020 覚醒
白い。真っ白だ。
空気が発光しているかのように、光が溢れている。
「……――値は423dt。一般的な竜創の3.7倍です」
一定の間隔を刻む耳障りな電子音。耳元で響く風のような音が、どうやら自分の呼吸らしいということにジインはようやく気がついた。
体がぴくりとも動かない。まるで首から下を切り離されてしまったかのようだ。
これは夢の続きだろうか。それとも――……?
白濁した意識のまま、ジインはゆっくりと視線を巡らせた。
「DTの影響による各部機能の低下はまだ確認できませんが、時間の問題でしょう。いくらNBだからといって、この数値ではやはり……」
真っ白な壁の前に立つ、二つの背中。片方は白衣、もう一方は魔法院の制服だ。
見覚えのある制服の背中が、ゆっくりとこちらを振り向いて笑った。
「おや、気がついたのかな?」
その声を聞いた途端に、背筋に冷たいものが走った。
――桐生導師。
ピピピ、と電子音の間隔が乱れる。嫌な汗が滲んだ。
こつこつと近づく靴音が、まるで心臓を直接小突くようだ。
逃げ出したいのに、シーツの上に横たわった体はほんの1ミリも動かない。
いやだ、いやだ、こっちへ来るな――。
「ぼくの声がちゃんと聞こえる? ぼくのことがわかるかな?」
撫でるように桐生が囁く。まるで幼子に優しく問いかけるような口調だ。
けれどその双眸は、いたぶり甲斐のある獲物を追い詰めた獣のそれで。
喉元に牙を突きつけられているかのように脈が乱れる。
なぜ、どうして桐生がここに。
ここは……ここはどこだ。
白衣の看護士が一礼して部屋を出る。音もなくスライドしたドアからちらりと見えた廊下も、室内と同じように白い光に溢れている。
整った環境設備に、最高水準の医療機器。
――ここは西の医療施設?
おれは、どうしてこんなところに。
「いやぁ、きみは本当におもしろいね。まさかとは思ったけど、本当にあの“ヒトガタ”に噛まれるなんて」
くくく、と桐生が喉で笑う。
そうだ、おれはあの時ソラに――……。
「!」
ソラ。
意識を失う直前に見た、あの姿。
あの、人の姿は。
あれは、夢……?
「飼い犬に手を噛まれたとは言うけれど、ふふっ、飼い竜に噛まれたのでは洒落にもならない。それで、どうかな? 命よりも大事な弟くんにこんな仕打ちを受けた心境は」
恩を仇で返すとはまさにこういうことを言うんだろうねぇ、と感心するような口調で桐生が眼鏡をくいと上げる。
「けれど弟くんも、愛するお兄さんを噛み殺しかけて相当ショックを受けたようだね。聞いた話によると、きみを襲った直後に第三形態から第二形態に戻ったらしいじゃないか。竜化は不可逆のはずなのにね。逆行が精神的ショックによるものかどうかはわからないけれど、とにかく初めてのケースだ。実に興味深いよ」
研究のしがいがありそうだ、と呟く唇に意地の悪い笑みが浮かぶ。
先ほどとは種類の違う動悸が、ばくばくと胸を叩いた。
――夢なんかじゃない。
ソラが“ヒトガタ”に、人の姿に戻った。
もう二度と会えないと思っていたあの笑顔に、あの瞳に。
――もう一度、会えるかもしれない。
「“ヒトガタ”のままどこかへ逃げたようだけど、大丈夫。弟くんの行方はいま魔法院が全力を挙げて追っているからね。無事に捕まえたら、きみたちのシャーレは隣同士にしてあげよう。ああ、何なら解剖に回す前に一度会わせてあげてもいい……ふふっ、別れを惜しんで泣き叫ぶきみの姿が今から楽しみだな」
楽しげに笑う桐生の顔を、ジインはありったけの憎しみを込めて睨みつけた。
おぞましい笑顔に爪を立ててずたずたにしてやりたいと強く思う。
憎悪が刃になって、こいつの薄笑いを今すぐ切り裂いてしまえばいいのに。
差し貫くような眼差しを受けて、灰色の双眸がすうっと細められた。
「――まあそれも、きみの体がそれまで持ちこたえればの話だけれどね」
ぎくりと心が強張る。
ひやりとした指先が、右肩の上をそっとなぞった。
「この傷……急所はうまく外れていたけれど、きみの体には弟くんの竜毒がたっぷりと入っている。毒牙の刺さり具合がよほどよかったんだろうねぇ、DT値は通常の3.7倍だそうだ。竜創患者の最長存命記録は四十一日だけど、こんなに華奢なきみの体だ。弟くんを捕らえるまで耐えられるかどうか……。ぼくとしては、きみが生きているうちに何とか会わせてあげたいと思うんだけどね。そうすれば、ほら……竜毒で悶え苦しむきみの姿を、弟くんにもじっくり見せてあげられるだろう?」
滴るほどに毒を含む言葉が、耳から流れ込んでくる。
その手触りさえあるかのような悪意に侵されて、体の芯が急激に冷えていった。
――ああ、そうだ。そうだった。
おれはソラに……“竜に噛まれた”んだ。
竜毒を受けた者は、必ず。
