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ソラニワ  作者: 緒浜
19/53

019 Be My Last(後編)


 父親の記憶は幼すぎて曖昧だ。はっきり覚えているのは、膝の上に座って小さな赤いテレビを一緒に観たことと、いつも仕事帰りにラムネ菓子を買ってきてくれたこと。患っていたという記憶はないから、その死は事故か何か突発的なものだったと思う。新市街第三区で今までどおりの生活を続けるには相応の額の納税が必要で、もともとあまり丈夫でなく世渡り下手だった母は昼夜を通しての外働きの無理がたたってあっけなくこの世を去った。もしかしたら、夜の街で悪い病気をうつされたのかもしれない。母が家財の一切を託した知り合いは失踪。親類縁者のいなかったおれは第四区にある小さな孤児院に預けられた。本当に小さな孤児院で、そこらの民家と変わらない手狭な家に、先生、トモ兄、チサ姉、ユータの四人が暮らしていた。気さくな優しい人たちで、おれはそこでの生活にすぐに溶け込んだ。貧しいけれど穏やかな日々はある日突然、一人の男によって粉々に破壊された。家を訪ねてきたその男は先生と顔見知りのようだったが、その会話はすぐに言い争いヘと変わり、結局男は金めの物と先生の命、そして仲裁に入ったトモ兄の命までも奪って行方をくらませた。通報から数日後に現れた警官たちは、おれたちに身寄りがないのを知るや否や突然チサ姉を押し倒した。そのまま部屋に閉じ込められたおれたちは数日に渡って暴行を受けたが、その時の記憶は靄がかかっていてよく思い出せない。何日続いたのだろうか、地獄のような監禁状態が解かれたおれとチサ姉とユータは、『虹ノ谷』を渡り大陸の東へと連れていかれた。『裏』界隈のいかがわしい店に売り飛ばされる寸前、チサ姉はその身を犠牲にしておれとユータを逃がしてくれた。二人きりになったおれたちは見知らぬ街を点々と彷徨った末に『貧困街』へと流れ着き、餓死寸前のところを透也に拾われその群に入れてもらえることになった。『ノラ』としての生活は、西とは比べ物にならないほど過酷だった。飲み水、食料、雨風の凌げる寝床と毛布。第四区では最低限保証されていたものが、ここでは手に入らない。それらの確保と調達に朝から晩まで走り回る日々。強い群に食料を横取りされることもあった。『ノラ』だからというだけで殴られたり、石をぶつけられることもあった。それでも、おれは一人ではなかった。初めは西の出身者に冷たかった群の仲間たちとも次第に打ち解け、おれたちは家族のように暮らしていた。

 これで最後にしたかった。失うのは、もうたくさんだ。

 大切な人。大切な場所。愛しいものを失う度におれの魂は深く鋭くひび割れて、後はもう、ほんの一息でバラバラに壊れてしまうだろう。

 これ以上は耐えられない。

 だから、これで最後。

 この人たちと共に日々を過ごし、歳を重ね、ここに骨を埋める。

 また失って、新しい拠り所を探すなんて。

 ましてや、ひとりぼっちになるなんて。

 耐えられない。




 ――そう思っていたのに。




 凍てついた空気が剥き出しの頬に爪を立てる。冷えきった鼻先はその存在すら消え去ってしまったかのようだ。体に巻き付けていたボロ布を鼻の上まで引き上げて、ジインは視界に入る景色をぼんやりと眺めた。

 がらんどうの廃墟に満ちる青い闇。いつものねぐらとは違う、なじみのない闇の色だ。

 比較的暖かで住み心地のよかったねぐらを見知らぬ群に奪われたのは、すでに陽も落ちてますます雪の勢いが増した頃だった。

 年齢も体格も人数も圧倒的に上回る『ノラ』の群に手酷く痛めつけられた後、皆で体を引きずるように手分けして雪をしのげる場所を探しまわり、どうにか見つけたのがこの打ち捨てられた倉庫だった。

 扉の閉まらない出入り口からは、白い光とともに雪がちらちらと舞い込んでいる。

 聞こえる音は、自分の呼吸だけ。

 とても静かだ。

 肩に寄りかかるユータが重い。硬くて冷たくて、とても重い。

「重いよ、ユータ……」

 他の皆を起こさないよう声を落として、となりで眠る少年を呼ぶ。返事はない。

「……ユータ、重いってば……」

 身じろぎをする。ゆっくりと傾いだユータが、ごとりと硬い音を立てて床へ転がった。

 不自然なその音に、ぎくりと心が強張る。

 そっと振り返り、ジインは恐る恐るユータの横顔を見つめた。穏やかに下がった眉と、ぽかんと開いた唇。いつものユータの寝顔だ。けれど、どこかおかしい。いつもと違う。何かが、違う……。

