
強く抱きしめていたはずの体が、ふいに消える。
「――ジイン?」
闇の中でほの光る、白い首筋。
「――だって、おまえがおれをこんなふうにしたんだから」
そう言って微笑んだ唇から。
溢れ出す、赤い。
赤い――……、
「……――ッ!!」
びくりと体を震わせ、ソラは顔を上げた。
ひび割れた灰色の壁。錆び付いた計器。ガラスの抜け落ちた窓からは、陰気な雨音が入り込んでくる。
闇に沈んだ小さな部屋に自分以外の気配はない。
「――ゆ、め」
いつの間にか眠っていたらしい。
汗の滲んだ額に手をやると、ざらつく手指から錆びた鉄の臭いがした。
――夢、じゃない。
暗闇に手をかざす。乾いてくすんだその色の鮮やかさが、脳裏に生々しく蘇る。
散らばる髪。虚ろな瞳。広がっていく赤い染み。
――夢なんかじゃ、ない。
ぼくは、ジインを。
「……どうして」
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
ぼくたちは、いったい何を間違えたんだろうか。
何度問いかけてみても、闇の向こうから返ってくるのは冷たい雨の音だけだ。
闇にかざす手が震え出す。
守りたいと心から願った人の血が、今この手を染めている。
「……どうして……っ!」
なぜ、どうしてこんなことに。
ぼくたちは、いったい何を間違えて。
ぼくは、
あなたと、
ただ、一緒にいたかった。
それだけなのに。
「――だいじょうぶ」
大丈夫。心配いらない。
きっとあの人が、ジインを助けてくれる。
あの時、倒れたジインに駆け寄って来た栗色の髪の少女は、ジインをよく知っているようだった。きっと魔法院での知り合いか何かだろう。泣きそうな顔で何度もジインを呼んでいた。もしかしたら、とても親しかったのかもしれない。あの人がジインを病院に運んでくれたはずだ。東にはまともな病院がないけれど、応急処置ぐらいはできるだろう。その後すぐに西の医療施設へ運べば、最先端の医療器具も腕のいい医者もいる。薬もいっぱいあるはずだ。追われる身とはいえ、ジインは貴重な天然の魔法使いだから、魔法院も何とか助けようと手を尽くすはずだ。
そう、だから大丈夫。
ジインが、――はずない。
――ぬ、なんて、そんなことは。
絶対に。
「……あるはず、ない」
ガラスの抜け落ちた窓に目をやる。外は色の無い闇だ。いつからか降り出した雨はいっこうに止む気配がなく、この部屋を外界から遮断するように降り続いている。
あれからどれぐらいの時間が経ったのだろう。すでに数日経ったのかもしれないし、もしかしたら数時間しか経っていないのかもしれなかった。身じろぎをすると、体中が音を立てて軋んだ。あの日から食べ物はおろか、水さえ口にしていない。普通ならば、とっくに脱水症状を起こして死んでいるところだろう。
普通の……人間ならば。
ゆっくりと部屋を見回す。わずかな明りもない暗闇の中でも、“普通じゃない”自分の両目はそこにあるものを鮮明に捉えることができた。
錆び付いた計器と操作板。割れた窓ガラスに、剥がれ落ちたコンクリート。壁に貼り付けてあった色とりどりのお菓子の袋は、ほとんどが床に散らばっていた。足元に転がる不揃いの食器は、ジインと二人で旧市街の空き家から拾い集めた物だ。薄汚れたテーブルの上にあるビスケットの箱は、あの朝に開いたままの状態で残っている。
住処にしていた、廃工場の制御室。
『貧困街』外れの無人街一帯を見下ろすその小さな部屋に、ソラはいた。
――逃げて、早く!――。
あの時、少女の叫び声に突き飛ばされるように、その場から駆け出した。
迷い込んだ悪夢の出口を探すように、ただ闇雲にひた走って。
気がついたら、ここに辿り着いていた。
――もしお互いの居場所がわからなくなった時は、廃工場で待ち合わせしよう――。
そんな台詞を思い出したのは、鍵のかかった扉の前で立ち尽くしていた時だった。
「……鍵、」
首から下げたままの鍵を握りしめる。衣類も靴もすべて失った体に、唯一残された物だ。ジインと揃いのそれを鍵穴へ差し入れると、固く閉ざされていたドアはその時を待ちわびていたかのようにソラを迎え入れてくれた。
まるで、両手を広げて子どもを迎える母親のように。
なにも訊かずに、ただ温かく。
――お帰り、ソラ――。
闇の先に思い浮かべたのは、黒髪と夜色の瞳を持つ少年の笑顔。