必ず――……。
見る間に色を失ったであろう双眸をのぞき込んで、桐生が悪魔のような笑みをますます深めた。
「そう、その瞳だ……。とても、いい」
息がかかるほど間近で、灰色の双眸が冷たく光る。
「本当にきみは絶望がよく似合う。そうやってひとつひとつ失いながら、じわじわと壊れていけばいい。完膚なきまでに打ちのめされたきみの姿を想像するだけで、体の奥がぞくぞくするよ……! きっとどんな悲劇にも勝るくらい、凄艶だろうねぇ」
肩から胸、胴体へと、桐生の指先がゆっくりと体をなぞっていく。おぞましい感触は、脇腹あたりでひたと止まった。
「そして後に残ったきみの体は、『神ノ庭』進出のためにぼくが有意義に使わせてもらおう……臓物から何から、細胞のひとつに至るまで、残らずすべて……ぼろぼろになるまでね」
耳を塞ぐ代わりに、固くまぶたを閉ざす。
いくら視界を遮断しても、目の前の現実は消えてくれない。
最低最悪の、信じがたい現実。
悪意に満ちた気配は忍び笑いとともにゆっくりとベッドを離れ、部屋から消えた。
たった一人残されたあとも、注ぎ込まれた言葉の毒はじわじわと臓腑を焼き、心を弱らせていった。
――絶望しろ。
そう囁きながら、黒く冷たいものがひたひたと胸を満たしていく。
自分はもう、生きてこの部屋を出ることはできないのだろう。
たとえここから逃げ出すことが叶ったとしても、この体は、もう――……。
細い涙がゆっくりとこめかみを伝う。それを拭うことはおろか、隠すことさえ今の自分にはできない。
もう、なにもできないんだ。
なにも――。
……――ジイン……ッ!!
蘇る悲痛な叫びに、はっとしてまぶたを開く。
意識を失う寸前に見た、あの瞳。
あの、悲鳴。
たとえば、ソラが同じぐらいの強さで自分を想っていてくれたとして。
そんな相手を己の手で傷つけてしまったとしたら。
その心に受ける傷は、痛みは、どれほどのものだろうか。
きっと、どこかで泣いている。
――行かなくちゃ。
黒く冷たいもので満ちた胸の奥底に、白く小さな光が宿る。
行かなくちゃ。
自分にはまだ、やるべきことがある。
扉がスライドする。誰かが部屋へ入ってきた。
引きずるような足取りで静かに枕元に立ったのは。
「――黒瀬」
深く疲労を刻んだ顔で、沢木がこちらを見下ろす。ひどい顔だ。糊の利いた清潔な制服に着替えてはいるけれど、その顔はまるで何キロもの道のりを寝ずに歩いてきたようだった。
こんな顔をさせているのは、他ならぬ自分なのだろう。
申し訳ないと、心から思う。
思いやりとか優しさとか、そういうものを遠ざけて。
差し伸べられた手を払いのけて。
本当に、ひどいことをした。
それでも、おれは――……。
腕に力を入れる。ぴくりとも動かない右腕の代わりに、左腕を持ち上げた。驚いた沢木が膝をつき、手をとってくれる。
「どうした? どこか苦しいのか?!」
わずかに首を振る。唇を動かすけれど、声が出ない。弱々しい吐息が虚しく喉を過ぎるだけだ。
肺に大きく息を吸い込む。
「――、ッ」
声を出そうとした瞬間、杭を突き刺されたような激痛が体を貫いた。
「黒瀬!」
焼けつく痛みの塊が、右肩の中でじわりと広がる。
悲鳴とも呻きともつかない声が、食いしばった歯の合間から漏れた。
額に脂汗が滲み、耳障りな電子音が心拍数の乱れを知らせる。
いけない。この部屋のすべては監視室でモニタリングされている。生体情報が基準値を超えれば、すぐに看護士が駆けつけてくるだろう。
落ち着け。動悸を静めるんだ。
まぶたを閉じ、出来るだけ体の力を抜いた。震える息をゆっくりと吐き出し、治まり始めた右肩の痛みから気をそらす。
ずくんずくんと、動悸に合わせて脈を打つ、痛みの余韻。
痛い。だから、大丈夫。
自分はまだ、生きている。
人を呼ぼうと立ち上がりかけた沢木の手を強く握る。声にならない言葉が少しでも伝わるように、濃灰色の瞳をまっすぐ見据えた。
「――さ、」
沢木さん。
さんざん振り回しておいて、今更こんなことを頼める筋合いじゃないけれど。
お願いだ、手を貸してくれ。
――ここで終わるわけにはいかないんだ。
あれから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。
立ち上がれる程度に傷が塞がるまで、何日かかるだろうか。
それよりも、竜毒の進行は。
この体に残された時間は、あとどれぐらいだろう。
――急がなくちゃ。
一刻も早くソラを探し出して。
おまえは少しも悪くないんだと、この腕で抱きしめてやらなくちゃ。
そう、おれが最後にやるべきことは――。
「――ソラ、の……っ、と、ころ……へ……!」
急いでそこへ駆けつけるよ。
この体が、だめになってしまうまえに。