 身を寄せあう群れの仲間を見回す。手の届く場所に傷のある頬があった。まぶたを開けているのに、その眼差しはここではないどこかへ向けられていて。

「透、也……?」

 手を伸ばす。指先が触れた瞬間、ジインは弾かれたように手を引っ込めた。かじかんだ指でもそうとわかる。それはもう、人間の感触ではなかった。

「ザザ……香月……イルテ……?」

 一人一人名前を呼んでいく。誰一人、返事をする者はいない。

 まさか、そんな。

 鼓動がせわしなく胸を打ちはじめる。

「……透也……ねぇ、透也、起きてよ……!」

 肩を揺さぶる。どこか遠くを見つめたまま、透也の眼差しはぴくりとも動かない。揺さぶる腕を止めると、辺りは一層しんと静まり返った。

 自分の吐く白い息だけが、凍りついた世界をゆっくりと過っていく。

「あ……そんな……」

 まさか、そんな。

 こんなことって――。

 仲間たちの青白い顔が闇の中でぼんやり光る。

 それはまるで、薄気味悪い絵画のようで。

「……――うそ、だ」

 嘘だ、嘘だ、こんなこと。

 そうだ、これはきっと夢に違いない。

 腹が減り過ぎて、悪い夢でも見ているんだ。

 こんなもの、現実であるはずがない。

「火……たき火、は……」

 かき集めた廃材でおこした火はとうの昔に消え失せ、冷たくなっていた。

 なにか燃やすものさえあれば、火がおこせる。

 そうだ、火にあたって暖まれば、きっとみんな元気になる。

 だから、大丈夫。まだ、間に合う――。

「待ってて……今、なにか探してくるから」

 よろよろと立ち上がる。途端に、空っぽの臓腑がぎりぎりと軋んだ。

 陸島全土を襲った未曾有の大寒波は物流までもを凍りつかせ、ここ数日は金を持っている者でさえ食料を手に入れることが困難になっていた。

 足に力が入らず、ジインはよろけて透也の上に倒れ込んだ。押される形で何人かが床へ倒れたが、誰ひとり目を覚ますこと無く、窮屈そうな体勢のままただ静かに眠り続けている。

「……――っ、」

 後じさりながら、だいじょうぶと呪文のように唱え続ける。

 大丈夫。大丈夫。大丈夫。

「まだ、間に合う……」

 無言の仲間たちをその場に残し、ジインはひとり倉庫を後にした。

 街は恐ろしいほどに静まり返っていた。まるで世界中の人間が霞となって消えてしまったかのようだ。

 一向に降り止まない雪が絶えず視界を過るけれど、それらは虫の吐息ほどの音も立てずにただ静かに降り積もっていく。音を立てるものと言えば、雪を踏みしめる自分の足と、吐き出した途端に白く濁る吐息だけだ。

 大量の雪に覆われた路地はいつもと様子がすっかり変わっていた。今歩いているのがなじみの道なのか、あるいは見知らぬ路地なのか、それすら判断がおぼつかない。

 路地の隅にこんもりと積もった雪の山を見つけて、ジインはそれを掘った。下に何か埋まっている。ただの不燃物だろうか、それとも……。

「……うっ」

 思わず飛び退く。人だ。人の髪の毛が、雪から生えている。行き倒れた人だろうか。見れば、路地には似たような雪の塊が点々と続いていた。

 白く清廉だった路地が、急におぞましく不穏な気配に満ちる。

 疑わしい雪の塊は避けつつ、焚き火用のドラム缶と思しき円柱状の雪のオブジェを選んで掘り返す。どれもこれも厚い雪の下に燃え滓が残っているだけで、燃やせそうなものは一向に見つからない。

 ここ最近、市場には全資源の回収と再利用の為に開発されたという新素材が増え、廃棄物もその多くが燃えない素材となっていた。固形燃料を買う金を持たない『ノラ』たちは少しでも暖かなねぐらを求めて縄張り争いを繰り返しており、『貧困街』の片隅で細々と暮らしていたジインたちがとつぜん見知らぬ群の襲撃を受けたのもその余波があってのことだろう。