母親というものがいったいどういうものかを自分は知らない。けれど、迎えてくれる人がいる温かさは、ちゃんと知っていた。
ひとかけらのビスケットを分け合う一体感も。
凍てつく夜に寄せ合う体温の心地よさも。
揃いの鍵を握りしめる安心感も。
ケンカのあと、ふいに視線が合った時の照れくささも。
遅い帰りを待つ心細さも。
その足音を聞きつけた時の安堵感も。
頬を寄せて抱きしめ合う幸せな気持ちも。
ちゃんと知っている。全部、ジインが教えてくれた。
ジインがオレの父親で、母親だった。
仲のいい兄弟であり、気の合う友達であり、運命を共にする仲間だった。
人と繋がること、愛すること。
そういうものすべてを、ここでジインに教わった。
この、廃工場で。
立ち上がる。素足の下でコンクリートの破片がからからと綺麗な音を立てた。ボロボロのマットレスをめくると、ベッド代わりに敷き詰めてある不揃いのプラスチックケースが出てくる。その一つを開けると、二年前の衣類がそのままの状態で現れた。
一番上にあったシャツを手に取り、裸のままだった体に羽織る。
途端に、懐かしさが鼻孔を占めた。
――ジインの匂いだ。
何かが膨らんで胸がはち切れそうになる。
漏れそうになる嗚咽を寸でのところで呑み込んだ。
「――ジイン」
ジイン。ジイン。無事だろうか。ちゃんと生きているだろうか。いまどこにいるのだろう。ちゃんと治療を受けられているだろうか。痛がってはいないだろうか。苦しんではいないだろうか。なにか酷いことは、されていないだろうか。
「ひどい、こと……」
白い肌に刻まれた無数の傷が脳裏をよぎる。
魔法院は、ジインをどうするつもりだろう。
あの時、あのまま置き去りにして、本当によかったのだろうか。
でも、あの場でオレにできることなんて……。
――逃げたな。
冷たい声が、ひやりと心臓を撫でた。
――死にそうなジインを置いて、ひとりで逃げた。
「違う……!」
思わず首を振る。
違う、逃げたんじゃない。
あそこにいても、オレにできることなんか何もなかった。
だから……。
――だから、逃げた?
「違う!」
ちがうちがう、そうじゃない。
ジインを置いて逃げるなんて、そんなこと。
「そんな、こと……」
――するわけない?
――本当に?
「……オレ、は――……」
まるで水銀を流し込んだように、臓腑が重く冷えていく。
ああ、そうだ。
オレは逃げたんだ。
ジインを傷つけたという現実から。
自分が竜だという事実から。
赤く残酷に広がっていく目の前のすべてから目を逸らして、逃げ出した。
そんなことをしても、逃げ切れるはずがないのに。
記憶を失う以前、ジインと暮らしていた頃は、自分が竜だなんて考えもしなかった。
けれど今思えば、それも“気がつくこと”から無意識に逃げていたのかもしれない。
だって、気がつかないはずがないじゃないか。
赤ん坊の頃にジインに拾われて、たった三年でこんなに成長したとか。どんな傷でもすぐに治る体質とか。並み外れた五感とか。筋力とか。
明らかに人と違う、ジインと違う、自分の体。
気がつかないはずがない。
きっと心の奥底では気づいていたはずなのに。
ずっと気づかないふりをしていたんだ。
ジインと、一緒にいたかったから。
「――ごめん」
だって。
オレは。
ジインのことが。
「ごめんなさい……」
好きなんだ。大好きなんだ。
――愛して、いるんだ。
少しクセのある黒髪も、心地よい声も、ほっそりと美しい手も。
時折見せる子どもっぽい眼差しも、大人びた物言いも、愁いを帯びた横顔も。
大輪の花がほころぶような微笑みも、怒った時の冷たい無表情も。
寝起きが最悪なところも、意外と押しに弱いところも。
際限のない優しさも、頑固な意志の強さも、その向こうに隠した脆さも。
人より低い体温も、か細い寝息も。
まぶしいほど白い首筋も、その下で静かに脈打つその鼓動も。
夜空を映した瞳の色も、何もかも。
指先の細胞の一つに至るまで。
ジインという、存在のすべてを。
言葉なんかでは言い表せないくらい。
本当に、深く、深く。
――それなのに。
「ごめんなさい……っ!」
なぜ、どうしてこんなことに。
オレたちは、いったい何を間違えて。
オレは、
ジインと、
ただ一緒にいたかった。
そのささやかな願いこそが。
オレの、大きな過ちだったんだ。