 さんざ彷徨い歩いても、燃やせるものは紙くず一つすら見つからなかった。

「早く……早く、たき火を」

 もう手当り次第に雪を掘る。

 真っ赤になった指先を刺す雪の冷たさは、まるで鋭いナイフのようだ。

 かじかんでうまく動かない指をぶつけるようにして、ジインはがむしゃらに雪を掻いた。

「早く……早く……」

 何でもいいから、何か燃やせるものを――。

 ふいに雪の中になにか赤いものが見えた。

 ――血だ。

 両手を見下ろすと、擦りむいた手指に血が滲んでいた。

「……痛い」

 もうほとんど感覚のない指先からちくりとした痛みが這い上がり、脳をつついた。

 かじかんだ両手を握り込む。ゆらゆらと視界が滲み、両目から涙がこぼれ落ちた。

 手が痛い。指が痛い。

 この痛みは、夢なんかじゃない。

 これは、まぎれも無い現実だ。

「……み、んな……ッ!」

 みんな、ごめん。

 もう、だめなんだ。

 何もかも、もう遅い。

 もう、間に合わないんだ。

 喉の奥から嗚咽が込み上げる。溢れ出そうになるそれを無理やり呑み込んで、ジインは空を仰いだ。

 冷たく濁った夜空から舞い落ちる、何千何万という雪の欠片。止めどなく降り注ぐそれを頬に受けながら、震える呼吸をどうにか静めて、深呼吸を一つした。

「……帰ろう」

 みんなのところへ帰ろう。

 もう何もかも手遅れけれど。

 もうなにもしてあげられないけれど。

 せめて最後まで、みんなと一緒に――。

 よろよろと立ち上がり、もと来た道を戻ろうと振り返って、ジインは唖然と立ち尽くした。

 真っ白な十字路はどの道も見分けがつかず、東西はおろか、もと来た道さえわからない。雪の上に残っていたはずの自分の足跡も、新たな雪に覆われてきれいさっぱり消えている。

「みんな……どこ……?」

 雪と夜とに惑わされるまま、見知らぬ路地を彷徨う。

 どちらを向いても、在るのは冷たい雪ばかりだ。

 生き物の気配が消え失せた、白くて寒いだけの世界。

 まるで、何もかもが雪の白さにかき消されてしまったかのような――。

「――そうか」

 そこでようやく気がつく。

 もう、誰もいないんだ。

 たとえ、あの倉庫に再びたどり着いたとしても。

 もう、誰も。

 透也。ユータ。群のみんな。チサ姉。トモ兄。先生。母さん。父さん。

 大好きだった人たちは、もう誰もいない。

 みんな、いなくなってしまった。

 体中の力が抜け、その場に膝をつく。両膝が深く雪に埋まった。

 うなだれた頭に肩に、雪が容赦なく降り積もっていく。

 もうこのまま、ここで終わってしまおうか。

 だってもう、自分にはなにもない。

 心も体も、もう空っぽだ。

 行くあても。帰る場所も。

 もう一度立ち上がる気力も、体力も。

 これ以上歩く理由も。

 生きる理由も。

 もう、無い。




「……――、」




 まぶたを開ける。なにか聞こえた。人の声だ。

 誰かがどこかで叫んでいる?

 降りしきる雪にかき消されそうなほどかすかな声だというのに、音も色も匂いもない静寂の中でそれはひどく鮮明で。

 真っ白な世界に、ただ一つ紛れ込んだ異物。

 細い細い針先でわずかに肌を引っかくように、その声は消え入りそうだったジインの意識を現実へと引き戻した。

「だ、れ……?」

 足に力を入れると、背中が軋んだ。最後に何かを食べたのはいつだったろうか。見えない手で上から押さえつけられているかのように体が重い。それでも、空っぽの体の隅々から集められるだけの力をかき集めて、ジインはもう一度立ち上がった。

 一歩一歩、まるで引き寄せられるように、声のする方へと足を運ぶ。

 ゆっくりと近づくうちにそうと気がつく。これは赤ん坊の泣き声だ。

 路地の真ん中、降りしきる雪の向こうに何か立っていた。

 石像? いや違う。人だ。

 膝をついた状態で、凍りついた女の人。

 泣き声は、その腕から聞こえていた。

 抱かれたボロ布の雪を払い、そっと開く。途端に、大きな音の塊が頬にぶつかった。

 赤らんだ顔。小さな手指。くしゃくしゃの細い髪。本物の生きた赤ん坊だ。

 小さな口をいっぱいに広げて、赤ん坊はぎゃあぎゃあと泣きわめいていた。

 ものすごいエネルギーだ。

 元気があるとか威勢がいいとか、そんな言葉では収まりきらない。触れたら火傷をするのではないかと危ぶむほどに、赤ん坊からは目に見えない力がみなぎっていた。

 まるで真夏の太陽がまるごと詰まっているみたいだ。

 生命力、というやつだろうか。

 ふっくらした頬を、そっとつついてみる。やわらかい。そして、温かい。

 凍りついた腕から慣れない手つきで恐る恐る赤ん坊を抱き上げ、上着の中に抱き込んだ。

 胸から体中へ、じんわりと温かさが広がる。

 まるで春の日なたを抱きかかえたみたいだ。

 ああ、なんて温かいんだろう。

 その温かさは服を通して肌に伝わり、体の奥の奥までしみ込んでいった。




 ふわりと水面に浮き上がるように、ジインは目を覚ました。

 まっくらで、音がない。まるで影法師の中にぽちゃんと頭まで浸かってしまったかのようだ。上下左右、体をまるごと包むように、ぶよぶよしたものや、ごつごつしたものや、がさがさしたものがひしめき合っている。かすかな腐臭を含んだ埃っぽい空気が充満していて、何だかとても息苦しい。

 ここはどこだろう。

 胸の上でもぞりと何かが動いた。赤ん坊だ。あーとかうーとか、赤ん坊特有の意味不明な言葉を発しながら、両手両足をもぞもぞと動かしている。

 ややあって、ジインはここが古びたコンテナの中であることを思い出した。『貧困街』の住民が売ることも燃やすことも出来ない本当の“不要物”を好き勝手に投棄している大きなコンテナだ。不要物といっても他の人間にとっては“要物”であることも少なくないため、コンテナは無人の物々交換場のような役目を果たしていた。路地に沿って並ぶこのコンテナの一つには、裏側に子どもひとりがやっと通れるくらいの穴が開いており、透也たちとよく訪れては、中に潜り込んでなにか使えるものはないかと物色していた。

 どうやってここまで辿り着いたのだろう。赤ん坊を抱いて路地を彷徨ったような覚えはあるけれど、記憶は曖昧だった。

 今は何時だろう。外は、街はどうなったのだろうか。

 入ってきた穴を手探りで探す。上の方にひやりと濡れた壁があった。まわりの鉄の部分とは感触が違う。これは雪だ。どうやら積もった雪が穴を完全に塞いでいるらしい。

 途端に息苦しさが増したように感じ、ジインはゴミの中から硬そうなものを選び急いで雪を削った。ほどなく闇に白い光が滲み始め、雪に小さな穴が開いた。新鮮な空気の気配に、ほっと息を吐く。外は明るく風も穏やかで、雪は止んだようだ。自分一人がぎりぎり通れるほどに穴を広げると、ジインは赤ん坊を抱いてコンテナから這い出した。

 まぶしい。そして、とても静かだ。

 あれほど降り続いた雪はぴたりと止んで、見上げる空は抜けるような青色だ。降り注ぐ日差しはまだ雪を溶かすほどの温かさはないけれど、敷き詰められた純白に反射して空気までも光らせている。

 静かだ。本当に静かだ。

 当てもなく通りを彷徨ってみて、ジインは音が無い理由に気がついた。

 人が、いない。

 生き延びて喜び合う声も、誰かを失って嘆く声も、何一つ聞こえない。

 まるで世界から人という人が消え去ってしまったかのようだ。

 みんな、どこへ行ってしまったのだろう。

 雪でコーティングされた階段を、足を滑らせないように注意深く登っていく。透也たちとよく来た場所だ。ここからなら、街の全景が見渡せる。

 いつもの何倍もの時間をかけてたどり着いた屋上も、真っ白な雪に覆われていた。凍りついた雪の上を足元を確かめながら慎重に横切る。

 その間中、赤ん坊は小さな両目をしっかりと開いてジインの顔をまじまじと見上げていた。とても鮮やかな空色の瞳だ。足を止めて見つめ返すと、澄み切った瞳が不思議そうに二、三度瞬いた。

 薄桃色のやわらかな頬に、ピカピカのガラス玉のような瞳。くしゃくしゃの金髪は、ケーキの上にのったふわふわの飴細工を思い起こさせた。よだれで光る小さな唇は可愛らしいピンク色で、よく熟れた果実のようにぷくっと膨らんでいる。

 何だか、クリームかなにかで出来てるみたいな生き物だ。

 落っことしたりしたら、赤ん坊はぺしゃんこに潰れてしまうかもしれない。

 足を滑らせないよう細心の注意を払って、ジインは歩いた。かすかな風が頬を撫でる。屋上の端へ近づいたところで、ジインはようやく足下から目を離して顔を上げた。

「――……、」

 見渡す限りの、青と白。

 世界は、たった二色になっていた。

 陸地はすべて輝くばかりの白に染まり、横暴なほどに青い空には雲ひとつ見当たらない。

「――すごい」

 圧倒的な光景に言葉を失う。

 たった二色の新世界。

 そこには生き物の気配が少しも感じられなかった。

 あるものは、世界を二分する青と白。そして、自分と赤ん坊。それだけだ。

 何もかもが、強制的にリセットされた世界。

 それはいっそ、清々しいほどで。

「は……ははっ」

 思わず笑い出していた。少しもおかしくないのに、顔が歪んでいびつな笑みになる。

「はははっ! 見ろよ、みーんな埋まった!」

 その景色を見せつけるように、赤ん坊を前に突き出す。

「雪に埋もれて、みんな消えちゃったんだ! 人でなしの人売りも、性悪な雑貨屋のオヤジも、ねぐらを横取りした群の奴らも、西の街も、東の街も、みーんな……っ」

 声が詰まる。両目の奥がぎりぎりと熱くなった。

 食いしばった歯の奥から、低い呻きが漏れる。

 みんな埋まった。

 みんな、いなくなってしまった。

 父さん。母さん。先生。トモ兄。チサ姉。ユータ。透也。群のみんな。

 いなくなった……いや、違う。

 奪われたんだ――この世界に!

 どんなに深く愛しても。どんなに強く抱きしめても。

 奪われる。もぎ取られる。引き剥がされる。

 こんな世界。

「もう、いい」

 こんな世界なんて。

「もう、いらない!!」

 いらない。いらない。もうたくさんだ。

 だってこんなの、ひどすぎる。

「……――もう、嫌だ」

 つらい。苦しい。もうたくさんだ。

 苦しすぎて、息ができない。

 不規則な呼吸を繰り返す。まるで肺が呼吸することを拒んでいるかのようだ。

 体が、心が、もう生きたくないと叫んでいる。

 腕の中から不明瞭な声が上がる。澄みきった瞳と目が合った。

 きれいな目だ。磨き立ての宝石みたいな目だ。

 この世には希望しか存在しないのだと、信じて疑わない目だ。

 赤ん坊を抱いていた腕をゆっくりと伸ばす。路地は遥か下だ。

「なあ、おまえ、生きたいか? こんな世界で」

 どれほどもがこうと、どんなに抗おうと、世界はすべてを奪っていく。

 理不尽で、傲慢で、非情な世界。

「こんな世界で、おまえ、本当に……」

 足をばたつかせながら赤ん坊が笑った。

 いや、もしかしたら光ったのかもしれない。

 一瞬赤ん坊が輝いたように見えて、ジインはまぶしさに目を閉じた。

 まぶたを開けた次の瞬間、視界に飛び込んできたのは、太陽のような満面の笑顔だった。

 陽の光を弾き返して、その瞳がきらきらと輝く。見上げる空をそのまま映し込んだような、驚くほど鮮やかな青だ。

 希望というものに色があったら、きっとこんな色をしているに違いない。

「おまえもいつか、持っていかれるのかな……この世界に」

 こんなにもきれいな瞳を。無垢な笑顔を。

 奪うのか。

 奪えるのか。

 何もしないまま、奪われてもいいのか。

 ――いいのか?

 体の奥底、魂の深いところに、熱く輝く灯がともる。

「なあ、こうしよう」

 言いながら、ジインは赤ん坊を高々と空に掲げた。

 きゃらきゃらと明るい笑い声が頬に降る。

「今からおれは、全力でおまえを守る。何がどうなったってかまわない。ただおまえを生かすためだけに、おれのすべてを尽くす」

 体と心のすべてを尽くして、どんなことをしてでもおまえを守ると誓おう。

「それでも、もし、おまえを奪われたら……その時は」

 あがいて、もがいて、抗って、それでも何ひとつこの手に残らないのなら。

「その時は、おれもこの世界をやめる」

 こんな世界、捨ててしまって。

 おまえと一緒に、消えてしまおう。

「おまえを失う時が、おれの最後。……そう、おれにとっておまえは、最後の――……」




 おれをこの世に繋ぎ止める、最後の一人。

 たったひとつ残された、魂の楔だ。



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